春と星
ハルさんが死んだ。交通事故だった。
ほんの少しだけ窓を開けて、遠くから流れる風を受けながら、ヒーターで火照った顔を冷やした。助手席に座っているお兄ちゃんが、さっきから「さむい」と大げさに喚いているけど、運転してるのはあたしだし、この車も自分で買ったものだから、無視をする。お兄ちゃんはペーパードライバーのゴールド免許なので、母さんの車を運転しているとき、ワイパーとウィンカーを間違えたりしていた。お兄ちゃんに器用なことはできまい。そもそも免許がとれたことすらきっと奇跡だ。(こうやってお兄ちゃんをバカにすると、女の子みたいにはらはら泣くので、これは本人に言わない。)
お兄ちゃんは白い肌とがりがりの体付きから、ハルさんに「もやしくん」と呼ばれていたらしい。あたしはハルさんには通算5回くらいしか逢ったことないので、よく知らないけど。すくなくともあたしの前ではちゃんと、「ショウくん」と呼んでいた。お兄ちゃんがそのことをあたしに言ったのは、6回目のあたしとハルさんの逢瀬が無いことをはっきり自覚していたからだと思う。母さんはお兄ちゃんが取り乱しておかしくなっちゃうんじゃないかって、出かける前までずうっと言ってたけど、あたしは知っていた。お兄ちゃんはこんな時、びっくりするくらい、冷静だ。
ビートルズのベストアルバムが2周したころ、お葬式の会場が見えてきた。黒い服を着た人たちが、うろうろと駐車場と会場をいったりきたりしている。あたしもお兄ちゃんも、喪服なんか持っていなかったから、今日の為に購入した新品の、てかてかしたものを着ていた。その上あたしはおととい、金髪のショートカットにしたばかりで、お兄ちゃんは眉毛の上に新しい入れ墨を入れていた。小さな黒い星がきれいに3つ、並んでいるその入れ墨に、あたしが「テリーマンかよ」と突っ込んであげたら、「テリーマンは米って字を額に入れてるけど、あれかっこ悪いよね。母国を愛してるなら、星条旗でも入れればいいのに」と返された。(意味がわからない。)(だいたい、キン肉マンだって肉って入ってるじゃん、どっちかというと肉のほうが恥ずかしいじゃん。)ともかくあたしたちは二人、葬式場でかわいそうなくらい、浮いていた。
車を降りて会場に行くと、まっさきに、長い黒髪の壮年の女性が近付いて来た。女性は皺が刻まれた、ほっそりとした色の無い顔でこちらに向かって弱々しく微笑む。お兄ちゃんは急にぴしりと背を伸ばしてから一礼し、「この度は真にご愁傷様でした」と早口で言った。
「いえ・・・遠いのに、来てくれてありがとうね。きっとハルコも喜んでるわ」
「ハルコさんには大変お世話になっておりましたので・・・」
「こちらこそ! あの子は本当にわがままで気分屋だから、親しい友達が少なくてね・・・だからこうしてショウゴくんが来てくれるのがおばさん、本当に嬉しいのよ・・・」
女性はそこまで言うと、右手に持っていたうすい灰色のハンカチを持ち上げて、ぐっと声を詰まらせた。皺を流れる細い涙が、ハンカチにゆっくりと染み込んでゆく。灰色が濃くなるのを眺めながら、ああハルさんってハルコって名前だったんだ、とどうでもいいことを思った。
「ごめんなさいね・・・あら、そちらは?」
「あ、妹のナツミです。ナツミ、こちらはハルコさんのお母様」
急にあたしの方に、お兄ちゃんが振り返った。お兄ちゃんといきなり眼が合う。女性が、ああ妹さん、と独り言にしては大きい声を出したとき、あたしは慌てて彼女に頭を下げた。
「はじめまして、ナツミです。ハルコさんにはわたしもお世話になっていまして、あの、」
「あらそうだったの・・・やだわ、こんなかわいいお友達がいたなら、紹介してくれたらよかったのに」
女性は、涙で真っ赤になった眼をすこし微笑ませながら、社交辞令を述べた。あたしも一応、いえそんな、と小さく呟いて首を振る。(ああだめだ、あたしやっぱりこういうの、できないわかんない。)
そうしてあたしたちの間に変な沈黙が生まれて、女性は一度鼻をすすってから、「じゃあ、ハルコの顔、見てやって」と言った。
