無様
世界で一番嫌いな女の笑顔ほどぶち壊したいものはない。田中はケラケラと笑いながらあたしのスカートを引っ張った。あたしは無様に廊下ですっ転んで、鼻から床にぶつかった。田中のまわりにいるバカ女どもの甲高い笑い声が重なって、あたしの背中にずんっと圧し掛かってくる。そのなかでもひときわやかましい田中の笑い声。「うわこいつ転び方もブス」うるせーブスはてめーだ、死ね、死ね、バカ女、死ねさっさと死ね!あたしは心のなかで何度も何度もその言葉を繰り返す。転んだ拍子に脱げかけたうわぐつが取られそうになったので、あたしは必死にそれを引っ張った。あたしのうわぐつはここに入学してからすでに2つなくなっていて(ひとつは燃やされて、ひとつはトイレの便器に突っこまれてた)、もうこれ以上なけなしのお小遣いから買うのはうんざりだ。
這いつくばってうわぐつを守るあたしの背中に田中の足がぶつかって、あたしはまた鼻を床に打った。田中は力を弱めることなくあたしをぐいぐいと踏みつける。
「アハッ、虫みてぇ、ウケる」「くせぇんだよゴミ」「おいこっち見ろよ泣いてんのか?」「ウケる」「泣き顔みせろよ」田中は様々な罵詈雑言をあたしに浴びせて、汚ぇうわぐつであたしを踏んで、笑っている。ぼさぼさになったあたしの髪の毛を引っ張って顔を近づけてくる。ブス、息がタバコくせぇんだよ、死ね死ね死ね死ね。臓物ひっくり返るほどクソ痛い思いしながらクソまみれで死ね。という顔で田中を睨んだら、田中は真っ赤に塗りたくったくちびるの端をにーっと引っ張って眼を細めた。
「ンだよ泣いてねえじゃんよ。泣けよ、クソ女」
うるせぇバカ女、テメーのためになんか泣いてたまるかよ。
田中はクラスで一番ゲロ以下の女だけど、取り巻きはその次にゲロ以下で、クラスの連中はその次の次にゲロ以下だ。みんなあたしがいないみたいに振る舞って、田中が大きな声で笑いながらあたしをぶったって誰も足を停めもしない。教師はゆるいトーンで田中をなんとなくなだめるだけで、田中がちょっと眉毛をさげて謝ればすぐなかったことにしてしまう。田中は世間一般で見ればそこそこ綺麗な顔をしているかもしれないけどあたしにとっては世界一のブスだ。でも神様がコイツを殺してくれるなら、できればこの顔の皮から剥がしてほしい。ちょっと綺麗だからって、ちょっとスタイルがいいからってこんな振る舞いをして許されるわけがない。まちがいなくこのクソ女は地獄行きだ。その点あたしは田中が宇宙一サイアクでサイテーなゴミ女ということを誰かに訴えたことなんてないので、きっと天国に行ける。田中が地獄に落ちるのを想像するだけで腹の底から笑えてくるから、あたしはこの女より長生きできるように毎日きちんと野菜を食べるし水をたくさん飲む。運動は苦手だからしないけどたぶん大丈夫。
だってあたしばっかりこんな目にあうなんておかしいじゃん。死んでもないのにあたしだけこんな地獄みたいなとこにいるなんておかしい。なにもかもおかしい。教師も生徒も田中も全員死ねばいい。もしあたしが総理大臣だったらここのやつらを全員有罪にして磔にして爆破して殺す。もちろんあたしがスイッチを押す。そうしてぜんぶリセットだ。
(総理大臣ってどうやってなるんだろう。親が総理大臣じゃなくてもなれるのかな)
あたしは電車に揺られながらそんなことを考えていた。今日もほこりだらけで髪の毛もぐちゃぐちゃなあたしを、電車のなかの大人たちはみんな見て見ぬふりをする。スカートの裾のほつれだって見えてるはずなのに。盗られないようにうわぐつや教科書をぜんぶ持って帰るからいつも荷物は重いのに、だれもあたしを座らせてもくれない。アアいっそ電車ごと爆発すればいいのになアハハ、て笑いたいけど、あたしは天国に行きたいのでそんなのはおくびにも出さずにじっと黙ってドアの近くに立っている。そうするとおなかがキリキリと痛んできた。キリキリ、きりきり、胃をだれかがぞうきんみたいに絞ってるのか、そんなふうな痛みだ。これはストレス性の胃痛っていうのがちゃんとあたしはわかっているので、歯を噛み締めて痛みに耐えながら胃薬を取り出すために身をよじらせた。横にいるサラリーマンに舌打ちをされたので、あたしはそのサラリーマンを脳内で殺す。虫を踏むみたいになんでもなく殺す。
そのとき、目があった。その女の子はあたしの目の前に座っていて、うそみたいにまるくてぱっちりした眼と、シャンプーのCMに出てきそうなくらいツヤツヤした髪の毛を持っていた。ショートヘアを耳にさらりとかけていて、見慣れないブレザーを着ている。女の子はあたしと目があったのがわかると、「あの」と言った。
