うつうつ、うそつき。
ポケットから偶然零れ落ちたキャンディを拾うみたいに、涙を拭った。自然に見せようとして、あんまり乱雑にしたものだから、瞼の上が、すこしひりひりと痛む。東から吹く秋風がそれに沁みて、余計に鼻の奥がつんとした。立ち竦むベランダの端に溜まった煙草の吸殻は、見るたびに情けなくて、ぼんやりとした視界が色彩を転がす。ああどうしてこんなにも、人生って、面倒なんだろう。息をするってだけで、体が重くって、そのまま投げ出してしまいそうだ。日がな一日ベッドに転がって、なんでもないことを考えながら、柔軟剤のにおいが微かに残る枕に耳を押し付けると、ピアスのキャッチが、頬骨を押しつけてくる。それが僕の、日常だった。5つもある穴にはそれぞれ、種類の違うピアスが刺さっているのに、どれも思い入れがない。人から何かを貰う事なんて滅多になかった。
「アンタは生きるのがへたくそね」
いつの間にか、カーテンを開けて後ろに立っていた彼女が、唇の端を赤く滲ませながら呻いた。彼女の大好きなトマトチーズピザは、僕が大嫌いな食べ物だ。それを知っていながら、玄関のポストに入っていたピザ屋のチラシを見ながら携帯のボタンを押して、バカみたいにひとりですべてをたいらげた彼女は、トマトソースを舌で舐めながら、裸足でベランダに出てくる。白くて皮の薄い足からは、青い血管が透けて見えていた。ひたひたと、冷たいコンクリートを歩いて、ベランダの隅のサボテンを覗きこむ。
「アタシ、あんたが浮気してたこと、知ってたよ」
「・・・うそ、なんで」
「女の勘・・・って、いうか、あんたがいっぱい自分でヒント、くれたんじゃん」
「あげてるつもりなかったけど」
「ベッドの上ではみんな素直なもんよ、いつも卑屈なアンタもでもさ」
放浪者の姉から、誕生日にもらった小さな小さなサボテンは、春になると黄色くて可愛らしい花を咲かす。去年あたりは見事に美しい花弁を見せてくれたものだけれど、そういえば今年は、このサボテンの様子なんてろくに見ていなかった気がする。毎日が気だるくて、煙草の煙に塗れるように、視界がかすんでいた日々。終止符を打つタイミングなんか少しもわからない。昨日の夜にたっぷりと酒を飲んで以来、何を食べる気もしない胃が、アルコールにもたれてぐるぐると回っていた。
「ねえ、このサボテン、痩せてる。もうダメなんじゃない?」
「サボテンはそんなもんだよ」
「それ偏見でしょ。うちのサボテンは丈夫に育ってるわ」
「お前のサボテンって、がっつり育ってて、気持ち悪いよね」
「がっつり育って何が悪いの? 生き物なんて、みんな必死で生きてんでしょ」
だから、と彼女が言う。
「死ぬとかさ、簡単に言わない方がいいわ」
必死になることが、難しい僕には、すこしも理解できない言葉だった。生きてたらなんとかなるだとか、生きてないと意味がないとか、そんな陳腐で安っぽい言葉で慰められても、このバカみたいにゲロくさい心は微動だにしない。卑屈に卑屈が重なって、ホームレスの嘔吐物以下の汚さを持った僕という生き物が、そこのある小さなサボテンより価値があるだなんて思えなかった。思考ばかりが脳内を跳ねまわり、嬉しい過去を押しのけて、つらい出来事を浮き彫りにする。煙草が眼に沁みて、また、涙が出そうになっていた。
「アンタさ、死んだら楽になれるって、誰が言ったのよ。死んだらひっどい世界かもしれないわよ。死ぬほど働かせられるかもしんないし、あ、ねえ、無だったらどうする? なにもないの。眠れないし、食べられないし、もちろん死ぬこともできないで、何もない部屋でひとり、ずうっと、長い時間を過ごさなきゃならなかったら。知らないでしょ、アンタ、向こうの事なんてさ」
サボテンに飽きた彼女がゆっくり、こちらに近寄ってきた。ベランダの柵に腕を引っかけている僕の横に来て、まっすぐに僕を見つめる。零れ落ちそうなほど大きな瞳は真っ暗で、見つめ返す事ができなかった。僕は彼女と眼を合わすのが苦手なのだ。何を考えているのか解らない眼。自分でも気がつかないような、何かとんでもないことを見透かされているような気がして、僕は空を仰ぐ。
「お前だって、知らないだろ」
「知らないから、想像するのよ。得意分野でしょ、作家さん」
「その言い方やめろって」
「アタシはアンタのそういう、自分嫌いなとこだって好きだわ」
恨めしい想いや、どろりとしたなんともいえない感情が押し寄せて、思わず彼女を見た。人間として尊敬するべきところはたくさんあったのに、どうして僕らは、想いを交差させられなかったのか。その原因は僕にあるのだけれど、それでも、彼女はストレートで暴力的な愛を、遠慮なく僕にぶちまけてくる。わかっていながら、その優しさに遠慮もせず甘えていたのは、僕という人間の弱さの為だった。
「そんな顔しないでよ、わかってる、やり直したいなんて言わないから」
彼女はそっと、僕の肩に額を寄せた。僕が抱えきれなかった痛みや苦しみを、なんとかしようとしてくれた彼女への感謝は、謝罪としてでしか言葉にならない。何度も何度も、呟くように謝りながら、彼女の細い肩を抱きしめた。優しい彼女はされるがままに、空気を吸いこんでいる。
「生きるのって面倒だけど、死後の世界が楽じゃないなら、死なない方がマシなのかもね」
ひとりごとのようにぽつりと、彼女の耳元に向けてそう呟くと、彼女はまるで素敵なものを見つけた子供のように微笑む。ほんのすこし、トマトのにおいがした。きっと僕はトマトソースを舐めるたびに、彼女を思い出すのだろうと、ぼんやりおもった。
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