長い長い坊主の呻きが終わって、お焼香も済ませ、最後のお別れをする時間になった。パイプイスの弛んだネジが、体を動かす度に鳴いてしまうので、あたしは大変窮屈な思いをしていたから、やっとか、と息を吐いてしまう。そして周囲がすこしざわめき始めたところで、あたしより先に立ち上がったお兄ちゃんのあとに続いた。
「お兄ちゃん、知らない人みたいだった」
「・・・なにが?」
「さっき、ハルさんのお母さんに挨拶したとき。なんか、よそ行きの顔、してたもん」
「そりゃあ、よそだもん。ハルちゃんのお母さんだって、一回しか逢ったことないし」
「それにあたしのこと紹介したときも。なんか・・・、」
ちょっとこわかった。ぼそり、と言った。あたしたちは、献花をする人たちの行列に並んで、のろのろと歩きながら、小声で話をする。
「なっちゃんこそ、焦りすぎだよ。なぁに、どもっちゃってさ。そんなに人見知りだったっけ?」
「いや、だから、お兄ちゃんがあたしのことナツミとか言うから・・・ナツミなんて、今までで呼んだことないじゃん」
「あるよー、なっちゃんの前ではじめてだっただけ」
お兄ちゃんはすこし笑って、入れ墨の上を小指で掻いた。黒髪の間から見えたり隠れたりしているその星を、じっと眺めながら、あたしたち兄妹のタイミングの悪さをちょっとだけ呪う。(なにもこんなときに、金髪にして、入れ墨しなくたっていいのにね。)
やがて、お兄ちゃんの番になって、お兄ちゃんはそっと体を乗り出すようにしてハルさんの顔を覗き込んだ。その背中は本当に細くて、なんだかぽっきりと折れてしまいそうな気がする。お兄ちゃんの骨みたいな指が、綺麗な白い花を彼女に捧げたとき、その存在すら白に消えてしまいそうで、あたしはまた怖くなった。
(そうだ、お兄ちゃん、あの泣き虫のお兄ちゃんが、まだ泣いてない。ハルさんが死んだって電話があったときから、もうずっと。)重大なことに気が付いてしまったことで、いつの間にかお兄ちゃんが前からいなくなっていたことに、あたしは小さな悲鳴をあげてしまった。
「お兄ちゃ、」
「なっちゃんの番!」
突然、横から苛めるような小声が聞こえてきて、はっとしてそちらを見ると、お兄ちゃんがちょいちょいとあたしの腕を引っ張っていた。ああそうか、お兄ちゃん献花を捧げてたんだ、そんで次、あたしの番。あたしは慌てて、ハルさんに駆け寄る。
ハルさんは、花だらけのカラフルなその場所に体を埋めていた。その顔は真っ白に死化粧を施されていて、そのアンバランスさで、表情だけが白黒写真のように浮きあがる。まるでリリアン・ギッシュみたいな美しい顔に見えたけれど、生きていたときのハルさんは、とてもじゃないけどギッシュのような上品さの欠片もなかった。よく、ドラマや小説では「まるで生きてるみたいな顔をしていた」なんていう表現があるけど、そんな風にはまったく、思えない。ハルさんは死んでしまった。蝋人形みたいにかちかちになって、白塗りを浮き立たせたまま、花に埋もれるリリアン・ギッシュ。あたしはその花畑に、お兄ちゃんと同じ白い花を添えて、なんにも言わずに列を外れた。
駐車場へ向かいながら、霊柩車をぼうと眺めていると、お兄ちゃんが「お父さんにも挨拶してくる」と言った。お母さんだけじゃなくお父さんとも知り合いだったのか、と思いながら頷くと、「車で待っててね」と次いで言葉を投げかけられる。はーい、と小さく返事をしてから、黒いハンドバッグから煙草を取り出した(実はずっと吸いたくてたまらなかったのある)。ライターの火は、真冬の風に曝されてすこし頼りなかったので、手で壁を作りながら優しく吸い込んであげる。煙が肺に充満したところで、顔を上げて、ふうと息を吐・・・、こうと、した。
