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あっぱれろくでなし




自分で言うのもなんだけどあたしはどうしようもないほどのクズで、彼氏のカズキくんが初任給で家族を沖縄に連れてっている間に飲み屋で知り合ったゆーせいくんの家に行ってセックスをしてしまったりするし、ハタチのころちょっとだけ働いてたセクキャバの客たちや知り合いに借りた金が積もり積もって50万を突破しているし、やっと見つけた職場で初日に上司にメチャクチャ怒られてムカついたので次の日に無断欠勤してそのままバックれたりするようなことは平気でできてしまうのだった。島田カナ、無職。24歳。



昼間っからベランダでビールを傾けながらたばこを吸ってぼーっとしていた。もう1時間もそうしている。カズキくんからは「家族旅行に行ってくる」以来連絡はないのでたぶんもう二度と会う事はないし、会社や取立人からの電話がウザいので携帯の電源はずっと切りっぱなしだ。もちろん両親とは18歳で上京してから一回も連絡をとっていない。高校ではイジメられていたので毎週あれやこれやと話すような友達もいない。東京でできた友達はみんなから5万くらいずつ借りてバックれたので縁が切れまくって、唯一の知り合いといえば、18歳のころやっていたゲーセンのバイトで知り合った女子中学生ぐらいのもんだった。

女子中学生はハタチになっていた。今はアパートを借りて、近所のショボい本屋で働いている。名前は吉川ちま子。ダサいのは名前だけじゃなくて、生まれてこの方髪の毛は染めたことがなくいつもボサボサで、月にいっぺんだけあたしが適当に切っているせいでいつも不格好に短い。肉を食わないのでかわいくないほど痩せている。両親はエリートだけど子供に興味がなくて、兄貴はこんなブスにも性的暴力をふるうクソヤロウだった。そのせいで高校もろくに行けずに卒業できなくて、バカでマヌケでドジでのろま。そして今、家賃滞納で追い出されたあたしの面倒をみるほどのアホみたいなお人よしだった。


ちま子が仕事に行っている間はすることもないし、あたしはいつも勝手に暮らしている。ちま子のゲームを勝手に進めたり漫画を読み散らかしたり、飽きたら売って小金にしてパチンコや競馬につぎ込んだりしていた。ちま子はなにをやっても怒らなかった。というよりあたしが怖くて怒れないんだろう。いつもビクビクしながらあたしの顔色をうかがっている。あたしは酒に酔うと暴れるタイプだったけれど、そういうのにも一切口出しをしてきたりはしなかった。だからあたしはここにいるのが楽で気に入っている。今のところ真面目に働くつもりはないし、実家に帰る予定もない。
ちま子の堪忍袋の緒が切れるまでここにいるつもりだけど、いったいそれはいつ切れるのか。正直なところ、それがとにかく謎だった。あたしは自分で言うのもなんだけど相当のクズだしよっぽどの美人とかでもない。金になるものなんか祖母の形見のルビーの指輪ぐらいであとはなけなし、おまけに躁鬱持ちで薬を常用している。いったいぜんたいなんであたしなんかを家に置いているのか、なんかのペット的感覚なのかどうなのか。まぁペットだろうと寄生虫だろうとなんだっていいんだけどあたしは。生きてても死んでても同じようなもん。ユーレイだ。死人だ。リビング・デッドだ。

あたしは煙草の吸い殻をたばこの空き缶でもみ消して、ンーッとのびをした。そんな死人でも腹が減ったり眠くなったりするもんだからやってられない。アアなにもかもめんどくさいや。精神的には安定期だけど、そういうときは決まってとろとろとした眠気が慢性的に押し寄せてくる。あたしはごろんと仰向けに寝転がって、窓枠と天井のすきまから狭苦しい空をみあげた。





「…カナさん、」

は、とした。いつの間にか爆睡していたようだった。夜はクスリがないとすっかり眠れないくせにうとうとするとすぐこれだ。しかもご丁寧にベッドに移動までしていて、あたしは枕に顔を押し付けながらウーと唸った。寝起きはサイアク。嫌な夢を見た気がするし、歯を食いしばっていたせいで顎が痛い。
ちま子はそんなあたしを不安そうにのぞきこみながら、あたしの寝起きの機嫌を損ねないようにちいさく言った。
「カナさん、ごはん食べましたか?」
「……カレーのにおい」
「帰りにじゃがいもが安かったので」
「食う」
あたしがそう言いながら布団のなかで身をよじらせるのをみて、ちま子は安心したように笑って立ち上がった。ベランダの戸は閉められていて、ビールの缶もたばこもきれいに片づけられているらしかった。もしかしたらあたしをベッドまで運んでくれたのはちま子かもしれないとぼんやり思って、やっぱりそれはないと頭を振る。ちま子は小柄で痩せ型だけど、あたしはもともと女にしてはデカいし、ここ最近の躁の波ですこし太った。おおかた肌寒くなって自分でのろのろ移動したんだろう。あたしは寝起きの頭痛に耐えながらなんとかベッドを抜け出して、すぐそばにあるクッションにおしりを下した。

