オヤスミウサギ
「いろいろあったけど、結局おれら、なーんもしてないやんなあ」
テーブルの上のチョコレートラテをじっと眺めながら、漱石は唇の皮を剥いでいた。1ヶ月付き合った彼女にクリスマス前に振られてしまった彼は、どことなくテンションが低い。もったりとしたアフロ頭が、ゆらゆらと揺れて、そのたびにぴりぴりと皮が剥かれた。
博識そうな名前を立派に持っているくせに、漱石は本当にバカだった。天然パーマが進化に進化を重ねたぐりぐりのアフロと、無駄に高い背がこいつの特徴で、そこそこモテるがバカな所為で恋愛が長続きしない。そして猫舌の彼は、チョコレートラテが冷めるのを待っている。(ただし、見つめたところではやく温度が下がるわけではない)
「俺はしたよ・・・」
「なにを?」
「・・・バイトとか」
「おれもしてんよ」
「お前は辞めたじゃん」
「だって仕事覚えれんもん」
「バカだもんな」
「あっちぃ!」
結局、大した我慢も出来ずにラテに唇を付けた漱石が、大きく仰け反る。がちゃん、と乱暴に置かれたカップからチョコレート色の液体が飛び出してきて、無垢な白を汚した。ああバカだなあと、どうしようもなく思いながら、あたたかくて美味しいコーヒーで喉を潤す。これを淹れたのは、浮気症というすさまじい病気をもった俺の彼女であるが、残念ながら外出中である。
「2011年、他になにした?」
「・・・勉強」
「単位3つも落したやんな」
「じゃあお前は何したんだよ」
舌を火傷したらしい漱石は、蛇のようにそれをチラつかせて、うっすら涙を滲ませている。いひゃい、と小さく呟いたのも聞き逃さなかった。
「いろいろ・・・いろいろしたよ、まず髪染めたっしょ、んで告白して、付き合って、セックスして、振られて、財布無くして、姉ちゃん結婚して、」
「ちょ待て待て、それアリか、アリなのか」
「アリよ、もうなんでもアリよ」
「お前さっきなんにもしてないっつったじゃん」
「よく考えたらしてた」
「ほんっと・・・お前・・・」
バカだよな。最後のセリフだけは目線に預けて、黙ってコーヒーカップを傾けた。漱石は目線の意図も知らずに、またチョコレートラテを眺める作業に移っている。だけどそんな単純なことが「した」ってことなら、あんがい、俺も2011年を謳歌できたのかもしれない。俺も髪切った、いつもどおり浮気された、いつもどおり許した、隣人と喧嘩した、村上春樹読んだ、ギター始めた、ギター壊した、ギター辞めた。
「あーあのギター、高かったのにな・・・」
「なんでやめたん」
「壊した」
「なんで・・・」
「落した」
「どこでよ」
「ベランダから」
「はあ?」
「酔っぱらって」
「・・・笑っていいん?」
「あーできれば笑うな」
とたんに、漱石のなで肩が震えた。やがてゲラゲラと声をあげて笑いだしたので、テーブルの反対側から手を伸ばして、アフロを思いっきり叩く。このくるくるパーマがクッションになったのか、たいしたダメージも受けずに、漱石は笑いを深めた。
「お前さあ、俺のことバカにできんのかよ。お前村上春樹、読んだことある?」
「はー、え、なに?」
「村上春樹! ノルウェイの森とかさあ」
「ビートルズ?」
「・・・そうだけど、じゃなくて、本。作家!」
「ねえよぉ、俺、クリスチャン・ラッセンしか読んだことない」
「それ読むんじゃねえの、見るっていうの」
はあはあ、と適当な相槌を打っている漱石が、耳の裏を掻きながら、ぼうと部屋の隅を見ている。だいたい、ラッセンの本だってどうしてこのバカが読んだ(見た)のか、気になるものだが、この際は関係ない。
「俺のゼミの教授が、村上春樹を読んでない奴は死ねっていうから、死ぬの嫌だし、読んだんだよ」
「じゃあおれ、死ななきゃならんね」
「うん、そういうこと」
「でもビートルズのノルウェイの森、弾ける」
「うん?」
「ピアノで」
「・・・なにおまえ、ピアノ弾けんの」
「3歳からやってんもん」
漱石はなんでもないことのように、言った。チョコレートラテがすっかり湯気をなくして、寂しそうに漱石を見上げている。一方俺のコーヒーは熱いうちに飲んでしまったから、しゃべっているうちに、たまに香ばしいにおいがした。漱石がまた指を駆使して、唇の皮を剥きだしたので、それが彼にとって特別なことではなくて、当たり前の一部なんだなと気が付く。3歳のころ、つまり20年近く、ああこんなバカでもピアノは弾けるのに、俺はギターすらまともにできない・・・。
「で、村上はるき、おもしろかった?」
「えー、うーん、まあ、ふつう・・・」
「人生んなもんね」
「せめて読んでから言え、な?」
「読まんよ、死ぬしかないって、の、あてて」
引っ張りすぎた唇の皮が、ぴりぴりと千切れて、うっすらと赤が滲む。漱石の眉毛が動いて、眉間にわずかな皺が寄った。
「バカ、深入りはなんにせよ、よくねえぞ。だから振られんだよ」
「もういいんよ、おれは前を向いている」
「かっこよく言うな、血ィ出てんぞ」
「名誉の負傷」
「あほか」
ようやく漱石が、チョコレートラテに手を付けた時。俺の指先にじりっと痛みが走って、漱石が白い歯を見せて笑った。
「薫ちゃん、指の皮剥くの、クセな」
「・・・・・・おまえもな」
ただし唇の皮、だけど。チョコレートラテを飲んだ漱石は、「つめたい」と呟く。
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