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やってらんねえよ




チクショウ。

人間生まれてきたからには出会いもあれば別れもあるもので、しかもそれがお互いにまだ若い命を爛々と燃やしている最中でも当然あるわけで、まあつまりは大学を出て4年付き合っていた恋人(元ノンケ・保険会社勤務・183センチ・坊主スポーツマン・あとめちゃくちゃ好みの顔)に「もうお前といるのしんどい」とかクソみたいなセリフを皮切りに恨みつらみをぶちまけられて俺はなんの心の準備もないまま奈落の底に突き落とされたような気がしておもわず吐き気をもよおした。いやほんとなにもこんな大雪の日じゃなくたっていいじゃねえか。辛気臭い話は太陽の下でするもんだって死んだばーちゃんも言ってた。口の中にはさっきまで食っていたラーメン(とんこつしょうゆ味)がまだコッテリ残っている。吐き気をなんとか我慢しながらとにかくふるえる指で煙草を一本取り出したけれど指が震えて火がつけらんねえよ俺は。オメーのせいだよクソッタレ。

恋人は俺のなにが気に入らないかというとまずだらしないことだそうだ。確かに俺は無職でパチンコ狂いの風俗好きだ。ゲイの癖に性欲を満たすためなら男はもちろん女だって簡単に抱くし、パチンコで得た金はだいたいそういうことに消えた。たまに大金が手に入ると恋人に服やら時計やらを買い与えてやっていたのに、なんかそれも別に嬉しくなかったとか今更ンなこと言われて俺どーすりゃいいの? 死ねばいい? 死ねばいいんなら死んでやるよ、ナメんなよ、こちとら現役高校生だったころから死にたがりだ。ダテにエグいためらい傷だらけの左腕ぶら下げて夏も長袖で生きてねえんだよ。とりあえず震える煙草にようやく火が付いたので落ち着いて肺に煙をめいっぱい吸い込んだ。恋人はそんな俺を黙って見ていたが、しばらくするとまた口を開いた。

「だらしないのは我慢するつもりだった。金のことももはや別にかまわない。でもお前が毎日毎日狂ったように酒と煙草とときにはハッパを呑んでおかしくなるまで女や男と寝るのだけはどうしても耐えられなかった。耐えようと思ってこの4年やってきたがそれももう限界だ。お前はおかしい。神経がおかしい。頭がおかしい。精神がおかしい。お前は病気だ。」………つってーとなに? お前ずっと俺のこと患者さんだと思ってたってこと? いやそれは違うよ俺病院行ったって睡眠薬しかもらってねーし、ハッパだって用法容量まもってるし、つーか今まで性病も持ったことないからその点も大丈夫だし、えっなにがだめなわけ? わけわかんねーんだけど? こんな大雪のなか二人で傘さして帰る途中になんでそういう話するの? わけわかんねえどうすんだよ? つーかどうしてほしいの?

煙草の煙と白い息を同時に吐き出した俺が震えているのに気が付いて、恋人は「寒いな」なんて見当はずれなことを言ってくる。「お………俺にどうしてほしいの?」まあとりあえずやっとこの言葉が口から出ました。ていうか今はこれが限界です。俺のすこし前を歩いていた恋人は立ち止まって、なんともいえない笑い方をした。

お前のこと、好きだったよ。ほんとに好きだった。でも、もう会えない。

それっきり言うと恋人は振り返らずにスタスタと雪道を歩き始めた。遠ざかっていく黒い傘とそれに積る雪。残されたのはしんしんと静かに降る雪たちとオンボロのビニール傘とひとりぼっちの俺。アメスピ1箱(残り3本)と100円ライター、財布(全財産4230円)。こんなつれえことって……つれえことってあるかよ!? こんなに寒い日に俺はたったひとり。携帯も持ってないし、たとえ今からあいつの家まで走って行ったって、あいつが頑固で真の通った男だってのは俺が一番知ってる。今更「愛してる」なんて言えるわけもない。言えるわけもないのだ。なぜなら俺が俺という人間を愛していないからだ。自分を愛せない人間は他人も愛せず。誰が言ったんだっけ、とりあえず今突っ立っているこの場所が悪い。なぜなら場末のカラオケから「カモメが翔んだ日」とか聴こえてくるのだ。「かもめが翔んだ~、かもめが翔んだ~、あなたは~一人で生きられるのね~」なんてあああああああマッジでやめてくれ!!! 耳を塞ごうと両手をあげると、思わず傘と煙草を落としてしまう。雪が首筋の裏に落ちてきて寒くて寒くて死にうなので、俺は前かがみになった。そしてこみ上げた嫌悪感を停めることもできずにさっき食ったラーメンを真っ白い雪にぶちまける。「ヴォエエ、エエ……」チクショウ。なにもこんな雪の日に。むなしくってやりきれねえよ。





