さよなら
沈黙が痛かった。だからわたしは黙って、対して気にもならない左指の爪の先をずっと擦っている。目のやり場がないって、きっと本当はこういう状況のことを言うんだ。じりじりと時間だけが過ぎる音がして、わたしの瞬きでさえもぱちりと大きく鳴いた。そうすればやっとのことで彼は唇に当てた指先を離し、「そう・・・」とだけ言う。あれそれだけ、と思った瞬間、「うーん」という長い長い呻きが空間を支配した。まだ考え足りなかったのかな、この人はいつもいつも考えているから。そう思って上げかけた視線をまた爪の先に落とすと、彼が話を始めた。「いや、うん。そうか・・・あのね、僕はなんとなく、君がそんな気持ちでいることは気がついてたよ。でも、まさか、こういう事になるとは・・・思ってなかった・・・」帽子を被ったままで、その上俯いているもんだから、彼の表情はわからない。ただ、その指先はまだ考え込むようにちらちらと動いていた。癖だ。彼の、癖。いろいろ思うところはあったけど、あえて何も言わないでいようと口をつぐむと、彼はまたぽつぽつと話し出した。「残念、だなあ・・・すごく残念だ。だって君は、もっともっと・・・ううん、君の考えはしょうがないと思うよ、引き留めて困らせようなんて別に思ってない。でもね、僕は、残念だと思ってるんだ」そこで彼は足を組み換え、また視線を宙に浮かせた。まだ考えている。どこまでもどこまでも考えている。わたしはとうとう居た堪れなくなって、唇を開けた。「わたしは・・・ばかだから、貴方の気持ちを理解できなかったし、自分の事だってロクにできなくなってしまった。もちろんそれは貴方の所為じゃなくて、わたしの所為なんだけど、やっぱりわたしは貴方とは合わないんじゃないかと思うの、それはわたしがばかだからなんだけど」相変わらず言いたいことがうまくまとまらないわたしは、言いながらわたしはなにを言っているんだろうと思った。そんなのただの言い訳で、本当は、ただ貴方から解放されたいって思ってるだけなのに。それを言えれば苦労しないんだけど。それでも、わたしが自分で考えた結論は、絶対に真っ向から否定されると覚悟していた分、拍子抜けしたところもある。彼はようやく少しだけ顔をあげて、ずれた眼鏡をさりげなく押し上げた。そうして、わたしの足元に視線を注ぎながらまた小さく唸る。「うーん、でもね。僕は、君が思うより君はバカじゃないと思うんだ。君はずいぶん自分を卑下しているみたいだけど、君は賢い人だよ。僕は、いろんな人を見てきた。だから、人を見る目だけはあると自負してんの。だからこそ、残念だなあって思って」そこまで言って、彼は体を捻った。「でも僕の所為でもあるよ。君をそこまで追い詰めてしまうような環境を作ってしまったのは僕だから。君がずるずるとマイナスの方へ引き摺られているのを見ていて、優しく引き上げるよりも言葉でしっかり叱責したほうがいいと思ったんだ。だからあんなことを言った。君がそういう風に理解してしまう事までは考えてなかったけど。はやくなんとかするべきだったな。ほんと、後悔してる」テーブルの上に散らばった書類の上に手を置く気にはなれなくて、ただずっと膝の上で、爪の先を拭っているわたしに、彼が視線を注ぐ気配がした。わたしはどうしようもなくて、視線を返すこともない。「でもやっぱり残念だ。この間まで僕は本当に切羽詰まっていて、他のことに気が回らなくて、あまりにもばたばたしてしまった。それが君を委縮させて、怖がらせてしまったんだろうね。たいがい君は臆病者なんだろうから」怒っているのか、ただ自論を語っているのか、さっぱりわからない。わたしは爪を擦るのをやめて、冷たい指先を太腿の下に滑り込ませた。部屋が寒い。羽織った上着は、わたしの行動を制限させた。「君が優しいのかなんなのかはわからないけど、もっとドライに生きるべきだよ。僕のようにね。周りに引き摺られてしまった分は、自分じゃ気がつかない事が多いし。感情って伝染するんだよ。誰かが緊張すれば、それが周りに伝わって緊張感になるでしょ。