「………へ」
「あの、もしかして具合がわるいんですか」
「へっ」
「顔色が……よかったらここ座ってください」
「へ……」
アホみたいにへえへえ言ってるあたしに、女の子は微笑みかけた。そのなんの嫌味もない笑顔に、心臓がきゅうと縮んだような気がしてあたしは立ちすくんでしまう。あたしは誰かに微笑みかけてもらうなんてそんな体験はほとんどないのだ。ぼーっとしているあたしを見かねたのか、女の子はだまって立ち上がろうとした。あたしはそこでようやく言葉の発し方を思い出したように声をあげる。
「あっ、い、いいです。だいじょうぶです」
「でも。わたし次で降りるんで」
「だ、だいじょうぶです、から……あの、はい」
あたしはうつむいて何度も「大丈夫です」と繰り返した。女の子はきっと困った顔をしているんだろう。こんなあたしなんかに声をかけるんじゃなかったと後悔しているはずだ。あたしはただただ、胃痛すら隠せないあたしが憎くて死にたくなっていた。ぎゅっと眼をつぶる。ごめんなさいごめんなさい、あたしが悪いんです、ごめんなさい。あたしは心の中でしかそれを言えない。
「……座って?」
女の子はとてもやさしい声でそう言って、立ち上がってあたしの横についた。ちょうどそのとき電車が停まったせいで、慣性の法則によりあたしは女の子に寄りかかりそうになってしまう。
「あっ、」
「だいじょうぶ?」
すんでのところでバランスを保ったあたしの顔を、女の子がのぞきこむ。女の子からふんわりといいにおいがして、あたしは硬直した。近くでみると女の子はとてもきめこまかい肌をしていた。そばかすだらけでクマができてるあたしとはまったく違う。そのうえいいにおいまでして、女の子ってこんなにかわいい生き物なんだってバカみたいなことを考えた。
「……じゃあ、わたし降ります。座ってね」
女の子はわたしの顔のちかくでまた微笑んで、かるがるとホームに飛び降りた。人と人がひしめきあう中をするすると泳ぐようにきえていく女の子。まるで鐘がなるような余韻があたしのあたまのなかに落ちていく。あれおかしいなって思ったときにはもう遅くって、あたしはただぽっかりと空いた目の前の席を口をあけて眺めていた。自分が降りる駅になったとき、そこにはいつの間にか知らないオバサンが座っていた。
あたまのなかがぼーっとしたまま、またサイアクな一日がはじまった。あたしにまったく興味のない父親と、つまんないワイドショーなんか見て笑ってる母親なんかいないみたいにキッチンをスルーして、いつものセーラー服を着て家を出ていく。
あんな地獄に毎日毎日くそまじめに通うのはあたしがあたしでいるためだ。あのバカ女のせいであたしの生活と人生が狂わされるなんて絶対にありえない。だからあたしは無事に高校を卒業して、立派でしあわせな人間になるのだ。たった3年間。もう2年も耐えたからあとたった1年だ。だいじょうぶ。あたしは絶対にだいじょうぶ。
あの女の子の「だいじょうぶ?」という声がどこかから聞こえた気がした。あたしはきちんとうなずく。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。
女の子があたしの学校に転校してきたのはまさにその日だった。あの子は田舎のほうから父親の仕事の都合でやってきたそうだった。あのブレザーを着て、彼女はあたしのクラスの黒板の前にすっくと立って自己紹介をした。西原小夜です、と言った声はざわついた教室にひびいて、あたしの鼓膜から肺のあたりまでストンと落ちた。西原さんは教室を見まわして、隅っこで固まっているあたしを見つけるとパッと目を輝かせて笑った。また、きゅっと心臓がちぢむ。
「偶然だね」
西原さんは休み時間になるとすぐにあたしのところへやってきてそう言った。あたしは固まったまま、「ウン」と小さな声で言った。
「びっくりしたよ。ねえ、あなたの名前は?」
「……さいとう、かなこ」
「斉藤さん?」
「……ウン」
「わたし西原…さっきも聞いたとおもうけど、西原小夜ね」
「……ウン」
「知ってる人がいて安心した。仲良くしようね」
西原さんは笑った。ああなんてすてきな笑顔なんだろう、なんてかわいいんだろう。あたしの顔はいまきっと真っ赤っかだけど、西原さんは気にしてないみたいだった。
「この学校の制服ってやっぱりかわいいね。斉藤さんよく似合うよ、あたしまだブレザーだからちょっと恥ずかしいな。制服が届くの1週間くらいかかるらしくって。わたしずっと夢だったの、セーラー服着るの。だからたのしみ」