この部屋は狭い。ベッドがひとつと、こたつテーブルがひとつ、テレビ、大きめの本棚がひとつあるだけで結構みちみちている。あたしとちま子はこの8畳間で暮らしている。あとはキッチンと、お風呂と洗面台があるだけ。はみだしものの二人が生きていくのにはなんの問題もないスペースだと、あたしはおもっている。
食事はこのこたつテーブルで食べる。ちま子のパソコンが邪魔なので隅にどけて、あたしはカレーがこっちに来るのを今か今かと待っていた。腹は減る。腹は減るのだ。
「はい、どうぞ。カナさん」
ちま子はカレーとライスを盛った大きめの器にを、まずあたしの前に置いた。スプーンもちゃんとある。横にはキンキンに冷えた麦茶も置いてくれた。ちま子が自分の分をキッチンに取りに行っている間に、あたしはスプーンを手に取りカレーライスに第一刀を射し込んだ。
「んー、まい!」
鬱のときは食欲なんてほとんどないけど、躁を抜けたばっかのときはあんがいガツガツ飯が食える。しかもちま子はそれなりに料理上手だときてる。あああたしが男だったらちま子を嫁にもらってたかもしんない。しかしあたしは男ではないし、男だったとしても嫁を取れるほどの甲斐性は絶対にない。断言していい。
ちま子は自分のぶんのカレー皿を持ってきて、しずかに横に座った。
「んまいわ。カレーはやっぱ庶民カレーが至高だわ」
「そうですね」
「でもアレよ、たまーにガッツリ系のインドカレーとかめちゃくちゃカラいグリーンカレーが食べたくなったりすンのよね。衝動的にさ。マァそんなのすぐ飽きちゃうんだけど」
「ええ」
「キーマカレーとかさそういうオシャレなカレーさ。あれうまいけど飽きる。ちっさいころからみんなああいうオシャレカレー食ってるから、飽きないのかな?」
「そうですね」
「あとわたしカレーにチーズ入れるやつキライ。死ねばいいと思う。なんでもぶっこめっていう根性が気に入らない。殺したい。いやでもカレーもなんでもぶっこみ煮か。ごめん前言撤回」
「わかりました」
「つーか今日寝すぎた。あたまいたい。カレーうまっ。待ってあたし臭い?風呂入ったのいつだっけ」
「二日前です」
「なんだ、まだ大丈夫だな」
ちま子は小さく微笑んだ。あたしは自分の脇のにおいを嗅いだせいでカレーを食う手を停めていたけれど、そんなちま子を見てふと気が付く。なんで笑ってんだコイツ? 生まれたころから不幸なくせして、生まれたころから人生なめくさってるあたしを養って、カレーまで食わせて、さらに仕事しないわ身近なやつからの借金まみれだわ飯食ってるとき静かにできないわ、最悪じゃん。いったいなにが面白いんだ?
「なんで笑ってんの?」
「え……、ご、ごめんなさい」
「いや謝らなくていいからなんで笑えるのか教えて」
「わ、笑える?」
「笑ったじゃん今。ねえ考えても見てよあたしらこの近所じゃぶっちぎりで不幸でクソッタレな関係だと思うんだけど。レズじゃねえからセックスもできないし。男じゃないからアンタを嫁にもらってやることもできないんだよ。貴重な二十代をなに無駄にしてんの? ぜんぜん笑えねえよ」
あたしはそこまでまくしたてると、指でかるくはじいてスプーンを跳ねさせた。カレーが飛び散って、ちま子の白いシャツにぼたりと汚いシミができる。それを見ておもしろくなって、あたしはそのままカレーの皿をちま子の胸にめがけて投げつけた。ちま子は避けようともせずにそれを被り微動だにしない。平べったい胸の上をカレーのじゃがいもやらにんじんやらがボロボロ零れ落ちて、ちま子のシャツはもう台無しだ。
「台無しだよ」
「……カナさん」
「なんなの? そのまま殺せよこんなクズ。飯なんて食わせんな。あたしなんのためにあんたと一緒にいるの? てかなんであんた笑えるのかマジでわかんない。カレーぶつけられたんだから怒れよ。キレてみろよ。笑ってんじゃねえよ」
「カナさん、あの」
「なに」
「カレー、おかわりあります」
「意味わかんない。マジであたし、あんたが怖くなってきた。なんで?」
「なんでって……多く作ったので…」
「カレーのことじゃないよ」
「カナさん、わたし」
「だから何。ていうかもう理由しか受け付けない。なにこれ。今の現状なに? 今ちょっと無理、いろんなこと無理、頭いてえし薬ちょうだい」
「はい」
素直に立ち上がりそうになるちま子を、すぐに手を伸ばして止める。突然立ち上がったせいでちま子の膝の上からカレー汁にまみれた肉が零れ落ちていくのを、2人してじっと眺めた。
「いや……薬はいいんだけど」
「でも頭が痛いんじゃ」
「毎日20錠ぐらい飲んでるしもう飲まないほうがいいと思う自分で言うのもなんだけど」
「わたしもそう思います」
「じゃあ止めろよ」
「えっと、」
「マジでもう猶予ない。あたしあんたを殴ると思う。このまま理由教えてくんないと」
「カナさん」
「なんであんた、あたしと居んの?」
ちま子はあたしに掴まれたままの腕を見下ろした。あたしはゆっくりと彼女の細い腕を離す。あたしのバカみたいな加減を知らない力のせいで痕が出来ている。ちま子はあたしの前に丁寧に座りなおして、カレーまみれのシャツのまま、なぜだかとっても優しくはにかんだ。



「カナさんが好きです。死ぬまで一緒にいたいです。わたし家でも学校でも居場所がなくて死にたかったんですけど、中学生の時。そのときカナさんに逢って、あの、カナさんは覚えてないかもしれないけど。わたしの腕のリストカットの痕みて、「あんたかわいそうだね」て言ったんです。これ」
ちま子はそこまで言うと、シャツをめくって手首をむき出した。目をそむけたくなるようなエグい線の数はどのくらいだろう。深くえぐりすぎて肉がめくれ上がっているところもある。今にでも血が滲みだしそうなほど生きた傷。あたしはそれを見て、「で?」と続きを促した。
「そのときわたしはすごくうれしくて、かわいそうって言ってもらえるの嬉しいなって思って、それで、カナさんのことストーカーしてたんです。カナさんが彼氏と付き合ったり別れたり、一晩だけの関係があったり、借金の返済相手から無理矢理犯されたりしてるの見てました。かわいそうって、わたし、カナさんのことかわいそうだなって思うんです。わたしと一緒です。カナさん、誰にも好かれてなくて、地獄みたいな人生で、はやく死にたいはずなのに、すごく堂々と生きてる。何が悪いのってかんじで。わたしそういうカナさんが好きなんです。もっともっと不幸になってかわいそうになって、わたしはカナさんのことかわいそうだなって思って、カナさんもわたしのことかわいそうって思ってて、それで、いつか結婚できたらなって」
「………結婚はできないけど。日本じゃ」
「……え? そ、そうなんですか?」
「いやつっこむところは、他にもある気がするけど」
「はい」

ちま子はあたしをずっと見つめている。まるで恋する乙女のように。なにも罪悪感のない、背徳もない、ただ純粋なる愛のまなこで。うわあこんな目で見られたの久しぶりだな、ていうかはじめてかもしれないな、と思いながら、あたしは指を伸ばしてちま子のくちびるをつまんだ。うすくてつまんなそうなくちびる。あたしのこと好きなんだってこの女。めっちゃウケる。とりあえずキスでもしてみるか、てなかんじで、あたしはちま子にキスをしてみたのだった。カレーくさいキス。なんならちま子もあたしもいろんな意味で臭い。くっつけただけみたいなどうしようもないキスはいっしゅんで、ちま子はどうしたらいいのかわからないみたいでじっとしていた。

「……不味い」
「あの、カナさん…」
「あたしキス好きじゃないしやめればよかった」
「わたしかわいそうですか?」

ちま子。
バカでノロマなちま子。
ダサくて痩せぎすでかわいくないちま子。
カレーまみれのシャツを着たちま子。
ホームレスのゲロ以下な女を好きになったちま子。



「うん。かわいそう」
「カナさん大好き……」


ああどうなんだろうこれ、と思いながら、あたしはちま子に抱きしめられた。まるで経験したことのないような感情が胸にせりあげる。やわらかい、あれ、やわらかいってこんなかんじか。ちま子おまえも、女なんだねえ。ていうかあんたのカレーがついたじゃん服に。いやあたしがやったんだけど。あーあ、なんてあたしってかわいそう。

