カシスソーダの爪先
「もう帰りぃや」
そう言いながら、ぱちん、と開けた煙草ケースの音に、鏡に映った彼女が眉を上げるのを見た。この言葉を彼女の背中に浴びせるのは何度目だろうか。彼女の指に引っかかったままのビューラーは、相変わらず、かしゃかしゃとうるさい。きっちり綺麗にあげられた長い睫毛がゆれる。草を丸めた紙をくちびるに突っ込んでいると、彼女とようやく視線がかち合った。
「言われなくても帰る。今日仕事だし」
「……すねた?」
「煙草やめろって」
「わかっとる」
こっちは、言われ慣れた言葉だ。尖端をライターであぶる過程を、嫌というほど凝視される。素知らぬふりで煙を喫めば、やがて、じっとしていた指がビューラ―を離してマスカラを手に取った。何度か出し入れされたその黒い毛虫のような先が、すらりと天に伸びた睫毛を塗り込めて行く様は、どこか彼女の零れる溜息を思い出させる。ベッドに腰をあずけながら、今度は自分の足の指先を見た。おととい仕上げたカシスソーダ色のネイルがすこし禿げかけている。ああ、お酒を飲みたい。昨日みたいな、頭にガツンと来る、強いお酒を。
「お前、今日仕事は」
「休み……、昨日言うたやろ」
「そうだっけ」
興味なさげに、睫毛をぱしぱし、される。繊細だった睫毛がしっかり太くなって、大きな瞳に覆いかぶさっていた。まぶたにほんのちょっとついたマスカラを眼を細めながら小指で拭っている。その爪の色は、カシスソーダだった。
「次……いつ?」
「いつでも。どうせいっつも暇やしな」
「じゃあまた連絡する、けど。あのさお前、ちゃんとメール返せよ」
「あーちゃうねん、無視しとるわけやないで、めんどいだけや」
「うざ」
ふ、と、笑った唇に引かれた薄いピンクのルージュは、この前見たものとすこし違うようだった。好きなブランドが変わったのか、なんなのか。こうやってこの女はときおりまったく知らない顔をする。ファンデーションの上に乗ったチークは先月あたりからすこし変わった。あとアイラインが濃ゆくなったのは先週ぐらいだったろうか。まあどーでもいいんだけどそんなこと。
「じゃあ帰るわ。今何時?」
「7時半」
手首に巻き付けられた時計は、前とおなじ。よし、よし。よかった。彼女が悪魔の草ときらうそれを肺いっぱいに吸い込んでから、ゆったりと鞄を持ち上げて部屋を出て行く後姿についてゆく。ストッキングに包まれたほそい足首を確認しながら、まばたきをした。カーテンを通した薄い太陽だけのあかりが頼りなくもないのは、今が朝だからだろう。慣れた手つきで鍵を解除して、昨日履いて来た秋色のヒールを引っかける彼女のうなじに、静かに煙を吹きかけた。それに感付いた彼女がすぐに振り返り、心底いやそうに眼球を揺らす。
「…そういえばまた友達が結婚したんだけど」
「あーあ、ご愁傷様」
「わたしもう最悪、お前でもいいわ」
彼女はあたしの顔を眺めながら、吐き捨てるように、そう言った。そのままドアノブを捻り、さっさと身を捻らせて出て行く。最後の最後まで残っていた右手の指先の、カシスソーダ色が、ちらちらと心臓に突き刺さった。ああ、あたしほんと、アンタみたいな女がだいきらいや。
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無題
- まいこ
- 2014/09/30(Tue)14:35:55
- 編集
おとこがこんなにおんなを観察しているなんてものすごい好きなのかとおもったら、おんなだったのね。
無題
- 梅子
- 2014/10/06(Mon)22:51:58
- 編集
まいこさん>
ビアンというかほぼガチレズな小説を書こうとおもってむかーしに書いたやつでした……。
ビアンというかほぼガチレズな小説を書こうとおもってむかーしに書いたやつでした……。
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