「……ウン、あの…」
「ん?」
「…き、きっと似合うよ、西原さんも」
「……ふふ。ありがとう」
西原さんはたくさんあたしに話しかけてくれた。きっとあたししか知ってる人がいないからだし、それ以外に理由なんてひとつもないとはおもうけど。でももしそうじゃないとしたら、なんてしょうもない淡い期待が勝手に膨らんでしまうくらいに西原さんは無邪気にみえた。
西原さんはよく笑う。こどもみたいに声をあげて笑ったり、いたずらっぽくクスクスしたり。女の子らしくて清楚で、まるであたしにはない要素だった。なんにもおもしろいことなんかないのに、あたしは彼女のその微笑みをみているだけで勝手に頬がゆるむのを感じた。たぶんあたし、笑ってる。何年ぶりかに、笑ってる。きっとあたしの顔はブスすぎて見てらんないだろうに、西原さんはちゃんとあたしの眼をみて話をしてくれる。足の爪先からあたまのてっぺんまで、あたしは自分の身体がじんわりとあたたまるのを感じていた。これが、これがちゃんと会話をするってことなんだ。これがちゃんとした、ともだち、の会話なんだ。
ガンッ、という衝撃があったのはあたしがそれを実感していたときだった。イスを蹴られた衝撃であたしは机に突っ伏し、横に立っていた西原さんは「きゃっ」と小さな悲鳴をあげた。あたしはすぐに顔をあげてそのクソバカゲロ女を睨む。
あたしのイスを蹴ったまんまのポーズで田中は立っていた。今まで見たことがあるなかでいちばんの憎悪と嫌悪をぐっちゃぐちゃに入り混ぜた醜い顔で、あたしを睨み続けている。あたしは精一杯の勇気を振り絞って、前髪の間から田中を睨んだ。
「…ンだよ、テメェ。調子乗ってんじゃねえよ。ゴミ」
「……の、乗ってない」
「西原さん、そいつほんと臭いしバカだしブスだから関わらないほうがいいよ。倉庫で閉じ込められたからっておもらししちゃったりもしたしね。プッ」
思い出し笑いをするみたいに田中は体を折り曲げた。あたしにとっては最悪の記憶なので、知らんぷりをする。それよりも西原さんがこのバカ女の言うことを信じて、あたしにあの笑顔を見せてくれなくなるのが一番嫌だった。ああだからあの女はやく死ねばよかったのに死ね死ね死ね死ねほんと死ね、さっさと苦しみまくって死んでくれと何度も何度も心の底から呪う。あたしと西原さんの時間をジャマしたのは田中だ。だから死んでもいい。
「べつに臭くないし、バカじゃないし、ブスじゃないよ。おもらししたことあるからってなに? それ、あなたたちがやらせたんじゃん。斉藤さんの意思じゃないんでしょ。高校2年にもなってそんなことしてるのって、ちょーダサイ」
西原さんは田中の前に立ったままそこまでいっきに言い放つと、あたしのほうを振り返って笑った。
「斉藤さん、こんなひとの言うこと真に受けなくていいからね。あなたは素敵な女の子よ」
「ハァ? あんた、このブスのどこ見て言ってんの? 眼科行ったほうがいいんじゃない?」
「病院に行った方がいいのはあなたのほうよ。好きなひといじめていいのなんて小学生までなんだからね」
「……、なに言ってンのアンタ」
「そんな調子じゃ毎日つきまとってるんでしょう。いつもこの子電車では大荷物だし、セーラー服が濡れてたり泥だらけのこともある。この1週間電車に乗っただけですぐわかったわ。この子はあなたたちのどうしようもない幼稚でバカな遊びに付き合わされてるって」
「ハァ? テメーあたまおかしいんじゃねーの!?」
「他人にそこまで依存するのって異常よ。その人のことしか考えられない。たとえばあなたは斉藤さんをどう痛めつけてつらい思いをさせて可哀想にさせるのが、そんなくだらないことを家に帰ってからも毎日考えてるんでしょ。アーほんとくだらない」
「ッに言ってんだよ、この田舎者ブス!!! 黙れよ!!! あたしがどんだけ斉藤にかまってやったと思ってんだ!!」
「だからそれが迷惑っつってんのよ。ねえ、斉藤さん」
ふいに、こっちに話題がまわってきた。いや最初から話題はわたしのことだったけれども。こころの準備ができていなくて、あたしはぐっと言葉に詰まってしまう。それいいことに、田中はあたしの髪の毛をぐっとひっつかんで立ち上がらせた。
「おい斉藤ォ! テメーあたしに逆らうってわけじゃねーよな? あたしより今日きた転入生を信じるってわけじゃねーんだよなァ?」
「……そりゃ……」
「あ? 聞こえねえよ!!」
