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ふしあわせなやつら


タマは中学二年の春に、三年生の先輩にボコボコにされた。先輩がトイレで煙草を吸っているのを偶然目撃してしまったからだった。もちろんタマはそれをだれにも言うつもりはなかったし、殴られている間になんどもそのことを彼に伝えた。それなのに先輩はタマを殴ったり蹴ったりすることをやめなかった。その夜、ぼろぼろになって帰ったタマをみて母親は「気をつけなさいよ」と言った。タマは、こころの底から、「みんな死んでしまえ」とおもった。


次の日の朝、タマはいつもとおなじように電車を待っていた。いつもとおなじように朝ごはんを食べて、ばんそうこうだらけの顔で道を歩いてきた。今日は体育があるので体操服も持っていた。あんなことがあった翌日だ。また先輩に会えば殴られるかもしれない。タマのなかには呪いがびっちりと充満していて今にも爆発しそうなのに、いつもスイッチを押せなかった。夜のうちはだれだって殺せるようなおもいでいるくせに、朝が来るといつも怖気づくのだ。そういう毎日だった。
そのとき、タマの横にだれかが立った。そのだれかはタマの中学とおなじ制服を着ていた。タマはなんとなく見上げるのがこわくてうつむいていたが、だれかは平然とタマの苗字を呼んだ。タマがおそるおそる顔をあげると、そこにはミケがいた。ミケはタマの隣のクラスの男子で、おなじ小学校からあがってきた少年だった。ただミケは背が高くていつも怒っているような顔をしているし、左手の小指がなかった。第二関節から先が、かみちぎったようにないのだ。それは小学生のときからそうだった。臆病者のタマは、そんなミケと話したことがほとんどない。普段から異様な雰囲気の彼と話すなんて、よほど酔狂なやつか、わりと端正な顔に惹かれた頭の軽い女子だけだった。しかしミケはタマの名前を確実に呼んだのだった。
「……おい。きこえてんだろ」
「………な、なに」
「どーしたその顔」
「……べつに…」
タマはおどおどと答えた。先輩に殴られたんだよと言えばバカにされそうな気がしたからだ。ミケはそれきり黙ってしまったが、タマはこの沈黙がくるしくて歯を食いしばっていた。言わなくたってわかったかもしれない。暴力的なあの先輩がタマをボコボコにする場面なんて、誰が見ていても不思議じゃない。ミケはなにもかもわかっていて聞いたのかもしれない。そしてもうすでに、そんなタマのことを心からバカにしているのかもしれない。タマは突然腹が立ってきた。「ちくしょう、ぼくが怪獣ならお前なんかすぐに踏みつぶせるのに」タマはそんなことを思いながらもうつむいて、自分の汚れたスニーカーの先っぽを眺めていた。

そのとき、電車が来た。それはタマやミケの中学とはちがう方向に行く電車だった。タマはまだ自分のシューズをみていたが、そのときふとミケの気配がゆらいだのを確かに感じた。それと同時にタマの視界もぐらっとよろめいて、タマは「あっ」と声をあげた。タマはミケに引っ張られるがままに、その電車に飛び乗ってしまったのだった。


あまりに突然のことで、タマはすぐにその状況を理解できなかった。当のミケはタマのことをすぐに離してしまって、動く電車のなかをよたよたと歩き窓側にへばりついている。タマはすぐにミケに声をかけた。
「なんで?」
「なんでだろ」
「ぼ、ぼく。学校に行かなくちゃいけないんだよ」
「おれも」
「この電車は違う方向なんだよ。帰らなきゃ」
「どうやって?」
「それは………、」
タマは、いつも家と学校の往復しかしてこなかった。だからこの電車に乗ったことはなかったし、この電車を降りてどういうふうにゆけば元の駅に戻れるのかもわからなかった。「ひきかえすんだから、逆方向の電車に乗ればいいはず。でもまた違う電車に乗っちゃったらどうしよう? 今度こそ帰れないかもしれない」そんなことを考えて、タマはだんだん真っ青になった。
「どうやって……どうやって帰るんだよ。どうするんだ」
「別にいいじゃん。帰らなきゃいい」
「そんなことしたら怒られるよ!」
「帰らなきゃ怒られない」
「そ、そんなこと」
「学校には具合が悪くなったから遅刻するって連絡すればいい」
「そんなの。うそだ」
「だからなんだよ」
ミケはそう言うと、すん、と鼻をすすった。そのときタマはようやく、ミケの制服が泥だらけなことに気が付いたのだった。黒い学ランに乾いた泥がたくさんへばりついていて、まるでくしゃくしゃにしたかのように皺がたくさんある。ミケがずっとポケットに突っこんでいる左手のことを考えて、言い返そうとしていたタマは口をつぐんだ。ミケは窓の外を眺めているまま、右手で吊革をつかむ。
「……なんか。もうどうでもよくなった。いろいろ。なんでおればっか不幸なんだろうとかそんなこと考えててもしょうがないし。そしたら遠くに行きたくなった。この電車に乗りたくなった」
ミケは、窓の外の流れる景色をみながら淡々と言った。タマはそんなミケの横に立ってしずかに彼を見上げていたが、だんだん、自分のなかの怒りや焦りがすーっと煙のように消えていくのを感じていた。
タマはほんとうのことを言わないかわりに、うそもほとんどついたことがなかったのだ。ちいさいころに聞いた狼少年のお話のように、いつしかみんなから愛想をつかされるのがこわかった。それでもタマはいま頭の中で、いかにうまく学校に連絡をとるかということをかんがえていた。ミケはそのぼんやりとした言葉をつづけた。タマはなんとなく気が付いていたのだ。自分は愛想をつかされるような人間ではないこと。愛想をつかすほど自分に興味のある人間なんてどこにもいないこと。ミケはようやくタマを振り返った。

「お前はちがうと思うけど、おれはお前のこと好きだよ。けっこう。だっておれたち、いつだって不幸せなやつらだ」







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