それと同じ」そんな台詞を聞きながら、彼は本当に頭の良い人だけど、わたしが何を不服に思ってもおそらく根本からは理解できないのだろうなとぼんやり思った。部屋が寒いね、とだけ呟いて彼は席を立ち、エアコンのスイッチを入れる。ぶーん、と音を立てて動き始めたエアコンは、このかちかちに固まった空気をほんの少しだけ柔らかくした。「心が折れちゃったんだね。そうでしょ? ・・・いつからそんな風に思ってたの?」疑問詞が投げかけられたことに気がついたわたしは、はっと顔をあげて彼の顔をみた。彼は真顔だった。思わず唇を噛み、視線を逸らしてしまう。「・・・2週間くらい前に、決めた。考えてたのは、もっと前だけど」「ふうん・・・そんなに前だったのか。様子が変だなあとは、思ったんだけど」彼はわたしから視線を逸らせて、椅子に深く腰掛けた。背もたれにぐっと体重を預けて、だらしのない格好で唇を突き出している。「前はそんなんじゃなかったよ、君。もっとハッキリしてたし、雰囲気も良かった。でも変わっちゃったんだよね、マイナスに当てられてさ。こう、もやもやしたものがあるとするじゃん。それはみんな持ってるもんなんだよ。でもあるきっかけで、それがふっと重くなる。今までどうでもよかった疑問や不自然を引っ張り出して、考え込みはじめる。それが君にあった出来事なんだね。さすがに僕も、このタイミングでそう来るとは思ってなかったけど」じわじわとあたたかくなり始めた部屋に、また固い風が吹き始めた。わたしはテーブルに乱雑に並んだ書類の文字列を、意識もせずに読んでいく。彼はおもむろにポケットからフリスクを取りだして、幾粒か口に放り込んだ。「みんな気がついてたんだよ。君の異様な雰囲気にはね。でもそれをカバーするだけの環境がなかったから、こうなった。いや、もう今更言っても仕方ないんだけど。たとえば誰かがそういう気持ちになったとき、それを乗り越えるだけの力と環境がいるんだ。そして乗り越えれば達成感や爽快感がある。でも君の場合はそれがなかった。それってとても怖いことだよ。とっても怖いことだ」彼は繰り返した。腕を組んで、また考え込むように視線を下げている。「今まではそういった波乱がなかったんだ。割と平凡にやってたし、ごちゃごちゃすることもあったけど、なんとか乗り越えられた。でも今回のはちょっと複雑で、僕もいっぱいいっぱいだった。そのマイナスをどうにかするっていうことは、僕自身でやらなくちゃいけなかったんだ。誰かに任すべきじゃなかった。それがきっとダメだったんだ、それに、」淡々と話をしていた彼がふと停まった。がりがり、とフリスクが砕ける音がしたあと、彼の声がぽろりと零れる。「いや、今となっては別にこんなこと、どうだっていい・・・何が言いたいんだろう、俺」最後の方でほんの小さく呟かれたのは、初めて聞く彼の弱々しい本音。反射的に顔をあげると、彼は視線を落としたまま、深く深く帽子を被っていた。なんにもわからない、表情。わたしは彼を見ていたけれど、彼は、さっきのわたしのように、あえてわたしのほうを見なかった。「残念だよ、すごく・・・残念だ・・・」エアコンが空気も読まずに音を荒げた。彼の小さな声は一瞬、訊きとれなくなる。それを見計らったかのようにわたしの喉に押し寄せた不快感は、咳となって口から飛び出た。わたしが咳をしている間、彼はずっと黙って、静かに音を聴いている。しばらくして、彼は自分の携帯に手を伸ばした。時間を確認して、立ち上がる。「もう行かなきゃ。ダブルブッキングだったんだ、今日」「あ、ごめん・・・くだらない話で長くなっちゃって」「いや、大事な話だよ」腕時計を見れば、もうすでに時間は迫っていた。わたしも帰らなくてはと思い立ち上がりかけると、彼はふとわたしと目を合わせる。帽子の下の眼鏡に覆われた目は、ぱちりと瞬きをした。「・・・髪切った?」「あ、うん、前髪だけ」「ふーん・・・感じ変わったね」彼は少しだけ笑った。久しぶりに見る笑顔だった。
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