さらに強く髪の毛をひっぱられて、頭皮に激痛が走る。うまく表情をつくることもできずに、あたしはほぼ強制的に首を振ることになった。
「ほら! 見たかよブス。テメーのくだんねえヒロインごっこは迷惑だって斉藤も言ってンだよ」
「……バカみたい」
西原さんはそう吐き捨てた。あたしはこわくて顔があげられない。西原さんは確かにそこに立っているけれど、どんな顔をしているかわからなかった。もしかしたら、こんな地獄で大声も上げられないあたしのことを軽蔑しているかもしれない。バカみたいって、あたしのことを言ってるのかもしれない。せっかくあたしと仲良くなろうとしてくれたのに、あたしはその好意を自分の臆病さで踏みつぶしてしまったのかもしれない。背中が冷たい汗で濡れていくのがわかって、爪が肌に食い込むぐらい握りしめた手のひらはじっとりと湿っていた。
「センセーくるよ」
田中の取り巻きの女がそう叫んだとき、あたしの手はふっとやわらかいものに引っ張られる。「え、」とあたしが息をすうよりももっとはやく、西原さんはあたしの手を取り走り出した。ドアを蹴っ飛ばすぐらいな勢いで教室を飛び出して走る。あたしはつんのめりそうになりながら、西原さんのやわらかくてつめたい手に素直にさらわれている。なにもかもが突然で、あの田中ですら反応できていなかっただろう。西原さんは修羅のごとく走り、走り、大股で階段をかけあがって屋上のドアにガンッとぶつかった。
「……あっ、開かないの!?」
「お、屋上は、ハア、立ち入り禁止で、ハア、先生がカギかけてる、」
振り返った西原さんにむかってあたしは答えたけれど、息が切れてしまってうまく言葉が発せない。あたしは咳払いをしながらなんとか呼吸を整えた。西原さんはそんなあたしの手をにぎったまま、じっと待ってくれていた。
「……おちついた?」
「ウン……」
「ごめんね。なんか飛び出してきちゃった。……あ、初授業だったのに。サボりだ」
たぶん走っているうちにチャイムは鳴ったんだろう。時計は持ってないからわからないけど、学校中に広がっていたざわついた波みたいなのが急にしずかになった気がするから、きっともう授業は始まっている。あたしは授業をサボるのははじめてだったけど、なんだかこんなにもあっけないもんだったんだなとぼんやり思う。
「……あはは!」
西原さんは声をあげて笑った。あたしも、つられるように引き笑いをする。
「あはは、だって、あの子なんかムカついちゃったんだもん。ごめんね斉藤さん」
「ううん……あたしも…」
「ムカつく?」
「……ウン」
「だよね。あんなやつのこと気にしなくていいよ」
西原さんにうながされるがままに、階段の一番上に腰をかける。あたしたちふたりは横に並んで座って、灰色のコンクリートで作られた質素な壁を眺めた。手はずっとつないだままで、あたしはそろそろ手の汗ばみが気になってきたから離したいところなんだけれど、もったいない気もして離せないでいる。
「斉藤さん」
西原さんがあたしの顔を覗き込んできて、ぎょっと背中を反らせる。西原さんはくすっと笑って、あたしの手をつよく握った。
「斉藤さん、笑ってるのカワイイよ。だいじょうぶ。わたし、斉藤さんの味方だから」
めまいがした。お風呂でのぼせたときみたいにくらくらして身体中が熱い。あたしはこんな言葉を誰かに言われたことなんて一度もなかった。両親にすら言われたことなんてないのに、昨日電車で偶然会った女の子が、偶然うちの学校に転校してきて、あたしの手をさらってここに連れてきてくれてそう言った。あたしは今ならたぶん鳥になれる、蝶にもなれる、あたしはどっちかってと蛾かもしれないけどとにかくなれる。あたしはおなじように西原さんの手をにぎり、ぎこちなく笑ってみせた。
あのあとは結局先生にこっぴどく怒られたし、放課後に田中の渾身の蹴りを受けておなかに痣ができたけど、べつになんともない。あたしはなんともなくなった。なんでかというと、味方がいるからだ。西原さんの「だいじょうぶ」をこころのなかで唱えるだけであたしは何倍も強くなれた気がする。
その点、田中の陰湿でクソみたいなイジメはパワーアップした。机の上に花が飾られてるなんてまだかわいいもので、ひどいときは黒い油性マジックでデカデカと「死ね」と書かれていたし、机のなかには大量のセミの屍骸が突っ込まれていた。あたしはそのたびにひどいショックを受けたけど、悲鳴はあげないし泣いたりもしない。淡々と花や屍骸を片づけて、油性マジックは次の日用意した除光液で丹念に拭き落した。それは西原さんも手伝ってくれた。うすいティッシュがやぶけて油性マジックが指先についてしまっても、西原さんは「みてみて」だなんて笑ってくれる。