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無様




世界で一番嫌いな女の笑顔ほどぶち壊したいものはない。田中はケラケラと笑いながらあたしのスカートを引っ張った。あたしは無様に廊下ですっ転んで、鼻から床にぶつかった。田中のまわりにいるバカ女どもの甲高い笑い声が重なって、あたしの背中にずんっと圧し掛かってくる。そのなかでもひときわやかましい田中の笑い声。「うわこいつ転び方もブス」うるせーブスはてめーだ、死ね、死ね、バカ女、死ねさっさと死ね!あたしは心のなかで何度も何度もその言葉を繰り返す。転んだ拍子に脱げかけたうわぐつが取られそうになったので、あたしは必死にそれを引っ張った。あたしのうわぐつはここに入学してからすでに2つなくなっていて(ひとつは燃やされて、ひとつはトイレの便器に突っこまれてた)、もうこれ以上なけなしのお小遣いから買うのはうんざりだ。
這いつくばってうわぐつを守るあたしの背中に田中の足がぶつかって、あたしはまた鼻を床に打った。田中は力を弱めることなくあたしをぐいぐいと踏みつける。

「アハッ、虫みてぇ、ウケる」「くせぇんだよゴミ」「おいこっち見ろよ泣いてんのか?」「ウケる」「泣き顔みせろよ」田中は様々な罵詈雑言をあたしに浴びせて、汚ぇうわぐつであたしを踏んで、笑っている。ぼさぼさになったあたしの髪の毛を引っ張って顔を近づけてくる。ブス、息がタバコくせぇんだよ、死ね死ね死ね死ね。臓物ひっくり返るほどクソ痛い思いしながらクソまみれで死ね。という顔で田中を睨んだら、田中は真っ赤に塗りたくったくちびるの端をにーっと引っ張って眼を細めた。
「ンだよ泣いてねえじゃんよ。泣けよ、クソ女」
うるせぇバカ女、テメーのためになんか泣いてたまるかよ。




田中はクラスで一番ゲロ以下の女だけど、取り巻きはその次にゲロ以下で、クラスの連中はその次の次にゲロ以下だ。みんなあたしがいないみたいに振る舞って、田中が大きな声で笑いながらあたしをぶったって誰も足を停めもしない。教師はゆるいトーンで田中をなんとなくなだめるだけで、田中がちょっと眉毛をさげて謝ればすぐなかったことにしてしまう。田中は世間一般で見ればそこそこ綺麗な顔をしているかもしれないけどあたしにとっては世界一のブスだ。でも神様がコイツを殺してくれるなら、できればこの顔の皮から剥がしてほしい。ちょっと綺麗だからって、ちょっとスタイルがいいからってこんな振る舞いをして許されるわけがない。まちがいなくこのクソ女は地獄行きだ。その点あたしは田中が宇宙一サイアクでサイテーなゴミ女ということを誰かに訴えたことなんてないので、きっと天国に行ける。田中が地獄に落ちるのを想像するだけで腹の底から笑えてくるから、あたしはこの女より長生きできるように毎日きちんと野菜を食べるし水をたくさん飲む。運動は苦手だからしないけどたぶん大丈夫。

だってあたしばっかりこんな目にあうなんておかしいじゃん。死んでもないのにあたしだけこんな地獄みたいなとこにいるなんておかしい。なにもかもおかしい。教師も生徒も田中も全員死ねばいい。もしあたしが総理大臣だったらここのやつらを全員有罪にして磔にして爆破して殺す。もちろんあたしがスイッチを押す。そうしてぜんぶリセットだ。






(総理大臣ってどうやってなるんだろう。親が総理大臣じゃなくてもなれるのかな)

あたしは電車に揺られながらそんなことを考えていた。今日もほこりだらけで髪の毛もぐちゃぐちゃなあたしを、電車のなかの大人たちはみんな見て見ぬふりをする。スカートの裾のほつれだって見えてるはずなのに。盗られないようにうわぐつや教科書をぜんぶ持って帰るからいつも荷物は重いのに、だれもあたしを座らせてもくれない。アアいっそ電車ごと爆発すればいいのになアハハ、て笑いたいけど、あたしは天国に行きたいのでそんなのはおくびにも出さずにじっと黙ってドアの近くに立っている。そうするとおなかがキリキリと痛んできた。キリキリ、きりきり、胃をだれかがぞうきんみたいに絞ってるのか、そんなふうな痛みだ。これはストレス性の胃痛っていうのがちゃんとあたしはわかっているので、歯を噛み締めて痛みに耐えながら胃薬を取り出すために身をよじらせた。横にいるサラリーマンに舌打ちをされたので、あたしはそのサラリーマンを脳内で殺す。虫を踏むみたいになんでもなく殺す。

そのとき、目があった。その女の子はあたしの目の前に座っていて、うそみたいにまるくてぱっちりした眼と、シャンプーのCMに出てきそうなくらいツヤツヤした髪の毛を持っていた。ショートヘアを耳にさらりとかけていて、見慣れないブレザーを着ている。女の子はあたしと目があったのがわかると、「あの」と言った。
「………へ」
「あの、もしかして具合がわるいんですか」
「へっ」
「顔色が……よかったらここ座ってください」
「へ……」
アホみたいにへえへえ言ってるあたしに、女の子は微笑みかけた。そのなんの嫌味もない笑顔に、心臓がきゅうと縮んだような気がしてあたしは立ちすくんでしまう。あたしは誰かに微笑みかけてもらうなんてそんな体験はほとんどないのだ。ぼーっとしているあたしを見かねたのか、女の子はだまって立ち上がろうとした。あたしはそこでようやく言葉の発し方を思い出したように声をあげる。
「あっ、い、いいです。だいじょうぶです」
「でも。わたし次で降りるんで」
「だ、だいじょうぶです、から……あの、はい」
あたしはうつむいて何度も「大丈夫です」と繰り返した。女の子はきっと困った顔をしているんだろう。こんなあたしなんかに声をかけるんじゃなかったと後悔しているはずだ。あたしはただただ、胃痛すら隠せないあたしが憎くて死にたくなっていた。ぎゅっと眼をつぶる。ごめんなさいごめんなさい、あたしが悪いんです、ごめんなさい。あたしは心の中でしかそれを言えない。
「……座って?」
女の子はとてもやさしい声でそう言って、立ち上がってあたしの横についた。ちょうどそのとき電車が停まったせいで、慣性の法則によりあたしは女の子に寄りかかりそうになってしまう。
「あっ、」
「だいじょうぶ?」
すんでのところでバランスを保ったあたしの顔を、女の子がのぞきこむ。女の子からふんわりといいにおいがして、あたしは硬直した。近くでみると女の子はとてもきめこまかい肌をしていた。そばかすだらけでクマができてるあたしとはまったく違う。そのうえいいにおいまでして、女の子ってこんなにかわいい生き物なんだってバカみたいなことを考えた。
「……じゃあ、わたし降ります。座ってね」
女の子はわたしの顔のちかくでまた微笑んで、かるがるとホームに飛び降りた。人と人がひしめきあう中をするすると泳ぐようにきえていく女の子。まるで鐘がなるような余韻があたしのあたまのなかに落ちていく。あれおかしいなって思ったときにはもう遅くって、あたしはただぽっかりと空いた目の前の席を口をあけて眺めていた。自分が降りる駅になったとき、そこにはいつの間にか知らないオバサンが座っていた。