あたしはそれを見た時、思わずライターを落としてしまった。それは元彼に貰った、なんの未練もないただの安物ライターだったので、別に構わないのだけれど、あたしは「ああっ」と叫んでしまう。ライターを拾おうと腰をかがめると、今度は唇が緩んで煙草が落ちた。あたしはまた「ああっ」と叫んで、煙草を拾った。ふうふうとフィルターを吹いて、埃を払った気になって、そしてまた唇に乗せる。ゆっくり煙を呑んで、さらにゆっくりと吐いて、それを2、3回繰り返してから、「そんなばかな・・・」と呟いた。
「そうね、私もそう思うのよ。だって私、死んでるんだもんね」
ハルさんは言った。生前と変わらない、淡々とした喋り方だった。死んでるんだもんね、の、「ね」には、強い力がこもっていて、あたしは何か悪いことをしてしまったかのようにびくりと肩を震わす。ハルさんの声は普通ではなかったけれど、脳内に直接響いている、というにはあけすけすぎた。ハルさんはあたしを見下ろして、ちょっと右眉を上げて、「金髪になってる」とひとりごちる。それでもあたしが黙って煙草を吸っていると、ついに痺れを切らしたように、ばっと両手を上げた。
「なっちゃん! 見えないふりしないで!!」
「わあっわかってますわかってますごめんなさい、悪い事したなら謝ります、あのっなんで、なんで、」
ハルさんの怒号に誘われるように、あたしの喉から言葉が零れ落ちた。あんまり大きな声を出してしまったので、前を歩いていた初老の女性が一瞬、振り返る。ハルさんは透けていたけど、完全に透明というわけでもないから、その女性があたしを見ているのがわかった。あたしは慌ててポケットから携帯を取り出して、耳に突き当てる。
「電話してるフリ、するんだあ。まあ、他の人には私、見えてないみたいだもんね」
「・・・あのー、一応確認しますけど。ハルさん・・・ですよね?」
「違う人に見える?」
「いいえ・・・」
あたしはゆるく首を振った。そう、ハルさんだ。さっきまで、棺の中にいた筈の人(ただしその顔はリリアン・ギッシュとは似ても似つかない)。
「しくじったわ。しくじったのよ。ほんと。私は右に曲がるつもりだった。だからウィンカーを付けてたの。右にね。でもなんか、チカチカって音がしないなーと思ってたら、どーん。どーん! どーんよ! 捻りの無い音でしょ。でもどーん、としか言いようがなかった。私、ウィンカーとワイパーを間違えてたのよ。そしてそこにちょうど、向こうから車が来た。そんなことってある? ないわよ。もやしくんじゃないんだから」
しくじったわ。ハルさんはもう一度、言った。あたしはハルさんの声で、ハルさんが、お兄ちゃんの事を「もやしくん」と言ったことに、少なからず動揺している。(ほんとに言ってたんだ、仮にも長い付き合いなのに、)あたしはハルさんをまじまじと見ながら、じわりと滲む手汗をぬぐうため、携帯を持つ手を切り変えた。
「あの、ハルさん・・・」
「さっきね、私ずっとママの横に居たわ。でもママはずっと泣いてるし、パパは唇噛みすぎて血の気なくなってるしで、もうね。いたたまれないって、こういうことを言うのね。誰にも見えてないの。だから私、きっとなっちゃんも見えないんだろうと思ってた。だって、もやしくんも見えなかったし」
ハルさんは、白いシャツの上に、触り心地が良さそうな桃色のセーターを着ていた。デニムのスカートからは、黒いタイツと灰色のごついブーツが構えている(実際、透けているので、正確な色味はわからないけど)。ほんの少しだけふくよかなその足は、妙に色っぽく見えた。あたしはお兄ちゃんと似て痩せているから、足が変に骨ばっていてコンプレックスなので、めったにこんな格好はしない。それにハルさんは、交通事故で死んだっていうのに血の一滴すら流さずに、表情だってころころ変わった。こんな幽霊がいるもんか、と思いながら、ちびた煙草を懸命に吸う。
「まさかね、なっちゃんに見えるなんて。私、このお葬式に出てくれた人で、なっちゃんが一番遠い人だと思うわよ。差し向かいのタナベさんだって、私は最近、頻繁に挨拶してたんだから」
「そう・・・、ですよね。だって、あたしに見えて、お兄ちゃんに見えないなんて、そんなの・・・」