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ふしあわせなやつら


タマは中学二年の春に、三年生の先輩にボコボコにされた。先輩がトイレで煙草を吸っているのを偶然目撃してしまったからだった。もちろんタマはそれをだれにも言うつもりはなかったし、殴られている間になんどもそのことを彼に伝えた。それなのに先輩はタマを殴ったり蹴ったりすることをやめなかった。その夜、ぼろぼろになって帰ったタマをみて母親は「気をつけなさいよ」と言った。タマは、こころの底から、「みんな死んでしまえ」とおもった。


次の日の朝、タマはいつもとおなじように電車を待っていた。いつもとおなじように朝ごはんを食べて、ばんそうこうだらけの顔で道を歩いてきた。今日は体育があるので体操服も持っていた。あんなことがあった翌日だ。また先輩に会えば殴られるかもしれない。タマのなかには呪いがびっちりと充満していて今にも爆発しそうなのに、いつもスイッチを押せなかった。夜のうちはだれだって殺せるようなおもいでいるくせに、朝が来るといつも怖気づくのだ。そういう毎日だった。
そのとき、タマの横にだれかが立った。そのだれかはタマの中学とおなじ制服を着ていた。タマはなんとなく見上げるのがこわくてうつむいていたが、だれかは平然とタマの苗字を呼んだ。タマがおそるおそる顔をあげると、そこにはミケがいた。ミケはタマの隣のクラスの男子で、おなじ小学校からあがってきた少年だった。ただミケは背が高くていつも怒っているような顔をしているし、左手の小指がなかった。第二関節から先が、かみちぎったようにないのだ。それは小学生のときからそうだった。臆病者のタマは、そんなミケと話したことがほとんどない。普段から異様な雰囲気の彼と話すなんて、よほど酔狂なやつか、わりと端正な顔に惹かれた頭の軽い女子だけだった。しかしミケはタマの名前を確実に呼んだのだった。
「……おい。きこえてんだろ」
「………な、なに」
「どーしたその顔」
「……べつに…」
タマはおどおどと答えた。先輩に殴られたんだよと言えばバカにされそうな気がしたからだ。ミケはそれきり黙ってしまったが、タマはこの沈黙がくるしくて歯を食いしばっていた。言わなくたってわかったかもしれない。暴力的なあの先輩がタマをボコボコにする場面なんて、誰が見ていても不思議じゃない。ミケはなにもかもわかっていて聞いたのかもしれない。そしてもうすでに、そんなタマのことを心からバカにしているのかもしれない。タマは突然腹が立ってきた。「ちくしょう、ぼくが怪獣ならお前なんかすぐに踏みつぶせるのに」タマはそんなことを思いながらもうつむいて、自分の汚れたスニーカーの先っぽを眺めていた。

そのとき、電車が来た。それはタマやミケの中学とはちがう方向に行く電車だった。タマはまだ自分のシューズをみていたが、そのときふとミケの気配がゆらいだのを確かに感じた。それと同時にタマの視界もぐらっとよろめいて、タマは「あっ」と声をあげた。タマはミケに引っ張られるがままに、その電車に飛び乗ってしまったのだった。