彼女の存在を言うなら、言うなら天使だって思うんだけれども、それもなんだか違う気がする。あたしは西原さんのことを考えると胸が痛くなったり、涙が出そうになったり、抱きしめたくて仕方なくなったりしてしまうのだ。天使に対してそんなこと考えたりするんだろうか。あたしにはもうよくわからない。
放課後、いつもどおり大量の荷物とうわぐつをかかえてあたしは廊下に立っていた。西原さんが一緒に帰ろうと声をかけてくれたのだ。取ってくるものがあるからといって彼女が生物室のほうへ行ってから、たぶんもう1時間は経っている。
(さすがに遅いよなあ……、でも様子見に行っちゃったりしたらウザイとか思われるかな? ていうか一緒に帰ろうって約束すら忘れられてる?……まさか、ねえ)
最悪の状況のIFはあたしのあたまのなかに次から次へと浮かんでは消えて、どうなっても、西原さんがあたしから完全に離れていくルートで終わる。ああ。ええい、ままよ! あたしは荷物をそこに置いたまま、そうっと生物室のある3階のほうへ歩き出した。
(なんか音がする。やっぱり西原さんまだ居たのかなあ。でも誰かとしゃべってるみたい)
あたしは生物室の前を身をかがめて通り、声がするほうを目指して停まった。たぶん、生物室のなかに、西原さんともう一人がいる。声のトーン的には男の人だとおもうんだけれども、なんだか言葉が散り散りすぎてなにを言っているのかさっぱりわからない。あたしはぎゅっと手を握りしめ、「だいじょうぶ」とささやくとこっそり生物室のドアを引いた。
「アッ、あっあっせんせええ」
「うっ……いい、……いいぞ」
「あっあっそんなに強く突いちゃだめなのぉ、ああ」
「声が大きい、西原…! 聞こえるだろ」
「だいっ、じょうぶですよぉ、ここいつもあんまり人いないんでしょッ」
「……ぐっ、ふん……ああ……くっ」
「アンッアンッせんせえ、中に出してぇ」
「バカ、無理に決まってるだろ」
「んんん、アンッ、中がいいのぉ」
「ダメだ……アッやばい出るッ!!」
(えっ、)
あたまのなかがまっしろになるほど、透き通るとがった悲鳴が響いた。それは西原さんの声だけど、西原さんの声じゃないみたいだ。西原さんは男の人の身体にしがみついて、ぴんと足を反らせていた。足の爪先からローファーが零れ落ちて床にころがったのと同時に、あたしは後ろにひっくり返った。ものすごい動悸と頭痛と吐き気がぜんぶいっぺんに押し寄せてきて立ち上がることもできない。
西原さんは男の人と肉の塊になっていた。
気が付いたら玄関に戻ってきていて、あたしは呆然とした。自分が階段を降りたり廊下を歩いたりした記憶がすっぽり抜けている。それでもあのときの西原さんのいやらしい声と、ぴんと伸びた足があたまから離れない。制服のスカートのなかに男の人が股間を押し付けていて、西原さんは短い髪の毛を振り乱しながら身をよじらせていた。彼女のあざやかなブルーのシャツからはだけていた真っ白い肌。
「……遅かったじゃん」
顔をあげると、田中がいた。田中だとおもう。視界ははっきりしているはずなのに、脳の認識がしゃんとしてくれない。あたしはふらふらと靴箱に寄りかかった。田中はあたしの荷物の上に立っていた。
「こんなとこに荷物置き去りにして、バカじゃねーの? なぁ」
田中は右腕をいきおいよく横に払った。そのときビリッと紙の破れる音がして、あたしははじめて、田中があたしの教科書を破いた紙屑に囲まれていることに気が付いた。それを入れていたはずのあたしのカバンは、田中の足元でぐしゃぐしゃに踏みつぶされている。
「上履きならあんたの好きなトイレに投げてやったから、取ってきな。今すぐ」
「………あ、」
あたしはなにかを言おうとしたけれど、呼吸がうまくいかなくてそのまま地べたに崩れ落ちる。田中はそれを見てゲラゲラと笑った。
「きったねぇ、床に座りやがって。あったまおかしいんじゃねーの?」
「……あ、あ…」
「ハァ? なに、ついに頭もヤられた? おいブスこっち見ろよ」
髪の毛を強くつかまれて、無理やり上を見上げさせられる。あたしを見下ろす田中は、まるで人間ではないいきもののようにみえた。