そんなの、かわいそう。あたしの口から思わぬ言葉が洩れそうになって、慌てて煙草を口にくわえた。でもそれはもう短くなりすぎていて、吸うには頼りなさすぎる。ちょっとわざとらしい咳をしてから、携帯灰皿にそれを突っ込んでいると、ハルさんはまたまくしたて始めた。
「もやしくん。もやしくんね、また入れ墨入れてたね。私、もやしくんは入れ墨なんか入れなくたっていいと思うのよ。背中の梅の木も、腕の骸骨も、統一性がないし何より似合ってない。それに今日見たらなにあれ、眉毛の上に星が3つ! ミシュラン? ミシュランに認定されてんの? 3つ星なのあの人は?」
わけのわからない質問を引っ提げて詰め寄ってきたハルさんに、あたしは「いや知らないです、」と弱々しく返した。揃いもそろって、お兄ちゃんとハルさんは本当に、わけのわからない会話を好むもんだ。寒い外気にさらされて固まってきた指先を、軽くほぐしながら、また煙草を指で挟んだ。
「なっちゃんもなっちゃんよ。金髪でショートになんかしちゃってさ。そんで煙草も吸って。女の子なんだから、もっと可愛い格好しなさいよ」
「・・・ハルさんのお母さんは、かわいいって褒めてくれましたよ」
「ママは元々レズビアンだもん」
衝撃の事実をさらりと告白してくれたハルさんは、なんでもないことのように、短い舌打ちをした。あたしと逢った時も、お兄ちゃんがすこしでも怯えたり眼球に涙を滲ませると、こうやって舌打ちをしていたものだ。ハルさんはいつも焦っていた。なにに焦っているのかは、お兄ちゃんも、知らなかったとおもう。ハルさんのお母さんとの間に出来た沈黙みたいなものが、ゆっくり迫ってきている気がしていたので、あたしはなんとなくフィルターを噛みながら、ぱっと思いついたことを口に出した。
「ハルさん、は・・・あの、キン肉マンって知ってますか・・・」
「知ってるけど」
「あの・・・・・・あれですよね、キン肉マンの額の“肉”って・・・ださい、ですよね・・・・・・」
「それ行ったらテリーマンの“米”のほうがださくない? だって米だよ、米。アメリカを愛してるからって、米。その時点でなんか日本っぽいよね。なんだったら星条旗でも入れればいいのに」
ハルさんは意外とこの話題に食いついて来た。しかもお兄ちゃんと同じことを言っている。
「・・・ねえ、なっちゃん」
ハルさんが、急に声のトーンを落とした。あたしはもうかれこれ10分くらいここに突っ立っているし、慣れない黒タイツが寒くて、凍えてしまいそうになっているというのに、ハルさんはそれに気付く様子もない。ただ、真っ黒に澄み切った大きな瞳を、あたしの向こう側に注ぎながら、呟いた。
「私、かなしいのよ。とても。だって、死ぬつもりなんかじゃなかった。あの時右に曲がって、家に帰って、ママの料理を食べて、パパとゲームして、お風呂に入って寝て、朝起きたら会社に行って、週末はもやしくんと映画に行くつもりだったの。私そのとき、もやしくんに告白しようと思ってた。私達はずっと一緒にいたけど、はっきり、付き合ってるわけじゃあなかったから、それを明確にしたかったのね。来週なんか来なくていいとも思ったし、はやく来て、とも思った」
あたしは、ハルさんとお兄ちゃんが恋人同士じゃなかったことを、今知った。唇に挟んだ煙草が、風に揺れてふらふらと動く。
「だからかなしい。かなしいよ。ママにもパパにも、もやしくんにも、私、さよならが言えなかったんだもん。なのにさ、不思議ね。こんなにかなしいのに涙が出ないの。体の中がかなしみでいっぱいなのに、ぜんぜん、出ないのよ」
ハルさんの声が震えている。横を通り過ぎた大きなトラックの音に、掻き消されてもいいくらいの小さな声だった。なのに、それははっきりとあたしに伝わってくる。ハルさんはとてもとてもかなしい顔をしていたけれど、その瞳は乾燥したままだった。
「なっちゃん、車で待っててって・・・・・・あ、」
