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ストロベリー・イン・ザ・バビロン


信じられないくらい変な模様の猫の置物と、眼が合っている。

まるで、僕の煩悩やぐちゃぐちゃになった感情を表した、みたいな色彩。この間までこの部屋にはなかった造形物だ。クッキーの作品はたいがい、こんな風に抽象的である。猫の横にある小ぶりな牛は、以前からこの薄い液晶テレビの前にあったもの。真っ青な眼をくりくりさせて、緑の舌をだらりと垂らしている。まったくもって、理解不能。いったいクッキーの頭の中はどうなってんだ。カート・コバーンの掠れた声が響く部屋で、僕は猫の鼻に触れた。


「先週、雨が降った時に造ったの」
突然、クッキーのスカッシュみたいなセリフが頭上に降ってきた。僕は悪いことなんかしていないのに、びくりと猫から手を離す。
「これ・・・君の故郷を表してんの?」
「イギーあなたまだ、私が火星人だと思ってるのね。何度も言うけど、私の母は織姫よ」
「父は彦星」
「わかってるじゃない」
クッキーは低く笑って、僕の頭上を通り過ぎながらカーテンのレールにコートを引っかけている。あたたかそうなファーがついたキャメルカラーのコート。クッキーがこれを着ているところなんて、僕は見たことがない。


僕は猫から視線を外して立ち上がり、赤と紫のビビットなソファーに腰を埋める。ちょっぴり硬い安物のソファーは、クッキーが実家から持ってきたものらしい。宇宙からの搬入はどうやったの、と訊くと、「バカね、宇宙は無重力よ」と鼻で笑われてしまった。いや、だから、その無重力空間から抜けた時どうしたのか、知りたいんだけど。喉元まで出かかった疑問は、また次の機会にしようとおもって、そういえばすっかりそのままだ。

「ほら、召し上がれ」
ソファーの前に置かれている、ガラステーブルにかちゃりとケーキが表れた。真っ白なクリーム、熟れたイチゴ。クッキーは意味もなくたまに、ショートケーキを作る。これがまた美味しいんだ。僕は大きいスプーンを手に取って、贅沢にもそのままケーキをすくった。同じように向こう側からスプーンを伸ばしているクッキーは、まだら模様の絨毯にそのまま座り込んでいる。
僕の彼女でありクッキーの友人であるソラは、甘いものが嫌いだった。だから、クッキーの手作りケーキはいつもソラ抜きで片付ける。僕はひどい甘党で、ポケットにはいつもキャンディやチロルチョコが入っているし、遣い込んだリュックには自分で淹れた甘い甘いミルクティーをたっぷり注いだタンブラーがある。スプーンですくったケーキのかけらを口に頬張りながら、ふわふわのスポンジとクリームを咀嚼した。
「美味しい」
「ありがとう。イギーは美味しそうに食べてくれるから、好きよ」
クッキーは、黒とピンクのキャミソールを重ねて着た上に、グレーのカーディガンを羽織っていた。部屋着にしては肌寒そうなその格好に、レザージャケットを着てマフラーまで巻いたままの僕と対照的だ。

「この間急に、アップルパイが食べたくなったのよ。ソラと居る時にね。どうしても食べたくなったの。私、我慢が出来なくなって、彼女にアップルパイを食べに行きたいとねだったわ。そうしたらソラは、オスキニドウゾって顔で、私を見た。学校の前に小さなケーキ屋さんがあるでしょ、あそこに行ってアップルパイを買って、食べながらソラのところに戻ったら、ソラは煙草を吸いながらぼんやりしてたわ。だから私、ソラにアップルパイを勧めてあげたのよ」
「ソラは甘いもの嫌いだよ」
「知ってるわ! でも、べつになんにも考えないで、私の食べかけをソラに差し出したのね。ねえソラがどうして甘いものが嫌いか知ってる?」
「さあ、訊いたことないかも」
「虫歯になるからですって!」
あはは、とクッキーは甲高い声で笑った。僕は普段、対して笑うこともないので、ふうんとだけ返す。ソラは意外に子供みたいなところがあるんだなあと思いながら、イチゴのヘタを摘んだ。大口をあけて、ひとくちで放り込む。甘酸っぱい味が舌の上で広がって、目の前がパチパチと光り輝いた。思いだしたソラの歯は真っ白で、確かに虫歯ひとつ、ない。



