プリンス・ルージュと世界の呼吸
あたしは歌が好きだった。くちびるに言葉を乗せて歌うのが、たまらなく楽しい。安物のイヤホンを鼓膜ぎりぎりまで突っ込んで、誰かが魂を叫ぶのを聴いている。それなのに彼女はただ、とても分厚いヘッドホンで耳栓をしたまま、筆を動かしていた。彼女は自分のことを絵描きではないと言った。だけどあたしは彼女が、絵を描くことを知っている。眼の前にあるキャンバスはいつだって何色かに染まっていた。白いキャンバスなんて見た事が無いかもしれない。外にある大型デパートの最上階にある、屋上遊園地の自販機で買えるセブンティーン・アイスは、ここまで持ってきた所為ですこし溶けてしまっていた。慎重に、紙をはがす。
「セブンティーンでもないのに食べるんだね」
とんでもなく大きな声で彼女が言った。びく、と震えた肩がかっこ悪くて、ちょっと深呼吸、なんてごまかしておく。それでも彼女はきっとそのことを知っているから、あたしはあえて口に出さないで、溶けかけたチョコミントに噛みついた。今の彼女に何を返しても聴こえない。彼女は音にとり付かれている。あたしは声、彼女は音。それは大きな違いだったし、相容れない太平洋と空みたいなものだった(ただし、それらはとてもよく似ている)。
リズムに揺れる首や白い腕が、筆先だけ押し黙らせて線を引く。彼女が描くのはこの世に実在しない少女ばかりだった。それなのに、少女独特の表情や影がとてもリアルで、あたしはいつも、少女たちの所在を尋ねてしまう。そのたびに彼女は「さあね」と笑うのだ。ときおり、このこの世にしか存在しないどうしようもない人に触れて、おもしろがるのも趣味らしい。それは自分自身に対してもおなじだと言う。どれだけつらくても、くるしくても、その想いをキャンバスにしかぶつけない彼女の横顔は、とても儚かった。
うたうか、うたわれるかと、ポケットから音楽プレイヤーを取り出して、ちきちきとまわしているうちに、彼女の手がとまった。くるりと振り返ったその長い黒髪の先には、白い絵の具がすこし、ついている。やっとのことで外されたおおきなヘッドホンは、彼女の細い首にからまった。ぼうと見つめながら、とけかけたチョコミントにかぶりつく。彼女が口をあけたので、そっとそれを差し出してやった。アイスを咀嚼するそのくちびるの端にも、赤が付いていて、ちょっと素直じゃないルージュのように見える。
「ねえ」
「なに?」
「どうして、音を聴くの」
「…どうしたの?」
彼女は、くすりと笑ってくちびるを舐めた。それを見ないようにそっと眼を逸らして、キャンバスの後ろにいつも置いてあるあたし専用の椅子に腰をかける。
「べつに…あたしは音より、言葉を聴いている人だから」
「ああ、そういうこと…そうね、べつに嫌いじゃないのよ」
ついに彼女は、あたしの手から食べかけのチョコミントを取りあげてしまった。そうして、あたしの椅子の横にある彼女専用のそれに座る。ショートパンツから出た長い足がぶらぶらと舞った。剥き出しの爪先にも色がついている。彼女のほんとうの色は、どこだろうか?
「ただあれは朗読作品だと思ってるだけ。ミュージカルみたいにね…」
そう呟いた彼女は急に立ち上がり、チョコミントを杖のように振って、くるりと回転し、王子様がするようなお辞儀をした。振り回されたチョコミントはどろどろと溶けて、彼女の指にすがりついていく。ふうん、と呟けば、王子がうつむいたまま、息を吸った。
「音楽を聴いていると、色が浮かぶ。頭の中のキャンバスに色がついてゆくの。情熱に心が溶かされて、それから出来た絵の具が散らばり、絵の具は音に乗ったまま、わたしの頭のなかを飛び回ってゆく……わたしに息衝くのは世界の呼吸…」
王子がゆっくりと顔をあげる。その瞬間、世界の色が散ってしまって、あたしはひとり、取り残された。モノクロの世界でも彼女と、彼女の絵はただ昏々と、鼓動をのさばらせている。あたしが言葉を世界だと言うように、彼女は色が世界だと言った。たとえこの世から彼女が消えても、心を溶かした絵の具は消えることなく、世界に浮かぶのだ。彼女の分厚いヘッドホンから零れ落ちるエレクトロニカは、極彩色になって床を彩ってゆく。やがてモノクロのあたしの足元にまで及んだそれは、ただ生温く、あたしを侵食してしまった。
「…心を削ってしまったら、いつか君のすべてが無くなってしまうよ」
「そうなったらあなたがまた、わたしの心をくれるでしょ」
指先についたチョコミントを差し出す彼女に、あたしが逆らえる道理も無い。
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