低い声が、ぷつりと停まった。でんわちゅう? と唇だけでなぞられたそれに、あたしは機械的に頷く。携帯を持つ手が、寒さで震えていることに気が付いたお兄ちゃんが、くるまのなかでしたら、と空気を混ぜ返した。あたしは首を振る。ほんのりと動いただけなのに、瞳からぼろぼろっと、ビー玉が零れるみたいに、涙が溢れた。
「・・・なっちゃん、どうした? かなしいの?」
お兄ちゃんはそっとあたしの肩を抱く。お兄ちゃんの冷えた指先があたしの涙を拭うので、あたしはいやいやをしながら、すばやく前を指差した。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん見てよ、ハルさんが、」
「なっちゃん」
「ハルさんがいるの、そこにいるの」
「なっちゃん、車に行こう」
「お兄ちゃん!」
お兄ちゃんは眼を細めた。その眼差しに、大きな切なさと怒りが含まれていることに、長い間一緒の家で暮らしてきたあたしが気付かないわけがない。
「お兄ちゃん嘘じゃないよ、信じてよ、ほら見てよハルさんが」
ハルさんがいる、と続けながら前を見ると、そこにはただまっすぐとのびる歩道が、なんにも知らないふりで横たわっていた。そこに確かにいたはずのハルさんの姿が見えなくて、あたしは無意味だと知っていても、振り返ったり周りを探したり、涙を拭いながらぐるぐると回った。ひっきりなしに流れる涙が頬を濡らしていて、それが風に触れて余計に寒い。お兄ちゃんは回るあたしの手を取って、多少強引に車に乗せた。
「ハルちゃんと結婚しようと思ってた」
車に乗って、エンジンをあっためている間に、お兄ちゃんはそう呟いた。今までに訊いたことが無い、真剣な声色だった。あたしはお兄ちゃんに渡されたティッシュで鼻を噛んで、それをぐしゃぐしゃに丸めてから、目頭を拭う。
「ハルちゃんと出逢って、僕の人生は本当にカラフルになった。ハルちゃんはわがままだったし、気分屋で、どうしようもないお喋りだったから、僕のタイプなんかじゃないんだけど。でも僕はハルちゃんが好きだった。結婚したかった。ハルちゃんとの子供が欲しかった。そんで細々とでもいいから、ふたりで暮らしていきたかったんだ」
お兄ちゃんの声はだんだんと小さくなってゆく。ティッシュを掌の中に押し込んでから、音をたてないようにお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんは手の甲で鼻を押さえていた。
「ねえ、お兄ちゃん・・・」
「だからさ、なっちゃん、お願いだよ。そんないじわるを言わないでよ。もうハルちゃんは死んじゃったんだ」
「お兄ちゃん、どうして泣かないの」
あたしは随分と鼻声だったけど、お兄ちゃんは笑わなかった。それどころかあたしの方を見ないで、急に、「ぐ、」とだけ言った。そのうち細い肩がぶるぶると震えだして、ぷっくりと浮き出た喉仏が上下に動き、そして、耳さえも哀しくなるような嗚咽が車に響き渡った。お兄ちゃんは泣き虫だったけど、泣くときは決まって、ほろほろと美しく泣く。でもこの泣き方は、決して綺麗じゃなくて、喉に唾や涙や鼻水がひっかかったみたいな、ひどく下品な泣き方だった。あたしはティッシュをポケットに押し込んでから、新品の喪服のスカートに出来た細かい皺を掌で丁寧に丁寧に伸ばしていた。
お兄ちゃんが泣き終わった頃にはもう、真っ暗な夜がすぐそこまで来ていた。あたしがハンドルを持つと同時に、お兄ちゃんが鼻をすすったので、あたしは久しぶりにお兄ちゃんに笑いかける。
「お兄ちゃん、週末ひま?」
「・・・いや、ちょっと、ズッ、用事あるよ」
「そう。ハルさんによろしくね」
「・・・・・・ズッ、なんで知ってるの」
鼻をすすりながら言うお兄ちゃんの言葉は、とても情けなくて、しかも驚いた顔がこれまたしょぼくれていて、あたしはまた窓をすこし開けながら、「ハルさんが泣いてもいいように、ハンカチを持っていってあげてね」と言った。お兄ちゃんは「さむい!」と叫ぶ。
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