「あ、クッキーさ、」

アジアンな雰囲気を漂わせる仕切りの向こうから、低い声が聞こえた。それに被さってがちゃがちゃと金属が触れ合ったあとに、肩が跳ね上がるような大きな音が響き渡る。僕はヘタを持ったままで、仕切りの方へ視線を投げた。そのうるさいような模様の仕切りの向こう側には、これまたうるさい色彩を存分に散らしたキッチンがあるのだが、そこにいる男が何かを引っ繰り返したのだろう。前に居たクッキーが、じわじわと立ち上がる気配を感じる。

「アポロぉ、何やってるのよ」
「これあのー、ボール、洗おうと思ったんですけど、どこに置くのかなあって思ったら手が滑っちゃって」

仕切りの横から困ったように顔を出したアポロは、濡れて血管の浮き出る細い腕を、中途半端に宙に浮かせていた。赤いセーターをまくった彼の指先から、透明の雫が滴り落ちる。雫を吸った絨毯は、彼のセーターと同じ色をしていた。絨毯を眺めていると、クッキーが前を通って、ボールを置く場所を指示しはじめる。最初から一緒に片付けすりゃあいいのに、なんて、僕が言えたことではないので、黙ってまたケーキにスプーンを伸ばした。




「ねえ、イギー?」
片付けを終えたふたりがこちらに戻ってきた頃、僕はショートケーキを半分ほど食べ進めていた。そろそろお腹も膨らんできたが、甘いものは無限に入る胃袋を持っている僕に、限界はない。さあこれからだと、再びスプーンを唇から離したところで、同じくスプーンを舐めていたクッキーが顔を覗きこんで来た。僕から見て左側に座っているアポロは、ひとり、フォークでスポンジを崩している。俯いた彼の頭はほのかに赤く染まっていたが、さらりと落ちるショートカットの毛先は真っ黒だ。
「訊いてる? イギー」
「うん、なに?」(この時僕は、アポロが取ろうとしたイチゴを奪った)
「イギーさんそれ俺の」
「ちょっとアポロ黙ってて」
「ふん、ほんで、はに?」
イチゴを頬張った僕の滑舌が悪くなったところで、クッキーは自分の肩のあたりを一瞬、触ってから、ゆっくり微笑んだ。

「ソラと別れてよ」
ぷちぷちと、口の中で、イチゴの種が潰れていく。今、口の中は真っ赤な海で、たぶんアポロのセーターよりも赤くて、グロテスクなものとなっているだろう。僕は赤い海を歯で噛み潰しながら、長い間をあけないで、「今はムリ」と告げた。
「そう」
クッキーもすばやくそう返して、また、スプーンでショートケーキをつつき始めた。かしかしと、皿とスプーンが擦れ合う。


なんでもなかったように、僕らはまたどうでもいい話を続けた。例えば最近見た映画とか、おもしろい出来事とか、アポロの生まれつき毛先が黒くなる体質はどうしてなのか、とか(ちなみにこの話題については、ここ1年かけて話し合っているものの、未だに答えが出ない)。しばらくするとショートケーキはなくなって、ゆったりのんびりと食べていたアポロが、「俺イチゴ食べてないです」と唇を尖らせた。






「クッキーさんって」
砂糖を胃に流し込んで、ちょっとだけ膨らんだお腹を持て余しながら帰路につく。うっすらとオレンジが滲む空の下、冷たい指先をあたためるように指をこねくり回していたアポロが、僕の煙草の煙を避けながら呟いた。
「イギーさんの事、好きだったんですね」
アポロが、あの質問をちゃんと訊いていたことに少し驚いてみると、彼は僕の言いたい事がわかったのか、また乾燥した唇を僅かに突き出す。「さすがの俺も、そこは訊いてました」アポロはたいがい、人の話を訊いていないことが多いのである。僕はフィルターを優しく噛みながら、煙草を動かし、煙を揺らめかせる。顔の前でもくもくと広がる紫煙は、さっき食べたショートケーキより余程苦い。だけどそれが、そのギャップが、堪らなく僕を魅了するのだ。

「アポロ」
「はい」
「お前、わかってないよ」

はあ、と、薄い声を洩らしたアポロより歩幅を速めて、すこし振りかえり、ラッキーストライクの煙を吹きかけてやった。嫌そうに首を振っているその長身の男が、ほんのりとした恋心のようなものをクッキーに寄せていることは、なんとなくわかっている。そして僕は、クッキーが本当に好きな女を、知っていた。




( クッキーは今頃、あのバビロンみたいな部屋で、きっとソラのことを考えている、)


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