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きっともっと単純なこと



「あのぉ、休みの日とか何してるんですかぁ?」
「……カタツムリ観察してる」


頭の軽そうな(ついでにケツも軽そうな)女の客に絡まれた中尾さんが、無表情でそう返した時。それが、あたしの運のツキだった。ひゅるんっと音がして、あたしはやすやすと恋に落ちたのだ。ここのカフェでバイトをはじめてたった3日。まだメニューも覚えていなかった。



中尾さんは、ここのカフェのオーナーの甥っ子にあたるのだという。29歳。独身。ぼさぼさに伸びた髪の毛の色はアッシュグレー。キッチン担当のアッコさんが訊くに「地毛です」とのことだったけど、ふつうにつむじのあたりが黒い。うすいくちびるの下に一個だけ、控え目な黒子。ぱきっとした鼻と、常に眠たそうなのに、すべてを見透かしているみたいな眼付き。これはまさに、女にもてるタイプだ、とあたしは直感的におもった。そして同時に、あたしはこんな男には惚れない、ともおもっていたのに。3日でその信念はくずれさった。あたしは結構、単純である。


中尾さんは朝の8時から夕方の5時まで働く。あたしは11時から8時。かぶっているのは7時間、その間の会話はほとんど無いにひとしかった。だって中尾さんはだいたい、しゃべらない。眠たそうにまばたきをしながら、10訊かれれば3返す、ぐらいの割合だ。会話をしようという気がない。

3番、コーヒーまだみたいです。「うん」
ご飯先行って下さい。「うん」
ここのカルボナーラっておいしいですか?「うん」
あ、いけない。5番さんの注文が。「うん」

これは会話なのか。会話じゃないな。昼間のピークがすぎた店内で、テーブルにこびりついたデミグラスソースを拭いながら考える。おもえば、あの客には懇切丁寧カタツムリのことを教えたくせに、なぜあたしには「うん」としか言わないのか。むしろ、「うん」で返せないことを訊いてみようか。中尾さんはイスの下に落ちたおしぼりのビニールを拾っている。

何を訊こう? いっそ、カタツムリのことを問いただしてみるか?


「あの、中尾さ、」
「中尾くーん、お昼たべな!」

アッコさんの声がキッチンから飛ぶ。べつにここは中華料理屋でもなんでもないのに、お客さんにも聞こえるくらいのその掛け声はどうなんでしょうか。あたしが睨むに、アッコさんはオーナーの愛人なのだけど、お昼のドラマで見るような愛人の艶やかさはかけらも無いひとだ。中尾さんは腰をあげて、のそのそとキッチンのほうへ向かっていった。

お昼ごはんは、だいたいピークがすぎて少ししたら振舞われる。だいたいは、アッコさんが適当に作ったものなので、あまり過ぎたスープにいろんなものがぶち込まれていたり、へんな肉のかたまりがドーンと皿に乗っていたりする。アッコさんのまかないはおいしいんだけど、いまいち品がない。いつもお客さんの前にでているものは、オーナーが盛り付けを担当しているから、ずいぶんきれいなんだけど。


キッチンの隅にある小さなテーブルと椅子に座り、中尾さんは、アッコさんの野菜炒め(みたいなやつ)とスープ(みたいなやつ)に手を合わせた。あたしは、デミグラスソースまみれの指をあらうために、カウンターの裏にあるシンクの前に立つ。こそこそ、中尾さんの横顔をながめた。今日は、来たときの「おはようございます」「うん」という会話しかしてない。いやこれ会話じゃないって。

「うみちゃん、仕事なれたかな」
「それなりに……」
「そう」
オーナーがシンクの傍にきて、あたしが出した水で手を洗いはじめた。あたしはまだ、べとべとの指をもてあます。オーナーは小ざっぱりした清潔そうな人だけど、鼻がすこし曲がっている。アッコさんは「昔やんちゃしてたらしいよ」なんて笑っていたけど、あたしはこの人が喧嘩をするようなところが想像できなかった。ぴっぴっと水を払ったオーナーは、コックを捻って水を停める。
「あ、」
「ん?」
「いえ…」
あたしは人になにかを強く言うことができない。よって、デミグラスソースをどうすることもできなかった。オーナーがシンク下のタオルで手を拭き、キッチンに引っ込んで行くのと交代で、アッコさんが顔をだしてくる。