あたまのなかがぼーっとしたまま、またサイアクな一日がはじまった。あたしにまったく興味のない父親と、つまんないワイドショーなんか見て笑ってる母親なんかいないみたいにキッチンをスルーして、いつものセーラー服を着て家を出ていく。
あんな地獄に毎日毎日くそまじめに通うのはあたしがあたしでいるためだ。あのバカ女のせいであたしの生活と人生が狂わされるなんて絶対にありえない。だからあたしは無事に高校を卒業して、立派でしあわせな人間になるのだ。たった3年間。もう2年も耐えたからあとたった1年だ。だいじょうぶ。あたしは絶対にだいじょうぶ。
あの女の子の「だいじょうぶ?」という声がどこかから聞こえた気がした。あたしはきちんとうなずく。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。



女の子があたしの学校に転校してきたのはまさにその日だった。あの子は田舎のほうから父親の仕事の都合でやってきたそうだった。あのブレザーを着て、彼女はあたしのクラスの黒板の前にすっくと立って自己紹介をした。西原小夜です、と言った声はざわついた教室にひびいて、あたしの鼓膜から肺のあたりまでストンと落ちた。西原さんは教室を見まわして、隅っこで固まっているあたしを見つけるとパッと目を輝かせて笑った。また、きゅっと心臓がちぢむ。

「偶然だね」
西原さんは休み時間になるとすぐにあたしのところへやってきてそう言った。あたしは固まったまま、「ウン」と小さな声で言った。
「びっくりしたよ。ねえ、あなたの名前は?」
「……さいとう、かなこ」
「斉藤さん?」
「……ウン」
「わたし西原…さっきも聞いたとおもうけど、西原小夜ね」
「……ウン」
「知ってる人がいて安心した。仲良くしようね」
西原さんは笑った。ああなんてすてきな笑顔なんだろう、なんてかわいいんだろう。あたしの顔はいまきっと真っ赤っかだけど、西原さんは気にしてないみたいだった。
「この学校の制服ってやっぱりかわいいね。斉藤さんよく似合うよ、あたしまだブレザーだからちょっと恥ずかしいな。制服が届くの1週間くらいかかるらしくって。わたしずっと夢だったの、セーラー服着るの。だからたのしみ」
「……ウン、あの…」
「ん?」
「…き、きっと似合うよ、西原さんも」
「……ふふ。ありがとう」

西原さんはたくさんあたしに話しかけてくれた。きっとあたししか知ってる人がいないからだし、それ以外に理由なんてひとつもないとはおもうけど。でももしそうじゃないとしたら、なんてしょうもない淡い期待が勝手に膨らんでしまうくらいに西原さんは無邪気にみえた。
西原さんはよく笑う。こどもみたいに声をあげて笑ったり、いたずらっぽくクスクスしたり。女の子らしくて清楚で、まるであたしにはない要素だった。なんにもおもしろいことなんかないのに、あたしは彼女のその微笑みをみているだけで勝手に頬がゆるむのを感じた。たぶんあたし、笑ってる。何年ぶりかに、笑ってる。きっとあたしの顔はブスすぎて見てらんないだろうに、西原さんはちゃんとあたしの眼をみて話をしてくれる。足の爪先からあたまのてっぺんまで、あたしは自分の身体がじんわりとあたたまるのを感じていた。これが、これがちゃんと会話をするってことなんだ。これがちゃんとした、ともだち、の会話なんだ。


ガンッ、という衝撃があったのはあたしがそれを実感していたときだった。イスを蹴られた衝撃であたしは机に突っ伏し、横に立っていた西原さんは「きゃっ」と小さな悲鳴をあげた。あたしはすぐに顔をあげてそのクソバカゲロ女を睨む。
あたしのイスを蹴ったまんまのポーズで田中は立っていた。今まで見たことがあるなかでいちばんの憎悪と嫌悪をぐっちゃぐちゃに入り混ぜた醜い顔で、あたしを睨み続けている。あたしは精一杯の勇気を振り絞って、前髪の間から田中を睨んだ。
「…ンだよ、テメェ。調子乗ってんじゃねえよ。ゴミ」
「……の、乗ってない」
「西原さん、そいつほんと臭いしバカだしブスだから関わらないほうがいいよ。倉庫で閉じ込められたからっておもらししちゃったりもしたしね。プッ」
思い出し笑いをするみたいに田中は体を折り曲げた。あたしにとっては最悪の記憶なので、知らんぷりをする。それよりも西原さんがこのバカ女の言うことを信じて、あたしにあの笑顔を見せてくれなくなるのが一番嫌だった。ああだからあの女はやく死ねばよかったのに死ね死ね死ね死ねほんと死ね、さっさと苦しみまくって死んでくれと何度も何度も心の底から呪う。あたしと西原さんの時間をジャマしたのは田中だ。だから死んでもいい。

「べつに臭くないし、バカじゃないし、ブスじゃないよ。おもらししたことあるからってなに? それ、あなたたちがやらせたんじゃん。斉藤さんの意思じゃないんでしょ。高校2年にもなってそんなことしてるのって、ちょーダサイ」