あまりに突然のことで、タマはすぐにその状況を理解できなかった。当のミケはタマのことをすぐに離してしまって、動く電車のなかをよたよたと歩き窓側にへばりついている。タマはすぐにミケに声をかけた。
「なんで?」
「なんでだろ」
「ぼ、ぼく。学校に行かなくちゃいけないんだよ」
「おれも」
「この電車は違う方向なんだよ。帰らなきゃ」
「どうやって?」
「それは………、」
タマは、いつも家と学校の往復しかしてこなかった。だからこの電車に乗ったことはなかったし、この電車を降りてどういうふうにゆけば元の駅に戻れるのかもわからなかった。「ひきかえすんだから、逆方向の電車に乗ればいいはず。でもまた違う電車に乗っちゃったらどうしよう? 今度こそ帰れないかもしれない」そんなことを考えて、タマはだんだん真っ青になった。
「どうやって……どうやって帰るんだよ。どうするんだ」
「別にいいじゃん。帰らなきゃいい」
「そんなことしたら怒られるよ!」
「帰らなきゃ怒られない」
「そ、そんなこと」
「学校には具合が悪くなったから遅刻するって連絡すればいい」
「そんなの。うそだ」
「だからなんだよ」
ミケはそう言うと、すん、と鼻をすすった。そのときタマはようやく、ミケの制服が泥だらけなことに気が付いたのだった。黒い学ランに乾いた泥がたくさんへばりついていて、まるでくしゃくしゃにしたかのように皺がたくさんある。ミケがずっとポケットに突っこんでいる左手のことを考えて、言い返そうとしていたタマは口をつぐんだ。ミケは窓の外を眺めているまま、右手で吊革をつかむ。
「……なんか。もうどうでもよくなった。いろいろ。なんでおればっか不幸なんだろうとかそんなこと考えててもしょうがないし。そしたら遠くに行きたくなった。この電車に乗りたくなった」
ミケは、窓の外の流れる景色をみながら淡々と言った。タマはそんなミケの横に立ってしずかに彼を見上げていたが、だんだん、自分のなかの怒りや焦りがすーっと煙のように消えていくのを感じていた。
タマはほんとうのことを言わないかわりに、うそもほとんどついたことがなかったのだ。ちいさいころに聞いた狼少年のお話のように、いつしかみんなから愛想をつかされるのがこわかった。それでもタマはいま頭の中で、いかにうまく学校に連絡をとるかということをかんがえていた。ミケはそのぼんやりとした言葉をつづけた。タマはなんとなく気が付いていたのだ。自分は愛想をつかされるような人間ではないこと。愛想をつかすほど自分に興味のある人間なんてどこにもいないこと。ミケはようやくタマを振り返った。

「お前はちがうと思うけど、おれはお前のこと好きだよ。けっこう。だっておれたち、いつだって不幸せなやつらだ」







かけおちる夢のなかバラの花畑



その場所に降りたとき、わたしは自分が靴を失くしたことに気が付きました。いつの間にか裸足だったのです。わたしはとてもびっくりして、でもきっと失くしたのは電車のなかだと思いました。横には恋人がいて、わたしたちは駆け落ちをしているのでした。

このまま裸足で居ると、恋人に嫌われてしまう。とわたしは思いました。そこでわたしは恋人の傍をそっと離れて、知らないお家の知らない人の靴を盗んで履きました。黒いハイヒールでした。それはまるでわたしのためにあったような靴で、わたしに履かれたことを喜んでいるような気配がしました。わたしは悪いことをしているつもりなんかこれっぽっちもなくて、ただその事実だけを胸に抱きしめて恋人のもとへ向かいました。ふたりでどこまでもどこまでも行こうと思いました。


ところが、その靴はこの国のいちばん偉い女の人の靴でした。その女の人の一番お気に入りだったらしいのです。そんなことは知らなかったんですなんて言っても、通用しないくらいに、女の人は怒っていました。わたしはその黒いハイヒールをカツカツ鳴らしながら国中を逃げ回りました。恋人はいつの間にかいなくなっていたのでした。


もう逃げ場はないんだなあと思ったのは、川のふちまできたときでした。いろんな恰好をしていろんな武器をもった殺し屋がたくさんわたしを追ってきていて、ありとあらゆる残忍なことをしようと鬼の形相で取り囲んでくるのです。雑草に埋もれて眠れない夜を過ごすのも、なにもしらない太陽が昇るのが恨めしくてくちびるの皮を噛み切ってしまうのももうたくさんでした。わたしはとても疲れていました。もう靴なんていらないから、解放してほしいと思いました。でもそんな言い訳はとても通用しませんでした。この国でいちばん偉い女の人はただただわたしの死を望んでいました。殺し屋たちも、国中のにんげんも、きっと恋人も、そうでした。わたしも、そうでした。わたしは死にたいと思いました。


そのときひとりの女がわたしの前に現れました。SMプレイで女王様が着るみたいな、ボンテージというのでしょうか、そういう身体にぴったりとくっついたような服を着て、高い高いヒールのブーツを履いた女でした。彼女は殺し屋でした。わたしを殺すために、あの女の人に雇われたのです。わたしは、女に言いました。

