サディスティックロマンス
波がささくれだっている。彼が足を動かすたびにあたしの身体はセックスをしているときみたいに上下に揺れて、彼が腕を動かすたびにイルカの群れが通り過ぎているみたいな水飛沫があがった。あんまりにも雫が眼球に向かってくるので、とてもぱっちり眼をあけられない。しょうがなく、遠くを見るように瞼を半分、たたんで、あたしは彼の上に跨っていた。彼は必死に抵抗する。彼の細くてごつごつした首を押しつけている、あたしの手を強く叩いたり引っ張ったり。バスタブに手のひらをひっかけて反動をつけて、浮かびあがろうとしたり。長い足は、どうしてか、あたしのすぐ後ろに控えている、うすい水色のタイルを壊そうと必死だった。水滴をまとったはだしの足は、びたんびたんと、タイルと共鳴している。ひとつの音楽みたいだった。波の音はとてもうるさい。耳を塞ぎたくなるほどなのに、あたしは彼の首から手を離さなかった。赤いネイルを施した指が食いこんでいく、そのぬるい感触がきもちいい。彼の鼻の穴と、噛みしめている歯の隙間から、小さい飴玉のような酸素の塊が浮き出てきて、あたしと彼を隔てる水面で、割れた。どんな音をたてて割れたのかは、彼が四肢すべてを遣って演奏をするこのバスタブでは、聴こえない。彼が兎のような眼であたしを見上げていた。眼球に這う血管の筋がじりじりと瞳に近寄り、あたしを苛める。裸のあたしと裸の彼はアダムとイヴだった。禁断の果実はここには無い。
こくん、と彼が顎をあげた。その拍子に、うすくて灰色のくちびるからまた、空気の粒が飛び出してきて消える。それが最後の音だ。飛び跳ねていたあたしの身体も、彼の上に重なって終わる。その美しい終焉において、不協和音のように浴室に響いたのは、あたしのあまいためいきだった。ああアダム。あたしのアダム。ずっとここにいてくれるのね。あなたをそそのかす悪い蛇だっていやしないのよ。
首から、赤い10枚の爪がはがれて、背中にタイルが触れるつめたい感触がした。その瞬間、彼はあたしの首筋にむけて噛みつきそうな勢いで起き上がる。何度も何度も酸素と二酸化炭素を出入りさせている肺が、眼に見えてわかるほどに動いていた。こちらに聴こえるくらい大きな心臓の叫びも、一度波を立たせてまた静かになった水に波紋を流す。彼はあたしの首筋で呼吸を繰り返してから、水圧を無視して立ち上がった。素っ裸の後ろ姿もうつくしいのに、あたしの手を離れたアダムは濡れ鼠のまま、楽園を出ていってしまう。
足の指にひっかかっていた鎖が、いとも簡単に栓を抜いた。水に浮かんでいた船のあたしはゆらりゆらりと、それに従って渦に飲み込まれてゆく。このまま、そう、あそこに浮かぶ彼の短い髪の毛のように、あたしも排水溝に身を隠せたなら。ねえどんなによかったかしら。肌に触れる水面のこそばゆい感覚も、ぬるくなった鎖も、ちいさなちいさな竜巻のようにうねり狂う渦も、ここを出ればすべて消えてしまうの。あなたは帰って来ない。空っぽのバスタブのなか、びしょぬれの心を冷やした。
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