西原さんは田中の前に立ったままそこまでいっきに言い放つと、あたしのほうを振り返って笑った。
「斉藤さん、こんなひとの言うこと真に受けなくていいからね。あなたは素敵な女の子よ」
「ハァ? あんた、このブスのどこ見て言ってんの? 眼科行ったほうがいいんじゃない?」
「病院に行った方がいいのはあなたのほうよ。好きなひといじめていいのなんて小学生までなんだからね」
「……、なに言ってンのアンタ」
「そんな調子じゃ毎日つきまとってるんでしょう。いつもこの子電車では大荷物だし、セーラー服が濡れてたり泥だらけのこともある。この1週間電車に乗っただけですぐわかったわ。この子はあなたたちのどうしようもない幼稚でバカな遊びに付き合わされてるって」
「ハァ? テメーあたまおかしいんじゃねーの!?」
「他人にそこまで依存するのって異常よ。その人のことしか考えられない。たとえばあなたは斉藤さんをどう痛めつけてつらい思いをさせて可哀想にさせるのが、そんなくだらないことを家に帰ってからも毎日考えてるんでしょ。アーほんとくだらない」
「ッに言ってんだよ、この田舎者ブス!!! 黙れよ!!! あたしがどんだけ斉藤にかまってやったと思ってんだ!!」
「だからそれが迷惑っつってんのよ。ねえ、斉藤さん」
ふいに、こっちに話題がまわってきた。いや最初から話題はわたしのことだったけれども。こころの準備ができていなくて、あたしはぐっと言葉に詰まってしまう。それいいことに、田中はあたしの髪の毛をぐっとひっつかんで立ち上がらせた。 
「おい斉藤ォ! テメーあたしに逆らうってわけじゃねーよな? あたしより今日きた転入生を信じるってわけじゃねーんだよなァ?」
「……そりゃ……」
「あ? 聞こえねえよ!!」
さらに強く髪の毛をひっぱられて、頭皮に激痛が走る。うまく表情をつくることもできずに、あたしはほぼ強制的に首を振ることになった。
「ほら! 見たかよブス。テメーのくだんねえヒロインごっこは迷惑だって斉藤も言ってンだよ」
「……バカみたい」
西原さんはそう吐き捨てた。あたしはこわくて顔があげられない。西原さんは確かにそこに立っているけれど、どんな顔をしているかわからなかった。もしかしたら、こんな地獄で大声も上げられないあたしのことを軽蔑しているかもしれない。バカみたいって、あたしのことを言ってるのかもしれない。せっかくあたしと仲良くなろうとしてくれたのに、あたしはその好意を自分の臆病さで踏みつぶしてしまったのかもしれない。背中が冷たい汗で濡れていくのがわかって、爪が肌に食い込むぐらい握りしめた手のひらはじっとりと湿っていた。

「センセーくるよ」
田中の取り巻きの女がそう叫んだとき、あたしの手はふっとやわらかいものに引っ張られる。「え、」とあたしが息をすうよりももっとはやく、西原さんはあたしの手を取り走り出した。ドアを蹴っ飛ばすぐらいな勢いで教室を飛び出して走る。あたしはつんのめりそうになりながら、西原さんのやわらかくてつめたい手に素直にさらわれている。なにもかもが突然で、あの田中ですら反応できていなかっただろう。西原さんは修羅のごとく走り、走り、大股で階段をかけあがって屋上のドアにガンッとぶつかった。
「……あっ、開かないの!?」
「お、屋上は、ハア、立ち入り禁止で、ハア、先生がカギかけてる、」
振り返った西原さんにむかってあたしは答えたけれど、息が切れてしまってうまく言葉が発せない。あたしは咳払いをしながらなんとか呼吸を整えた。西原さんはそんなあたしの手をにぎったまま、じっと待ってくれていた。
「……おちついた?」
「ウン……」
「ごめんね。なんか飛び出してきちゃった。……あ、初授業だったのに。サボりだ」
たぶん走っているうちにチャイムは鳴ったんだろう。時計は持ってないからわからないけど、学校中に広がっていたざわついた波みたいなのが急にしずかになった気がするから、きっともう授業は始まっている。あたしは授業をサボるのははじめてだったけど、なんだかこんなにもあっけないもんだったんだなとぼんやり思う。
「……あはは!」
西原さんは声をあげて笑った。あたしも、つられるように引き笑いをする。
「あはは、だって、あの子なんかムカついちゃったんだもん。ごめんね斉藤さん」
「ううん……あたしも…」
「ムカつく?」
「……ウン」
「だよね。あんなやつのこと気にしなくていいよ」
西原さんにうながされるがままに、階段の一番上に腰をかける。あたしたちふたりは横に並んで座って、灰色のコンクリートで作られた質素な壁を眺めた。手はずっとつないだままで、あたしはそろそろ手の汗ばみが気になってきたから離したいところなんだけれど、もったいない気もして離せないでいる。

「斉藤さん」
西原さんがあたしの顔を覗き込んできて、ぎょっと背中を反らせる。西原さんはくすっと笑って、あたしの手をつよく握った。
「斉藤さん、笑ってるのカワイイよ。だいじょうぶ。わたし、斉藤さんの味方だから」

めまいがした。お風呂でのぼせたときみたいにくらくらして身体中が熱い。あたしはこんな言葉を誰かに言われたことなんて一度もなかった。両親にすら言われたことなんてないのに、昨日電車で偶然会った女の子が、偶然うちの学校に転校してきて、あたしの手をさらってここに連れてきてくれてそう言った。あたしは今ならたぶん鳥になれる、蝶にもなれる、あたしはどっちかってと蛾かもしれないけどとにかくなれる。あたしはおなじように西原さんの手をにぎり、ぎこちなく笑ってみせた。






あのあとは結局先生にこっぴどく怒られたし、放課後に田中の渾身の蹴りを受けておなかに痣ができたけど、べつになんともない。あたしはなんともなくなった。なんでかというと、味方がいるからだ。西原さんの「だいじょうぶ」をこころのなかで唱えるだけであたしは何倍も強くなれた気がする。
その点、田中の陰湿でクソみたいなイジメはパワーアップした。机の上に花が飾られてるなんてまだかわいいもので、ひどいときは黒い油性マジックでデカデカと「死ね」と書かれていたし、机のなかには大量のセミの屍骸が突っ込まれていた。あたしはそのたびにひどいショックを受けたけど、悲鳴はあげないし泣いたりもしない。淡々と花や屍骸を片づけて、油性マジックは次の日用意した除光液で丹念に拭き落した。それは西原さんも手伝ってくれた。うすいティッシュがやぶけて油性マジックが指先についてしまっても、西原さんは「みてみて」だなんて笑ってくれる。

彼女の存在を言うなら、言うなら天使だって思うんだけれども、それもなんだか違う気がする。あたしは西原さんのことを考えると胸が痛くなったり、涙が出そうになったり、抱きしめたくて仕方なくなったりしてしまうのだ。天使に対してそんなこと考えたりするんだろうか。あたしにはもうよくわからない。