「わたしを殺してくれるんですか」

女はうなずきました。黒いロングのストレートヘアがさざなみのように揺れていました。わたしはとてもほっとして、なみだがでました。この女がわたしを殺してくれるんなら、本望のような気がしました。わたしはハイヒールを脱いで、川に投げ捨てました。そうして女に「なるべく苦しまないように、殺してくれませんか」と頼みました。女はうつくしい無表情で「いいよ」と答えましたん。わたしは女に近寄って、「それから、最期のおねがいをしてもいいですか」と尋ねました。

「わたしとお散歩をしてくれませんか」

女はまた同じように「いいよ」と答えました。



女と連れ添って、わたしは歩きました。どこへ行くのかもわからないまま、あてのないまま、歩きました。女はなにも言わずにわたしの傍をかたときも離れずについてきてくれました。ときおり、ほかの殺し屋がわたしを狙ってピストルを撃ったり車で跳ね飛ばそうとしたりしてきましたが、女はそのたびにわたしを守ってくれました。わたしはずっと怖かったのですが、女はただただ「この少女を殺すのは私」というように、依頼された任務をただまっとうしているようでした。


逃げ回って、逃げ回って、盗んだ車に乗ってどこまでも行って、ロケットランチャーが車を壊しても、わたしたちは止まりませんでした。黒いサングラスとスーツを身に着けたたくさんの男たちがわたしたちに殺意を向けてきても、女はまったく怯みませんでした。強く、美しい女が立ち回る姿を、わたしはドキドキしながら見ていました。

そのうち私と女は、ついに追いつめられてしまって、崖の下に転がり落ちました。身体中が痛んで、脳が揺れています。むきだしの足は黒く汚れて血まみれで、わたしはもうぼろぼろでした。もうこのまま眠ってしまおうかと思ったのですが、ふとまばたきをすると、真っ赤な景色が目に飛び込んできたのです。


そこはバラの花畑でした。棘のない可憐なバラたちが、たくさんたくさん咲いていました。わたしを庇うように覆いかぶさっていた女を見上げて、わたしは言いました。

「わたし、ここで死にたいです。ここで殺してください」

女はあたりを見渡して、バラの花を見つめていました。その横顔はまるで澄みきった水のようにとうめいで、やわらかで、わたしは彼女のことをとても愛おしいと思いました。そしてその横顔に見とれながらぼんやりと、自分が恋人と駆け落ちをしている途中だったことを思い出していました。

それは永遠のような一瞬でした。女は振り返って「いいよ」と答えました。そしてわたしにピストルの銃口をむけました。わたしは心の底から安心して、バラの花畑に寝ころんで目を閉じたのです。







目が覚めるとそこはベッドの上で、それが夢だったことに気が付くまでに時間がすこしかかりました。テレビをつけると国民的アニメの主人公が巨大な悪のボスと戦っていました。わたしはベッドにうずくまって、「正夢になったらいいなあ」なんて思っていたのでした。おしまい。





submarine



 わたしは彼女の日に焼けた手足がすきだった。手は細くておおきい。ぎゅっと握っているときの関節のあたりは、まるで砂浜の小石のようにうつくしかった。足はながくて、無防備にさらされたふくらはぎは少したくましくて、ひざのあたりに小さなピンク色の傷がある。ななめ後ろの席から見える彼女の身体は、あたまのてっぺんから爪先まで、生命がぎっしりと詰まっているように健康的だった。ただ見つめているだけでよかったはずなのに、その甘ったるい感情はいつの間にかほんとうの恋になっていた。わたしは彼女がすきだった。