「西原が越してきてテメー調子乗ってんじゃねえの? なぁ、あいつにどんだけ優しくされたってテメーはテメーなんだよ、あたしが怖いくせに反発もできねえで臆病でクズでなんにも取り柄がなくてブスで自分は何にも悪くない世界が悪いみんなが悪いって思ってんでしょ? あっは、ウケる。テメーがそんなんだからなんも変わんねえんだよ。あんたのなかではあたしが悪なんだろうけど、あたしのなかじゃあんたが悪だよ。存在してるだけで不愉快なんだよ。キモいんだよ。消えろよ、ゴミ」
あたしはなにも言い返すことができない。ただ、ただ西原さんの声と田中の罵声が合わさって脳内にリフレインして吐き気がする。田中はあたしの顔を覗き込んで大声で笑った。
「なんだ、泣けるんじゃん! もっと泣けよ、ブス。あたしをもっと楽しませろよ」
「……斉藤さん、あれ、見ちゃったでしょ」
田中がゲラゲラ笑いながら玄関を去って行ったあとに、うしろから西原さんが現れてあたしの肩を抱きしめた。あたしは硬直してなにも言うことができない。
「フフ。体育の横山せんせ。かわいくって、すきだって、わたしのこと」
「………だ、だから、?」
「だから? うん。だから、シたの。処女だったから大変だったけど」
あたしは今まで地獄に生きてきた。これ以上の地獄なんてないとおもっていた。それなのに、あたしは。あたしの神様は。あたしから西原さんまで奪うのか。田中に涙を見せてやってしまったのか。
西原さんはあたしのビリビリになった教科書を踏みながら近寄ってきて、しゃがみこんだあたしの手を両手でやさしくつつんだ。吐息がちかい。さっきまで先生と顔をくっつけあっていたくちびるが、まるでそうなることが当然であるべきかのようにあたしに近づいてくる。
「……ヤッ、!」
「……どうして、嫌なの? 斉藤さん、わたしのこと好きでしょう?」
「す……好きとか……」
「好きでしょ?」
「………ウ、ウン」
「好きなら……キス、しよ?」
呪文のような西原さんの言葉。あたしは心で何度も抵抗しながらも、西原さんのやらわかそうなくちびるが近づいてくるたびにまともな判断ができなくなっていった。あたしと西原さんはキスをした。西原さんはあたしのくちびるに舌をすべり込ませて、自分の唾液をすこし飲ませてきた。あたしはのぼせながらも必死でそれを飲み込む。
「ん……」
「はあ、はあ……」
「ねえ、斉藤さん…」
「へ……」
「あなたにだけは教えるね、あたしのひみつ」
西原さんはあたしにキスをしたときとおなじ表情のまま、あたしの顔の両側に手のひらを添えた。距離は近い。西原さんの瞳のなかに、おびえるあたしが写っていた。
「あたしね、かわいそうな人がすきなの。どうしようもなくバカで救いようがないくらい孤独で、誰にも受け入れてもらえてない、かわいそうでかわいそうでたまらないひとがすきなの。だからあなたの笑顔より泣いてる顔のほうがすき、唯一の味方であるあたしに裏切られそうになって絶望感じてる表情なんか最高だったわ……」
だからね、斉藤さん。もっとかわいそうになって。かわいそうなあなたがすきよ。
「ほら、便器のなかに落ちちゃったから、あんたのペンケース。拾っていいよ」
うしろで田中の声がする。あたしは震えながら個室に入って、便器に浮いた白いペンケースを眺めた。ああこんなものいらない、ぜったいに捨てるから無視しちゃったっていいんだけど、あたしはそれができない。
手を使って拾おうとすると、田中がうしろからお尻を蹴ってきた。つんのめって顔面ごと便座に突っこみそうになる。
「なにやってんだよ、口で拾えよ。口で。手なんか使ったら意味ねーだろ」
意味ってなんだよ、だいたいテメーが落としたんだからテメーが拾えブス、死ねブス、死ね死ね死ね死ね、………ああ。それでもあたしはその要求に逆らえない。田中と取り巻きがいるむこうのほうで、西原さんがあたしのことを見ている。
「うっわこいつマジで顔から便器突っ込んだよ! キタネー!!」
「ぎゃーー!!まじありえねーんだけど! くっさ!!」
「こっち来んなよゴミ! うわ散った~~!」
田中と取り巻きたちは大騒ぎだけど、あたしは笑っている。便器の水をしたたらせながら、セーラー服のリボンを濡らして、むこうにいる西原さんに微笑みかける。西原さんはにっこりと笑った。
2015. 8.20 再録
2015.11.22 初演
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かけおちる夢のなかバラの花畑
その場所に降りたとき、わたしは自分が靴を失くしたことに気が付きました。いつの間にか裸足だったのです。わたしはとてもびっくりして、でもきっと失くしたのは電車のなかだと思いました。横には恋人がいて、わたしたちは駆け落ちをしているのでした。