放課後、いつもどおり大量の荷物とうわぐつをかかえてあたしは廊下に立っていた。西原さんが一緒に帰ろうと声をかけてくれたのだ。取ってくるものがあるからといって彼女が生物室のほうへ行ってから、たぶんもう1時間は経っている。
(さすがに遅いよなあ……、でも様子見に行っちゃったりしたらウザイとか思われるかな? ていうか一緒に帰ろうって約束すら忘れられてる?……まさか、ねえ)
最悪の状況のIFはあたしのあたまのなかに次から次へと浮かんでは消えて、どうなっても、西原さんがあたしから完全に離れていくルートで終わる。ああ。ええい、ままよ! あたしは荷物をそこに置いたまま、そうっと生物室のある3階のほうへ歩き出した。


(なんか音がする。やっぱり西原さんまだ居たのかなあ。でも誰かとしゃべってるみたい)
あたしは生物室の前を身をかがめて通り、声がするほうを目指して停まった。たぶん、生物室のなかに、西原さんともう一人がいる。声のトーン的には男の人だとおもうんだけれども、なんだか言葉が散り散りすぎてなにを言っているのかさっぱりわからない。あたしはぎゅっと手を握りしめ、「だいじょうぶ」とささやくとこっそり生物室のドアを引いた。

「アッ、あっあっせんせええ」
「うっ……いい、……いいぞ」
「あっあっそんなに強く突いちゃだめなのぉ、ああ」
「声が大きい、西原…! 聞こえるだろ」
「だいっ、じょうぶですよぉ、ここいつもあんまり人いないんでしょッ」
「……ぐっ、ふん……ああ……くっ」
「アンッアンッせんせえ、中に出してぇ」
「バカ、無理に決まってるだろ」
「んんん、アンッ、中がいいのぉ」
「ダメだ……アッやばい出るッ!!」


(えっ、)


あたまのなかがまっしろになるほど、透き通るとがった悲鳴が響いた。それは西原さんの声だけど、西原さんの声じゃないみたいだ。西原さんは男の人の身体にしがみついて、ぴんと足を反らせていた。足の爪先からローファーが零れ落ちて床にころがったのと同時に、あたしは後ろにひっくり返った。ものすごい動悸と頭痛と吐き気がぜんぶいっぺんに押し寄せてきて立ち上がることもできない。


西原さんは男の人と肉の塊になっていた。








気が付いたら玄関に戻ってきていて、あたしは呆然とした。自分が階段を降りたり廊下を歩いたりした記憶がすっぽり抜けている。それでもあのときの西原さんのいやらしい声と、ぴんと伸びた足があたまから離れない。制服のスカートのなかに男の人が股間を押し付けていて、西原さんは短い髪の毛を振り乱しながら身をよじらせていた。彼女のあざやかなブルーのシャツからはだけていた真っ白い肌。

「……遅かったじゃん」

顔をあげると、田中がいた。田中だとおもう。視界ははっきりしているはずなのに、脳の認識がしゃんとしてくれない。あたしはふらふらと靴箱に寄りかかった。田中はあたしの荷物の上に立っていた。
「こんなとこに荷物置き去りにして、バカじゃねーの? なぁ」
田中は右腕をいきおいよく横に払った。そのときビリッと紙の破れる音がして、あたしははじめて、田中があたしの教科書を破いた紙屑に囲まれていることに気が付いた。それを入れていたはずのあたしのカバンは、田中の足元でぐしゃぐしゃに踏みつぶされている。
「上履きならあんたの好きなトイレに投げてやったから、取ってきな。今すぐ」
「………あ、」
あたしはなにかを言おうとしたけれど、呼吸がうまくいかなくてそのまま地べたに崩れ落ちる。田中はそれを見てゲラゲラと笑った。
「きったねぇ、床に座りやがって。あったまおかしいんじゃねーの?」
「……あ、あ…」
「ハァ? なに、ついに頭もヤられた? おいブスこっち見ろよ」
髪の毛を強くつかまれて、無理やり上を見上げさせられる。あたしを見下ろす田中は、まるで人間ではないいきもののようにみえた。

「西原が越してきてテメー調子乗ってんじゃねえの? なぁ、あいつにどんだけ優しくされたってテメーはテメーなんだよ、あたしが怖いくせに反発もできねえで臆病でクズでなんにも取り柄がなくてブスで自分は何にも悪くない世界が悪いみんなが悪いって思ってんでしょ? あっは、ウケる。テメーがそんなんだからなんも変わんねえんだよ。あんたのなかではあたしが悪なんだろうけど、あたしのなかじゃあんたが悪だよ。存在してるだけで不愉快なんだよ。キモいんだよ。消えろよ、ゴミ」

あたしはなにも言い返すことができない。ただ、ただ西原さんの声と田中の罵声が合わさって脳内にリフレインして吐き気がする。田中はあたしの顔を覗き込んで大声で笑った。

「なんだ、泣けるんじゃん! もっと泣けよ、ブス。あたしをもっと楽しませろよ」









「……斉藤さん、あれ、見ちゃったでしょ」
田中がゲラゲラ笑いながら玄関を去って行ったあとに、うしろから西原さんが現れてあたしの肩を抱きしめた。あたしは硬直してなにも言うことができない。
「フフ。体育の横山せんせ。かわいくって、すきだって、わたしのこと」
「………だ、だから、?」
「だから? うん。だから、シたの。処女だったから大変だったけど」

あたしは今まで地獄に生きてきた。これ以上の地獄なんてないとおもっていた。それなのに、あたしは。あたしの神様は。あたしから西原さんまで奪うのか。田中に涙を見せてやってしまったのか。

西原さんはあたしのビリビリになった教科書を踏みながら近寄ってきて、しゃがみこんだあたしの手を両手でやさしくつつんだ。吐息がちかい。さっきまで先生と顔をくっつけあっていたくちびるが、まるでそうなることが当然であるべきかのようにあたしに近づいてくる。
「……ヤッ、!」
「……どうして、嫌なの? 斉藤さん、わたしのこと好きでしょう?」
「す……好きとか……」
「好きでしょ?」
「………ウ、ウン」
「好きなら……キス、しよ?」
呪文のような西原さんの言葉。あたしは心で何度も抵抗しながらも、西原さんのやらわかそうなくちびるが近づいてくるたびにまともな判断ができなくなっていった。あたしと西原さんはキスをした。西原さんはあたしのくちびるに舌をすべり込ませて、自分の唾液をすこし飲ませてきた。あたしはのぼせながらも必死でそれを飲み込む。