 女の子が女の子をすきになるということは、まちがっていることだった。わたしはそう教えられてきた。だから誰にも言えなかった。もちろん彼女にも言えなかった。どうせ恋人同士になどなれやしないのだから、いちばんの友達であろうとした。
 はるか、とわたしを呼ぶ声がみずみずしい。夏の夕方は気が遠くなりそうなほどさびしくて、日の落ちた青白い廊下は、彼女の声にしんと静まり返った。はるか、帰ろう。彼女はそう言って、スカートをひるがえした。わたしは彼女に追いつくために廊下を走ってゆく。距離はすぐに縮まって、彼女の四肢からはほんのすこし汗のかおりがした。かかとを踏みつぶした上履きはうす汚れている。わたしはそれすらもうつくしいとおもった。彼女が彼女であるために、雑に見えるほど短く切りそろえられたショートカットや、無防備な足の先は大事なものだった。
 わたしは彼女の足をみつめていることに気が付いたのか、彼女はくちびるをとがらせながらわたしに呟く。
「はるかは、足が小さくっていいね」
「……そうかな、ふつうよ」
「ううん。はるかはなんもかんも小さくっていい。あたしたまにかなしくなるよ、自分の女の子っぽくないとことかさ」
 彼女はたまにこんなことを言う。彼女は彼女だからこそうつくしいのに。彼女がどれほど尊く清いいきものなのか、わたしなら夜まで語ることができるのに。でもこういうとき「ともだち」ならなんと言うか、わたしは知ってしまっているのだった。
「あなたはちゃんと女の子よ。だってとってもすてきだもん」
「もう、はるか。いつもありがと、そんなこと言ってくれて」
「ほんとうのことよ」
「うん」
 彼女は目をそらしてうなずいたけれど、きっとなにもわかっていない。わたしの心のなかにある、夜よりも濃い闇色の感情を。今ここで彼女の手をにぎって、「かなしくなんてならないで」と言えたなら。「あなたは誰よりもうつくしい」と言えたなら。でも、できない。
「はるか……、」
「なぁに?」
「わたし、はるかになれたらいいのに。はるかになってみたいな」
 彼女は言った。その横顔はひどくせつなくて、触れれば今すぐにでも壊れてしまいそうなガラスの心細さに似ていた。そのときわたしははっきりと、彼女のことをさらってしまいたいとおもった。

 彼女をさらって、どこか遠くの国にでも行って、ふたりきりで暮らしたい。このピンと張りつめてやぶれそうなほどやわらかな肌が、しわくちゃで色あせて紙切れのようになっても。わたしは彼女をうつくしいとおもうだろう。心からうつくしいとおもうだろう。わたしの愛はほんものだ。

「あさみ」
 わたしは彼女の名前を言った。その響きはやさしくて、まるで喉が火傷したかのように熱くなった。まぶたの裏がわからみるみるうちに涙があふれてこぼれそうになっても、わたしは彼女を見つめていた。視界はとろとろと融解していって、彼女がいまどんな顔をしているのかわからない。でもきっとうつくしいんだろう。わたしは愛に満ちている。こんなにも満ちているのに、この感情をことばにできない。ことばにしてしまったら、なにもかも失ってしまう。
 わたしは海の底でしずむ潜水艦だ。もううまく息もできない。あさみがすきだった。とてもとても、すきだった。



ハローグッバイ







帰ってくると、マキがブドウの皮をむいていた。しんとした部屋で机にむかってイスの上であぐらをかいている。ボウルと真っ白い皿との間を行き来するむらさき色の指先をみながら、俺はしずかに「ひさしぶり」とつぶやいた。マキは顔をあげなかった。
「ひさしぶりね」
「……どうしたの、ブドウ」
「もらったの。母さんから」
たんたんと答えるマキの横顔は落ち着いていた。人間はいついかなるときも、果物にむきあうと、しゃんとする。むかしマキがそう言っていたことをおもいだした。いついかなるときも。俺が突っ立ったままマキをみているのが嫌だったのか、マキは不機嫌そうな顔でテーブルに肘をついた。そのあいだももくもくとブドウがむかれている。

ボウルに残っているのは、もうほとんど死んだ皮ばかりだった。マキの濡れた指によって剥かれ、つつりとした光沢のある実だけが、あの汚れない真っ白い皿に着地することができるのだ。それは単純な作業だった。だからこそ、しゃんとするのだろう。マキの指の動きを見つめながら、ぼんやりと部屋の隅に立ったままだった。


放浪癖、みたいなものが、自分にあるかもしれないと気が付いたのはいつごろだったろう。ひとところに、いられないのだ。おなじような生活、おなじような風景、おなじような人間との関わり合いが1年2年と続いていくうちに、違和感を覚え始める。端的にいうと、きもちわるいのだ。同じ生活が繰り返される得体のしれない恐ろしさ、人間と生活を営んできたがゆえに生まれた圧倒的な生々しさみたいなものに体中がさいなまれて、やがて見動きもできなくなる。そうなってしまったら、おわり。俺はもうそこにはいられないのだった。すぐにでも逃げ出してちがう生活がしたくなる。