このまま裸足で居ると、恋人に嫌われてしまう。とわたしは思いました。そこでわたしは恋人の傍をそっと離れて、知らないお家の知らない人の靴を盗んで履きました。黒いハイヒールでした。それはまるでわたしのためにあったような靴で、わたしに履かれたことを喜んでいるような気配がしました。わたしは悪いことをしているつもりなんかこれっぽっちもなくて、ただその事実だけを胸に抱きしめて恋人のもとへ向かいました。ふたりでどこまでもどこまでも行こうと思いました。
ところが、その靴はこの国のいちばん偉い女の人の靴でした。その女の人の一番お気に入りだったらしいのです。そんなことは知らなかったんですなんて言っても、通用しないくらいに、女の人は怒っていました。わたしはその黒いハイヒールをカツカツ鳴らしながら国中を逃げ回りました。恋人はいつの間にかいなくなっていたのでした。
もう逃げ場はないんだなあと思ったのは、川のふちまできたときでした。いろんな恰好をしていろんな武器をもった殺し屋がたくさんわたしを追ってきていて、ありとあらゆる残忍なことをしようと鬼の形相で取り囲んでくるのです。雑草に埋もれて眠れない夜を過ごすのも、なにもしらない太陽が昇るのが恨めしくてくちびるの皮を噛み切ってしまうのももうたくさんでした。わたしはとても疲れていました。もう靴なんていらないから、解放してほしいと思いました。でもそんな言い訳はとても通用しませんでした。この国でいちばん偉い女の人はただただわたしの死を望んでいました。殺し屋たちも、国中のにんげんも、きっと恋人も、そうでした。わたしも、そうでした。わたしは死にたいと思いました。
そのときひとりの女がわたしの前に現れました。SMプレイで女王様が着るみたいな、ボンテージというのでしょうか、そういう身体にぴったりとくっついたような服を着て、高い高いヒールのブーツを履いた女でした。彼女は殺し屋でした。わたしを殺すために、あの女の人に雇われたのです。わたしは、女に言いました。
「わたしを殺してくれるんですか」
女はうなずきました。黒いロングのストレートヘアがさざなみのように揺れていました。わたしはとてもほっとして、なみだがでました。この女がわたしを殺してくれるんなら、本望のような気がしました。わたしはハイヒールを脱いで、川に投げ捨てました。そうして女に「なるべく苦しまないように、殺してくれませんか」と頼みました。女はうつくしい無表情で「いいよ」と答えましたん。わたしは女に近寄って、「それから、最期のおねがいをしてもいいですか」と尋ねました。
「わたしとお散歩をしてくれませんか」
女はまた同じように「いいよ」と答えました。
女と連れ添って、わたしは歩きました。どこへ行くのかもわからないまま、あてのないまま、歩きました。女はなにも言わずにわたしの傍をかたときも離れずについてきてくれました。ときおり、ほかの殺し屋がわたしを狙ってピストルを撃ったり車で跳ね飛ばそうとしたりしてきましたが、女はそのたびにわたしを守ってくれました。わたしはずっと怖かったのですが、女はただただ「この少女を殺すのは私」というように、依頼された任務をただまっとうしているようでした。
逃げ回って、逃げ回って、盗んだ車に乗ってどこまでも行って、ロケットランチャーが車を壊しても、わたしたちは止まりませんでした。黒いサングラスとスーツを身に着けたたくさんの男たちがわたしたちに殺意を向けてきても、女はまったく怯みませんでした。強く、美しい女が立ち回る姿を、わたしはドキドキしながら見ていました。
そのうち私と女は、ついに追いつめられてしまって、崖の下に転がり落ちました。身体中が痛んで、脳が揺れています。むきだしの足は黒く汚れて血まみれで、わたしはもうぼろぼろでした。もうこのまま眠ってしまおうかと思ったのですが、ふとまばたきをすると、真っ赤な景色が目に飛び込んできたのです。
そこはバラの花畑でした。棘のない可憐なバラたちが、たくさんたくさん咲いていました。わたしを庇うように覆いかぶさっていた女を見上げて、わたしは言いました。
「わたし、ここで死にたいです。ここで殺してください」
女はあたりを見渡して、バラの花を見つめていました。その横顔はまるで澄みきった水のようにとうめいで、やわらかで、わたしは彼女のことをとても愛おしいと思いました。そしてその横顔に見とれながらぼんやりと、自分が恋人と駆け落ちをしている途中だったことを思い出していました。