「なにしてんの? 指きたないね」
「いや……、あの、アッコさん」
「ん?」
おそるおそるコックをひねって、控え目な音をたてながら手を洗うあたしの横を、アッコさんが通り抜ける。コーヒーメーカーを操作している後姿に、また声をかけた。
「中尾さんって…、いつからここに?」
「え? そうだね、うみちゃんの入るちょっと前」
明確じゃないな。タオルで指を拭って、まつげにかかる前髪をぴんとはねのける。アッコさんは茶渋のひどいカップでコーヒーをすすっていた。

「中尾さん……寡黙な人ですね」
「そう? ふつうにしゃべってない?」
「え、えっと、あたし相槌しかもらえなくて」
「人見知りなんでしょ」
アッコさんは適当だ。まあそれはいいとしても、やっぱり中尾さんは、他の人とはきちんと会話をしているようにおもえた。心の底からどろっとした感情が押し寄せる。あっ、いやだ、きらいなやつ。あたしは単純で、かつ変に繊細なので、こういうのがとても気になる。

「嫌われてるんでしょうか……」
「そんなわけないって、大人なんだし」

やっぱコーヒーはブラックよね。うみちゃんどうおもう? アッコさんはどうでもいい話をしはじめた。あたしコーヒー飲めません、と返す。







「中尾さんって……生きててたのしいんでしょうかね…」
「うみちゃん、それ、ドツボ。余計なお世話でしょ」
掃除用の箒を持ったまま、びし、っと指をさされる。閉め作業中、アッコさんのむきだしの額がまぶしい。あたしが入って二週間、未だに中尾さんとの距離は縮まらず。あたしとアッコさんの距離はさらっと縮まる。いや、べつにいいんだけど。なんだかんだで、あたしが中尾さんのことを好きになってしまったことに気付いたアッコさんは、あたしの思考をひっくりかえした。
「うみちゃん、だからさぁ、自分で誘えばいいじゃん中尾のこと。ごはんとか、行けば?」
中尾だって。あたしは未だに、中尾さんとしか呼べない。そして帰ってくる返事はいっしょ。
「中尾さんがなんか食べてるのとか、想像つかないです」
「食べてんじゃん、昼に。ばくばくと」
「いや、あれは……ちがうんです。ひとりでいるとき、何してるかわかんなくないですか?」
「そりゃあ……知らないけど」
興味ないし、との一喝。アッコさんが興味あったら、あたしがこまる。今日も中尾さんは5時きっかりに仕事をあげて、さっさと帰ってしまった。あたらしい発見はといえば、中尾さんはちょっと考え込むような動作をするとき、息を停めるとくせがあること、ぐらいである。

「ていうか、なんで? なんで中尾? まあイケメンだけどさ。客にもモテてるし。中尾狙いでここ来てる子、けっこう居るよね」
「えっ、やっぱりそうなんですか」
「まあふつうに。それよりうみちゃんは、良い人ほかにいないの? あんな早々から人生に疲れきってそうな人間じゃなくてもいいでしょ」
「そんな言い方しなくても」
「そもそもなんで好きになっちゃったわけ?」
「えっと……、カタツムリが」
「はぁ?」

からんからん、とタイミング良くベルがなった。もうクローズの看板は出していたはずなのに、とおもいながらアッコさんと顔をあげると、そこにはまさに渦中の人物。ねむたそうな眼があたしたちを眺めている。アッコさんが箒を持ちかえながら、あれぇ、と靴を鳴らす。

「中尾、どうしたの?」
「忘れ物が」
「え? なに、なに忘れた」
「携帯を」
「うわそれ、今まで気付かなかったの? もう8時過ぎてんのに」
アッコさんとさらさら会話をしながら、中尾さんはこっちに近付いて来た。ぎょっとして身構える。足の裏からのぼって来るような過敏さを、ひしと感じていた。打ち鳴らされる鼓動と、にぎりしめた箒。中尾さんはここを出たときと同じ格好をしていた。黒いジャケットと黒いスキニ―ジーンズ。くたびれた灰色のシューズ。格好も、仕草も、いちいちあたしのなかに沈み込んでくる。あたしがこんないろいろを考えていることを知ってか知らずか、中尾さんはカウンターの裏にまわり、一瞬しゃがんで、すぐに立ち上った。