「ん……」
「はあ、はあ……」
「ねえ、斉藤さん…」
「へ……」
「あなたにだけは教えるね、あたしのひみつ」

西原さんはあたしにキスをしたときとおなじ表情のまま、あたしの顔の両側に手のひらを添えた。距離は近い。西原さんの瞳のなかに、おびえるあたしが写っていた。

「あたしね、かわいそうな人がすきなの。どうしようもなくバカで救いようがないくらい孤独で、誰にも受け入れてもらえてない、かわいそうでかわいそうでたまらないひとがすきなの。だからあなたの笑顔より泣いてる顔のほうがすき、唯一の味方であるあたしに裏切られそうになって絶望感じてる表情なんか最高だったわ……」


だからね、斉藤さん。もっとかわいそうになって。かわいそうなあなたがすきよ。













「ほら、便器のなかに落ちちゃったから、あんたのペンケース。拾っていいよ」
うしろで田中の声がする。あたしは震えながら個室に入って、便器に浮いた白いペンケースを眺めた。ああこんなものいらない、ぜったいに捨てるから無視しちゃったっていいんだけど、あたしはそれができない。
手を使って拾おうとすると、田中がうしろからお尻を蹴ってきた。つんのめって顔面ごと便座に突っこみそうになる。
「なにやってんだよ、口で拾えよ。口で。手なんか使ったら意味ねーだろ」
意味ってなんだよ、だいたいテメーが落としたんだからテメーが拾えブス、死ねブス、死ね死ね死ね死ね、………ああ。それでもあたしはその要求に逆らえない。田中と取り巻きがいるむこうのほうで、西原さんがあたしのことを見ている。

「うっわこいつマジで顔から便器突っ込んだよ! キタネー!!」
「ぎゃーー!!まじありえねーんだけど! くっさ!!」
「こっち来んなよゴミ! うわ散った~~!」

田中と取り巻きたちは大騒ぎだけど、あたしは笑っている。便器の水をしたたらせながら、セーラー服のリボンを濡らして、むこうにいる西原さんに微笑みかける。西原さんはにっこりと笑った。









2015.  8.20 再録
2015.11.22 初演

遺書



あッそうか俺にはなんにもねーんだと気が付いたのはコンビニで買ってきた弁当を夕飯にテレビを見ているときだった。気が付いてからはもうあまりにも早くなにもかもだめになった。テレビではたくさんのキラキラした人間がキラキラとした言葉をしゃべっていてたまにはバカみたいなことを言って笑いながら白い歯を見せたりして、俺はぼんやりと去年から放置したままの虫歯のことを思い出した。もう痛まないしたぶん大丈夫だろうと素人勘定だが単純に歯医者が嫌いなだけだった。5年前から不眠症が治らなくて薬ばかりが増えていくし、仕事の案件はいつまでたっても悩みの種だし、そこまで考えるとジェンガがガラガラ崩れていくようにいろいろとこぼれてしまった。彼女との結婚を考えて薄給からちまちまと貯金していたくせになぜだか突然バカらしくなって全額をパチンコに溶かしたこと、それは今も彼女に秘密なこと、中学の時に「目つきが気に入らない」とかいうクソみてえな理由でボコボコに殴られて気を失ったこと、大学生のときのセックスフレンドが実は人妻で「もうやめましょ」なんて泣きながら言う様をみてもなんの感情も抱かなかったこと、それからもう3年は油絵を描いてないこと。そうするとさっきまで食べていたからあげの味がしなくなった。くちゃくちゃ噛む音がきもちわるくなった。社会人になってから患った軽度のうつ病が治って患ってを繰り返してばかりで、月一の病院で「お変わりないですか」「はい、特に」なんてしょーもないやりとりばかりしている。もうどうしようもない。何度だってダメになってきたが今回こそは本当にもうだめだと思った。こっからさき生きててなにがあるんだろうか。しあわせもふしあわせも面倒だ。いらん。いらんもう。家族も彼女もぜんぶ捨てる。だめだ。俺は生まれてから死ぬまでたったひとりだ。で、「あー、死の」とつぶやく今。抑うつ薬と眠剤を何粒か口のなかに突っこんで水道水で流し込むと、その場で服を脱いで風呂に入った。頭からシャワーをかぶる。つめたい水がどんどんぬるくなり、熱くなるのを感じていた。1か月前に衝動的にバリカンで頭を剃ったので、洗髪はシャンプーだけで済む。身体を洗うためのせっけんを泡立てていると薬と湯のせいで頭がもうろうとしてきたので、脳内で遺書を考えることにした。



前略
俺の人生に関わって下さった皆様がたへ


不徳の致すところではございますが俺は今日死ぬことにいたしました
おふくろ、親父、兄貴、迷惑をかけます
理由は特にございませんので、ご責任なぞ感じられぬように宜しくお願いします
家具はお好きにお使いいただくか必要がなければリサイクルショップでお売りください
実家の部屋に置いてきた油絵はすべて燃やしてください
残っている絵の具は美大の後輩の只野祐樹という男に譲ってやってください
俺のような愚鈍で馬鹿でどうしようもない人間と付き合ってくれてありがとうございました
あの世では上手くやろうと思います


早々
平成28年1月11日 椿木ハルオ

追伸:ちよりへ 今後の人生くれぐれもどうか元気で




風呂を出てバスタオルにくるまっていると、ふとリビングから音がしているのに気が付いた。着信だ。会社からかもしれない。ふらつく足取りでテーブルにつっかかりながら電話をとると、相手は兄貴だった。

「おー、元気してるか」
「うん。してる。どうした」
「いや別に。新年のあいさつ」
「もう11日だよ」
「そうだな。ところで母さんの誕生日いつだっけ」
「えーと、3月13日だったかな」
「13か。メモっとかねえと」
「兄貴、俺、だめだわ」
「…おー、どうした」
「いや死のうと思って」
「そうか。首つり?」
「いや、飛び降りるよ。ここ7階だし」
「なんで?」
「え?」
「なんで死ぬんだ?」
「いやー、ちょっともうだめっぽいから」
「そうか、いや残念だなあ。さびしくなる」
「うん、ごめんな兄ちゃん」
「兄ちゃんか。久しぶりだなその呼び方」
「ごめん、薬まわってきてる」
「そうか。でもお前、ちよりちゃんは?」
「うまくやるよ。ちよりなら」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「ハルオ、生命保険はいってんの?」
「はい………いや、はいってないわ。はいってなかった」
「貯金は?」
「パチンコで溶かした」
「ハハハハ! お前、アホだな~」
「……兄ちゃん…俺、アホだわ……」
「そうだなあ」
「葬式って金かかるよな」
「おう、かかるぞ」
「じゃあ生命保険入ってから死ぬことにする」
「そうしな、バカ野郎」
「……ねむい」
「お、陽菜が起きてきた。陽菜、おじさんだぞ~」
「おじさん? おじさん、ひなだよぉ。まだおきてるの?」
「いや……もう寝るよ」
「おじさん、あしたはおしごと?」
「うん」
「そっか。がんばってねえ」
「うん」
「おい、ちゃんとあったかくして寝ろよ。じゃあな」
「うん」