マキは高校の時からの彼女で、付き合いは10年ほどになるが、いまだにこの「放浪癖」には納得がいかないらしい。あたりまえだ。自分でもよくわからないほどなのだ。
マキと一緒に暮らしはじめて、半同棲も含め約10年程度の長い期間。はじめは自分でもよく自重していたけれど、ここ最近の放浪は度を過ぎている。どうしてもひとところにいられない。ほかの場所へ移って、そこにいられなくなったら、今度は別の場所へ。そこもだめになってからはじめて、この家へ帰ってくる覚悟を構えるのだ。そのへんのサイクルはあいまいで、帰りたいときに帰るし、帰るつもりがないときは2年や3年は平気で帰らない。今回は2年ぶりの再会だった。

マキはブドウを向きおわったあと立ち上がり、指先とボウルを洗うためにキッチンへと向かった。キッチンには見知らぬ調味料や食器が並んでいる。2年の間にいろいろあったのだろう。自分のなかの暗黙のルールは、かかわらなかった年月に相手がなにをしていようとそこに干渉はしないというものだった。マキはゴミをゴミ箱にぶちこみ、ボウルを手早く洗って食洗器へのせた。最後に両手を水でがしゅがしゅと洗って振り返ってくる。
「あのさ」
マキが、ことばを発する。ひさしぶりに聞く、彼女のかすれた声だった。
「あたしさ。最初のほうで、かなしいとかさびしいとか、不安とかそういうの考えつくしてる」
「うん」
「だけど最近はもう、全部に慣れて諦めてる自分に気が付いてさ」
「うん」
「気が付いたから、考えたんだけど」
「うん」
「あたしも逃げたいときあんのよ」
「……うん」
「あんたは、逃げないでいようとおもったことある?」
つやつやと光るブドウの実を見下ろしながら、マキがそう吐き捨てた。力なくぶらんとぶら下がった指先からは透明なしずくがポタリと落ちる。そのとき俺はしずかに、とてもしずかに終わりを悟った。


人生のまるごとが、出会いと別ればかりだった。それ以外には、なにもなかった。だからこそ、なにものこってはいなかったのだ。それでもマキは俺の帰って来られるところだった。どこへ行って出逢っても、なにをして別れても、人と人の波に疲れたときにふと思い出す家がある。マキの顔がある。そうやって俺はここに戻ってくるのに。
「逃げないでいようとおもったこと……あるよ」
「うそ!!」
マキは声をあらげた。その反動で、ブドウの入ったボウルが揺れる。一瞬の緊張感を無視して、マキは続けた。
「あんたはいつだって逃げることばかり考えてる。向き合おうとするまえに逃げる。だから私は、私は……私は、逃げなかった。あんたと向き合おうとしたわ。…でももう無理よ。…無理、なのよ」

ここはいつの間にか、俺の居場所ではなくなってしまった。らしい。ずいぶんと長い間ここにいたようなきもちだけれど、自分にとってはきっと短い期間で、マキにとっては10年以上の重ったるい時間の流れだったのだろう。何度も考えて、何度も嘆いて、何度も信じて、俺に振り回されたマキの10年間。ながい、ながい10年間。



「……そうか。無理かぁ」
口から出た声は、あまりにもなさけないものだった。もしかしたらすこし泣いていたかもしれない。自分の帰る場所をなくした。唯一の愛を失った気がした。出会いと別れを繰り返すたびになにもかも捨ててきた俺が、どうしても手放したくなかったものが。音もなく消失していた。

俺はマキに向き合ったまま、あいまいに笑っていた。ほんとうは笑いたくなかったが、こんなときに出てくる表情がこんなもんしかないから仕方がない。仕方がない。仕方がないんだ。
「マキ、ごめんな」
「謝らないで。惨めになるから。だってあたしたち、この結論からはもう逃げないでしょ」
マキはそう言うと、ブドウを一粒つかんで口にいれた。その横顔は泣いているようにも見えたし、ほっとしているようにも思えた。
「…俺も、もらっていい?」
「……どうぞ」
銀色のボウルのなかから、うすいブドウの粒をつまむ。毛細血管のように張り巡らされた筋たちのむきだしの果実。果汁がしたたって、さわやかな香りが鼻孔を抜ける。口にふくむと懐かしい味がした。故郷なんてとっくに忘れた放浪癖の俺が、なつかしいと感じるようなさわやかさ。

「うまい」俺は繰り返した。
「うまくてなつかしいよ」
なぜだか視界がゆがんで溺れて、ブドウの味はわからなくなった。マキが俺に背中をむけて震えている。ああ、そうか。ほんとうに、ほんとうに遅かったんだなあ。もうすこしはやく帰ってきていれば、俺はいまマキを抱きしめていられたのに。



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