「なに? 帰るの? 急ねえ」
一礼をして、ドアに手をかけはじめた中尾さんの後姿に、アッコさんが言葉をなげかける。そうしてあたしを一瞥してから、だるそうに箒に体重をかけはじめた。
「ねえ中尾、うみちゃん送ってってあげてよ。この間の帰り道で、こわいおもいしたんだって。オーナーは今日いないし、中尾くんこれから帰るんでしょ?」

えっ。肩がはねる。今、これは、あたしの話をしてるのか?
アッコさんの眼がじとりとあたしを見つめていた。わたしにこんなことさせないでよと言わんばかり。いや、してほしいなんて一言も。同じく眼で返そうとすると、ドアノブを捻った中尾さんのほうから、またからんからん、とベルが鳴った。
「ちょっと、中尾、聞こえたでしょ?」
「……外で待ってるので」
からんからん。ドアが閉められる。あたしは箒ににじむ汗と、一瞬の出来事でぐちゃぐちゃにされた脳内で、いっぱいいっぱいだ。めんどくさそうなアッコさんに肩を叩かれても、なんの反応もできない。恋に落ちて二週間…もたってない、ろくな会話も、まだできてない、のに。






ドアを開ける。ベルの音は耳に入ってこない。すぐ傍の壁に身体を預けていた中尾さんは、なにをするでもなくじっとしていた。あたしのことを認識すると、ポケットの中に入れていた手を出して、力無くぶらさげている。沈黙しているのはあたしたちだけのはずなのに、なんだかふわふわと、うまく鼓膜が閉じられていた。中尾さんはしばらくそのままでいたけれど、あたしがなにも言わないのを悟ってくちびるを開いた。

「お家はどこ」
「あ……ぜんぜん、あの、すぐそこなんですけど」
「うん」
「あ、あっちです、あっち」

あっ、これって、会話だ。ようやく、やっと、会話できた。あたしの心はどんどんと満たされてくる。ショルダーバックのヒモを握りしめながら、中尾さんと一緒に歩き出した。あたしのほうが少し先を歩いている。中尾さんは、あたしの足跡を確かめるように、後ろを。こんなことをおもうのはおかしいけど、とにかく中尾さんは人間味のない人のような気がしていたから、あたしの姿が見えているんだ、なんて変にうれしくなっていた。中尾さんがシューズを引きずって歩くような音がはっきり聞こえる。

「あ、あの、中尾さん」
「うん」
「……カタツムリ…の観察」

中尾さんのシューズの音がいっしゅん、遅くなった。あれっとおもいながら、ほんのすこしだけ振りかえると、中尾さんはいつもどおり緩慢なまばたきをしながらあたしを見ている。

「カタツムリの観察、してますか」
「…ううん」

ううん。ううんもらった。いや、なんというか、人間はこんなに不審そうに「ううん」って言えるんだなって、とりあえずそれだけ考えて、いやいや、と首を振る。歩きながらきちんと振り返って、中尾さんのさむそうな喉仏のあたりを見た。


「中尾さん、お休みの日、カタツムリの観察してるんじゃないんですか?」
「…ううん」


二回目の、ううん。ふくれあがっていた、あたしのしょうもない恋心とか、ときめきの気持ちが、ふしゅうっとしぼんでいくのを自分でも感じる。カタツムリの観察、してないんだ。しかもそんな、あたしが変な人みたいな眼。ちょっと距離をあけられている気がする。伸びる街灯の影が、あたしと中尾さんに隙間をつくっていた。


「……あ、猫の」
「えっ?」
「猫の観察してる」

中尾さんはちょっと笑っていた。あたしは息をぐっとのみ込んで、口角の上にすこし寄った皺を凝視した。中尾さんの笑顔はすぐに薄れて消えてしまったけれど、あたしの脳内にはくっきりと、その表情がうつしだされている。猫。猫の観察をする、中尾さん。ふわふわの猫の毛が風になびくのを見ながら、中尾さんはどんなことをかんがえているんだろう。あたしのなかでぺしゃんこになっていたはずのものが、しゅこしゅこと空気を入れられるみたいに、また息をふきかえした。


ねえ中尾さん、あなたのこともっと知りたい。
あたしはそう言うために、中尾さんに一歩ちかよった。中尾さんはちょっとねむそうな顔で、じいっとあたしを見ている。


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