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いっそころして



お兄ちゃんが帰ってきた。



廊下はしんと冷え渡っている。やわらかいスリッパの奥から、爪先がつめたくなっていくようだった。擦りガラスの玄関にカーキ色の人影がうつる。横にひかれた戸の向こう側に、お兄ちゃんは顔を出した。廊下で立っていたあたしの顔を見るなり、お兄ちゃんはぴくんと体を揺らして眼をみひらく。
「びびったぁ」
「おかえり」
「…ただいま」
お兄ちゃんはあたしのから目をそらしてつぶやくように、言う。家を出たときは髪がぐしゃぐしゃになるくらいどぎつく染めていた金髪も、今ではすっかり芯まで真っ黒で、まるで違うひとのようだ。お兄ちゃんは重たそうなキャリーバッグを持ち上げて敷居をまたぎ、後ろを振り返った。お兄ちゃんの背中の影から、ミユキさんが首をのばす。
「サトミちゃん、おひさしぶり」
おひさしぶりです、と軽く頭を下げたあたしは、ミユキさんの腕の中のものを見ていた。ずっしりとした丸い顔と、やぶけそうに薄い肌、不機嫌そうな表情。
「ユキヒコ、ていうのよ」
ミユキさんは、チョコレートを舌の上で溶かしているような言い方をした。ユキヒコは、お兄ちゃんとミユキさんの子供だった。きゃしゃなミユキさんの肩のむこうから、外の冷気がどっと流れ込んできていた。




暗くておもったるい我が家に、ぱっと明かりが灯ったようだった。ミユキさんが座っているところを中心にして、空気はしらじらしいぐらいに浮き足立っている。いつも口を一文字に結んでいる父も、不満そうにくちびるをとがらせている母も、ユキヒコの前では尊く笑っていた。
「さっき車の揺れで起きちゃったから、ちょっとご機嫌ナナメなんですけど」
ミユキさんは、ぐずついたユキヒコをあやしながらつぶやいた。ミユキさんの色味のうすいぷっくりとしたくちびるの横には、小さなほくろがある。ほそく伸びるうなじには栗色にたゆたう髪の毛。きれいにぴんと張られた肌はどこも隙がない。ミユキさんは綺麗だった。心臓の音を聴くように、ユキヒコは額を彼女の胸に押し付けている。母がユキヒコの顔をのぞきこみ、かわいいわねえとつぶやいた。
「眼は、ミユキさん似かしら」
「そうですね。でも口が大きいでしょう」
「ミチヒコに似てる」
「ええ。かわいくって」
母はあまいため息をついた。ミユキさんからも幸せそうな微笑みがこぼれる。父は二人のすぐ傍に座って、だまってユキヒコを覗きこんでいた。今時、ドラマでもこんなシアワセは見つからない。あたしはそんな、ぽっかりとスポットライトをあてられたような空間を、壁に身体を預けながら見下ろしていた。もしこれがほんとうにドラマだとすると、あたしの役はいったいなんなのだろうか。セリフを与えてくれるのなら、嫌味な役くらいすぐにやってみせるのに。

「サトミちゃんは、今年大学生になるのよね?」
ミユキさんの、気を使ったような発言が寄せられた。ふ、とスポットがフェードアウトして、父と母になんとなく意識を向けられたような気配がする。
「はい。一人暮らししようとおもって」
「いいわね。でも、困ったことがあったらいつでも頼ってよ?」
しろい八重歯が、くちびるの間からのぞいている。あたしがきちんとうなずいたのを見届けてから、ミユキさんはまたユキヒコを揺らし始めた。ゆらゆら。ゆらゆら。父と母の視線もまたそっちに流れてしまう。ユキヒコの表情はすべてを浄化するようにきよらかで、途方もない。あたりを窺うような大人しいヒーターの音と、ユキヒコがもらす二酸化炭素が、あたしを縛りあげていくようだった。だれにも気付かれないうちに、踵を返して空間を出ていく。一枚のドアのむこうはまた、別世界のようにつめたくて静かだ。


階段をあがって、まっすぐいった突き当たりの部屋の前に立つ。ちょうどあたしの目線のあたりに、木のプレートに張り付けられたアルファベットが並んでいる。もう塗装がはがれてしまってずいぶん汚い。ドアをノックをしようとして手をあげると、うっすらと隙間があいていることに気がついた。お兄ちゃんが部屋にいる気配が、その隙間から流れ出ていた。わたしはドアノブをにぎり、つよく力を入れてひねる。






目に飛び込んできたのは、お兄ちゃんが好きなバンドのポスターだった。だけどそこにバンドのメンバーはひとりも映っていなくて、並べられた文字列とにじんだ色彩だけが載せられている。これはずっとむかしから、お兄ちゃんの部屋にあったものだった。ラックに並べられたCDの前で、ホコリを被ったギターがひかえめに沈黙している。
「おまえ、俺の部屋はいったろ」
ベッドの上で壁にむかってねそべっていたお兄ちゃんが、くぐもった声をあげた。わたしはドアノブを持ったままで、お兄ちゃんの背中をながめる。すこし華奢になったようにおもった。
「はいってないよ」
お兄ちゃんはわたしがそれを言い終わる前に、ゆるゆると左手をあげて、ラックのほうを指差した。整頓されたCDの隙間。ぽっかりと空いたその空間に、わたしはようやくドアノブを離して、ベッドへ近付く。
「CDが一枚ない」
「ごめんね」
「ベッドもおまえのにおいがする」
「ごめんなさい」
わたしの声が近くなってゆくのを、お兄ちゃんは気が付いていたのだろう。わずかに身を揺らせて、壁に額を押し付けている。そうやっていつもわたしから眼を背けるんだ。お兄ちゃんはいつだってずるいの。わたしの心はじくじくと揺れて、鼓動がはやくなっていく。
「お兄ちゃん、ひさしぶりだね」
「…俺、ずっと運転してて疲れたから、寝る」
「どうして」
きん、という耳鳴りが、空白に共鳴する。お兄ちゃんは額を壁にくっつけたまま動かない。
「ねえ、どうして」
「……なにが」
「お兄ちゃん」
「さわるな」
「なんで」
「さわらないでくれ」
「ねえお兄ちゃんあたし、もう子供じゃなくなっちゃうよ」

ベッドのそばにうずくまって、お兄ちゃんの背中に手をのばす。くちびるからは白い息がこぼれて、つめたくて救いようのない空気が押し寄せてあたしたちを包んだ。きれいにきれいに整えた爪の先がとどかない。この背中はあたしが生まれたときからそこにあって、そしていつまでもそうだとおもっていた。あたしは、冬がこんなにさむいなんて知らなかった。お兄ちゃんは教えてくれなかった。
「頼むから、さわるな」
お兄ちゃんがしぼりだすように言う。かなしい声で言う。そんなに苦しいあたしをひとりぼっちにする。


「お兄ちゃん、」
あたしがそう言った瞬間、ユキヒコの泣き声が落雷のように響き渡った。そうして、あたしのすべてを奪った女がお兄ちゃんの名前を軽率に呼んでいる。ユキヒコと共に呼んでいる。「お兄ちゃん、あたしのことメチャクチャにしてよ」お兄ちゃんはまた聞こえないふりをする。もうなにもいらない。殺して。











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