その日はそのまま意識が落ちたけれど、あまりの寒さに早朝4時に目が覚めた。とうぜん俺はアホのごとく風邪をひき自殺どころではなく、会社を2日休んだ。そうしてそのまま何事もなかったかのように生き続けている。2年前の話である。あのときのどろどろした自殺願望を絵にしようと筆をとったが、それがなかなか進まない。生命保険は無事に入ることができたけれど、その絵を完成させるまでは死ねないなあとなんとなく思っている。そういうわけで俺はまた絵を描けるようになった。もちろん時には休むし、時にはぜんぶグチャグチャにする。完成はいつになるかわからない。


「そして誰もいなくなった」


10/6~7 【Silent】 


「そして誰もいなくなった」
作演出・梅子
音楽・キラークイーン @killerqueen_k (http://killer-queen.jimdo.com/)




続きから、セリフの詳細です。

オーサカ・シガー・ガール





彼女のスカートは、ひらひらと揺れていた。

うすい緑色のロングスカートをはきこなしている彼女は、あたしよりすこし背が高くて、もうすっかり半分まで侵食している黒が金色の毛先を際立たせている。就職活動が始まるから、この黒を伸ばすんだそうだ。一度色素を抜いてしまうと、黒染めが難しくなる。それでも、その身なりは個性的で、彼女らしいとぼんやりおもった。
ストイックな雰囲気の喫茶店に寄ったあたし達は、同じケーキを頼んだ。お互いに趣味が似通っているみたいだ。それでもあたしはキャラメルティーを頼んで、彼女は楽しそうにパッションフルーツ・スカッシュを指差す。そして、店員が去った後に、テーブルの端にある灰皿を指でそっと寄せた。バニラの香りがする煙草をうすい唇に加えながら、スマートフォンをすいすいと使いこなす指は、細くて美しい。すべてが芸術作品のようで、眼の前で彼女が息をしているということ自体が、あたしには信じがたい事実だった。やわらかな緊張が心臓をあたためて、すこし心地が良い。
「煙草、吸う?」
ころころと、転がるような声。ライターを失くしたあたしは、この機会に煙草をやめてしまおうだなんて生温いことを考えてはいたけれど、結局実行も出来ずに、先程から彼女のキャスターを減らし続けている。申し訳ない気持ちと、これから来るケーキへの敬意を込めて、首を振った。あたし達の隙間に漂う煙草のにおいだけで十分、あたしは満足できる。

しばらくして、ガトー・ショコラが運ばれてきた。濃いチョコレート色のケーキに、雪が降ったようなそれ。横には真っ白のホイップクリームとバニラアイスが添えられていて、あたしたちは揃って「アイスや!」と叫んだ。あたしのところにはあたたかいキャラメルティーが置かれ、彼女の傍にはスカッシュが並ぶ。割と珍しい「パッションフルーツ」をあしらっているそのジュースに興味を示した彼女は、ストローを折り曲げながら眼を輝かせた。煙草をくわえていた時と同じようにストローを含んで、ひとくち、飲む。
「・・・ねえ、」
「ん?」
「この味、なんやろう」
パッションフルーツの味、なんじゃないの。あたしはすこし笑って答える。すると彼女は「ちゃうねん、ちょっと、なんやろうこれ、飲んでみて!」と必死に訴えかけてきた。そうなる程のものだろうか、なんて笑いながら、それをひとくち頂く。口内に広がった味に、あたしはぱっと顔を上げた。
「お酒」
「えっ、」
一瞬の間を開けて、彼女はげらげらと笑った。その答えが欲しかったわけではないらしい。確かにカクテルみたいな味やけどな、と妙なフォローを入れられ、ああ失敗だ、と顔が赤くなる。だけども確かに覚えのある味で・・・、
「あー!! ピーチや!」
静かな喫茶店に、ぴんときた彼女の大声が響く。注意を促すよりも先に、「ああ!」とあたしも納得の声をあげてしまって、慌てて唇に手を当てた。周りはひとりで来ている女性や休憩中のサラリーマンしかいないので、二人組というだけでも注目が集まっているというのに。だけど彼女はそんなことにもお構いなしで、そうやそうや、と頷きながらもう一度、ジュースを飲んだ。
( 彼女の小説に出てくる女の子みたい、)
笑うと白い歯が零れて、自然な言葉遣いのうちに潜む感傷、指先まで包まれた情緒。ひとつひとつが物語みたいで、あたしの憧れた彼女、そのものだった。日常を“らしく”生きる、胸を張って、「これがあたしだ」って叫ぶ、その優しさを、あたしは欲しがっているのだ。


「ねえ・・・川上弘美、好き?」
「えっ、うん、なんで?」
「リカの文章って、川上弘美みたいやなあって、思ってさ」
現実の中に潜む、非現実の世界。ありえない事があっても、まるで本当にあったことみたいに語る。それが彼女の文章だった。川上弘美の小説を読んだ時に感じる、どこか知らないところなのに懐かしいと思えるような、そんな感情。
「そう、あたし、川上弘美の小説に影響、受けてん。あの独特な感じが好きで」
「・・・リカの文章は、なんていうか、本当にリカにしか書けない世界だと思う。ふわっとしててかさかさしてて、手触りがよくて、いごごちのいいバスタブみたい」
言っているうちに、なんだかはずかしくなった。誤魔化すみたいにキャラメルティーを飲む。あついキャラメルティーの湯気がまぶたに触れて、すこし眼に沁みた。
「・・・梅ちゃんの文章は、読んでいるうちにのめり込んでいくけど、終わったら急にぽんっ!って、追い出される。突き離される。だからあたしは呆然と、その余韻に浸れるんや。・・・そういうのが、梅ちゃんの文章にはあるよ」
喉を通り過ぎたキャラメルティーが、あつく内臓を燃やす。あつい、と呟きそうになって、ぐっと言葉を呑み込んだ。胸の中がきゅうと締め付けられて、ああこんなに嬉しい、彼女があたしの文章を読んでくれてるってことも、こうやって文章の話ができるってことも。食べかけてぽろぽろと崩れたガトー・ショコラの傍で、バニラアイスがすこし、溶けていた。

リカのほそい指先がとたんに愛おしくなったけど、握る勇気すら出ないで、あたしはガトー・ショコラをつつく。彼女の金髪はきらきらとしていて、笑うたびに、すこし揺れる。あたしのなかに渦巻くこのあったかい感情は、まるで恋心みたいだ。あたしは彼女の文章に、恋をしている。



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