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ハローグッバイ







帰ってくると、マキがブドウの皮をむいていた。しんとした部屋で机にむかってイスの上であぐらをかいている。ボウルと真っ白い皿との間を行き来するむらさき色の指先をみながら、俺はしずかに「ひさしぶり」とつぶやいた。マキは顔をあげなかった。
「ひさしぶりね」
「……どうしたの、ブドウ」
「もらったの。母さんから」
たんたんと答えるマキの横顔は落ち着いていた。人間はいついかなるときも、果物にむきあうと、しゃんとする。むかしマキがそう言っていたことをおもいだした。いついかなるときも。俺が突っ立ったままマキをみているのが嫌だったのか、マキは不機嫌そうな顔でテーブルに肘をついた。そのあいだももくもくとブドウがむかれている。

ボウルに残っているのは、もうほとんど死んだ皮ばかりだった。マキの濡れた指によって剥かれ、つつりとした光沢のある実だけが、あの汚れない真っ白い皿に着地することができるのだ。それは単純な作業だった。だからこそ、しゃんとするのだろう。マキの指の動きを見つめながら、ぼんやりと部屋の隅に立ったままだった。


放浪癖、みたいなものが、自分にあるかもしれないと気が付いたのはいつごろだったろう。ひとところに、いられないのだ。おなじような生活、おなじような風景、おなじような人間との関わり合いが1年2年と続いていくうちに、違和感を覚え始める。端的にいうと、きもちわるいのだ。同じ生活が繰り返される得体のしれない恐ろしさ、人間と生活を営んできたがゆえに生まれた圧倒的な生々しさみたいなものに体中がさいなまれて、やがて見動きもできなくなる。そうなってしまったら、おわり。俺はもうそこにはいられないのだった。すぐにでも逃げ出してちがう生活がしたくなる。


マキは高校の時からの彼女で、付き合いは10年ほどになるが、いまだにこの「放浪癖」には納得がいかないらしい。あたりまえだ。自分でもよくわからないほどなのだ。
マキと一緒に暮らしはじめて、半同棲も含め約10年程度の長い期間。はじめは自分でもよく自重していたけれど、ここ最近の放浪は度を過ぎている。どうしてもひとところにいられない。ほかの場所へ移って、そこにいられなくなったら、今度は別の場所へ。そこもだめになってからはじめて、この家へ帰ってくる覚悟を構えるのだ。そのへんのサイクルはあいまいで、帰りたいときに帰るし、帰るつもりがないときは2年や3年は平気で帰らない。今回は2年ぶりの再会だった。

マキはブドウを向きおわったあと立ち上がり、指先とボウルを洗うためにキッチンへと向かった。キッチンには見知らぬ調味料や食器が並んでいる。2年の間にいろいろあったのだろう。自分のなかの暗黙のルールは、かかわらなかった年月に相手がなにをしていようとそこに干渉はしないというものだった。マキはゴミをゴミ箱にぶちこみ、ボウルを手早く洗って食洗器へのせた。最後に両手を水でがしゅがしゅと洗って振り返ってくる。
「あのさ」
マキが、ことばを発する。ひさしぶりに聞く、彼女のかすれた声だった。
「あたしさ。最初のほうで、かなしいとかさびしいとか、不安とかそういうの考えつくしてる」
「うん」
「だけど最近はもう、全部に慣れて諦めてる自分に気が付いてさ」
「うん」
「気が付いたから、考えたんだけど」
「うん」
「あたしも逃げたいときあんのよ」
「……うん」
「あんたは、逃げないでいようとおもったことある?」
つやつやと光るブドウの実を見下ろしながら、マキがそう吐き捨てた。力なくぶらんとぶら下がった指先からは透明なしずくがポタリと落ちる。そのとき俺はしずかに、とてもしずかに終わりを悟った。


人生のまるごとが、出会いと別ればかりだった。それ以外には、なにもなかった。だからこそ、なにものこってはいなかったのだ。それでもマキは俺の帰って来られるところだった。どこへ行って出逢っても、なにをして別れても、人と人の波に疲れたときにふと思い出す家がある。マキの顔がある。そうやって俺はここに戻ってくるのに。
「逃げないでいようとおもったこと……あるよ」
「うそ!!」
マキは声をあらげた。その反動で、ブドウの入ったボウルが揺れる。一瞬の緊張感を無視して、マキは続けた。
「あんたはいつだって逃げることばかり考えてる。向き合おうとするまえに逃げる。だから私は、私は……私は、逃げなかった。あんたと向き合おうとしたわ。…でももう無理よ。…無理、なのよ」

ここはいつの間にか、俺の居場所ではなくなってしまった。らしい。ずいぶんと長い間ここにいたようなきもちだけれど、自分にとってはきっと短い期間で、マキにとっては10年以上の重ったるい時間の流れだったのだろう。何度も考えて、何度も嘆いて、何度も信じて、俺に振り回されたマキの10年間。ながい、ながい10年間。



「……そうか。無理かぁ」
口から出た声は、あまりにもなさけないものだった。もしかしたらすこし泣いていたかもしれない。自分の帰る場所をなくした。唯一の愛を失った気がした。出会いと別れを繰り返すたびになにもかも捨ててきた俺が、どうしても手放したくなかったものが。音もなく消失していた。

俺はマキに向き合ったまま、あいまいに笑っていた。ほんとうは笑いたくなかったが、こんなときに出てくる表情がこんなもんしかないから仕方がない。仕方がない。仕方がないんだ。
「マキ、ごめんな」
「謝らないで。惨めになるから。だってあたしたち、この結論からはもう逃げないでしょ」
マキはそう言うと、ブドウを一粒つかんで口にいれた。その横顔は泣いているようにも見えたし、ほっとしているようにも思えた。
「…俺も、もらっていい?」
「……どうぞ」
銀色のボウルのなかから、うすいブドウの粒をつまむ。毛細血管のように張り巡らされた筋たちのむきだしの果実。果汁がしたたって、さわやかな香りが鼻孔を抜ける。口にふくむと懐かしい味がした。故郷なんてとっくに忘れた放浪癖の俺が、なつかしいと感じるようなさわやかさ。

「うまい」俺は繰り返した。
「うまくてなつかしいよ」
なぜだか視界がゆがんで溺れて、ブドウの味はわからなくなった。マキが俺に背中をむけて震えている。ああ、そうか。ほんとうに、ほんとうに遅かったんだなあ。もうすこしはやく帰ってきていれば、俺はいまマキを抱きしめていられたのに。



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