それは永遠のような一瞬でした。女は振り返って「いいよ」と答えました。そしてわたしにピストルの銃口をむけました。わたしは心の底から安心して、バラの花畑に寝ころんで目を閉じたのです。
目が覚めるとそこはベッドの上で、それが夢だったことに気が付くまでに時間がすこしかかりました。テレビをつけると国民的アニメの主人公が巨大な悪のボスと戦っていました。わたしはベッドにうずくまって、「正夢になったらいいなあ」なんて思っていたのでした。おしまい。
遺書
あッそうか俺にはなんにもねーんだと気が付いたのはコンビニで買ってきた弁当を夕飯にテレビを見ているときだった。気が付いてからはもうあまりにも早くなにもかもだめになった。テレビではたくさんのキラキラした人間がキラキラとした言葉をしゃべっていてたまにはバカみたいなことを言って笑いながら白い歯を見せたりして、俺はぼんやりと去年から放置したままの虫歯のことを思い出した。もう痛まないしたぶん大丈夫だろうと素人勘定だが単純に歯医者が嫌いなだけだった。5年前から不眠症が治らなくて薬ばかりが増えていくし、仕事の案件はいつまでたっても悩みの種だし、そこまで考えるとジェンガがガラガラ崩れていくようにいろいろとこぼれてしまった。彼女との結婚を考えて薄給からちまちまと貯金していたくせになぜだか突然バカらしくなって全額をパチンコに溶かしたこと、それは今も彼女に秘密なこと、中学の時に「目つきが気に入らない」とかいうクソみてえな理由でボコボコに殴られて気を失ったこと、大学生のときのセックスフレンドが実は人妻で「もうやめましょ」なんて泣きながら言う様をみてもなんの感情も抱かなかったこと、それからもう3年は油絵を描いてないこと。そうするとさっきまで食べていたからあげの味がしなくなった。くちゃくちゃ噛む音がきもちわるくなった。社会人になってから患った軽度のうつ病が治って患ってを繰り返してばかりで、月一の病院で「お変わりないですか」「はい、特に」なんてしょーもないやりとりばかりしている。もうどうしようもない。何度だってダメになってきたが今回こそは本当にもうだめだと思った。こっからさき生きててなにがあるんだろうか。しあわせもふしあわせも面倒だ。いらん。いらんもう。家族も彼女もぜんぶ捨てる。だめだ。俺は生まれてから死ぬまでたったひとりだ。で、「あー、死の」とつぶやく今。抑うつ薬と眠剤を何粒か口のなかに突っこんで水道水で流し込むと、その場で服を脱いで風呂に入った。頭からシャワーをかぶる。つめたい水がどんどんぬるくなり、熱くなるのを感じていた。1か月前に衝動的にバリカンで頭を剃ったので、洗髪はシャンプーだけで済む。身体を洗うためのせっけんを泡立てていると薬と湯のせいで頭がもうろうとしてきたので、脳内で遺書を考えることにした。
前略
俺の人生に関わって下さった皆様がたへ
不徳の致すところではございますが俺は今日死ぬことにいたしました
おふくろ、親父、兄貴、迷惑をかけます
理由は特にございませんので、ご責任なぞ感じられぬように宜しくお願いします
家具はお好きにお使いいただくか必要がなければリサイクルショップでお売りください
実家の部屋に置いてきた油絵はすべて燃やしてください
残っている絵の具は美大の後輩の只野祐樹という男に譲ってやってください
俺のような愚鈍で馬鹿でどうしようもない人間と付き合ってくれてありがとうございました
あの世では上手くやろうと思います
早々
平成28年1月11日 椿木ハルオ
追伸:ちよりへ 今後の人生くれぐれもどうか元気で
風呂を出てバスタオルにくるまっていると、ふとリビングから音がしているのに気が付いた。着信だ。会社からかもしれない。ふらつく足取りでテーブルにつっかかりながら電話をとると、相手は兄貴だった。
「おー、元気してるか」
「うん。してる。どうした」
「いや別に。新年のあいさつ」
「もう11日だよ」
「そうだな。ところで母さんの誕生日いつだっけ」
「えーと、3月13日だったかな」
「13か。メモっとかねえと」
「兄貴、俺、だめだわ」
「…おー、どうした」
「いや死のうと思って」
「そうか。首つり?」
「いや、飛び降りるよ。ここ7階だし」
「なんで?」
「え?」
「なんで死ぬんだ?」
「いやー、ちょっともうだめっぽいから」
「そうか、いや残念だなあ。さびしくなる」
「うん、ごめんな兄ちゃん」
「兄ちゃんか。久しぶりだなその呼び方」
「ごめん、薬まわってきてる」
「そうか。でもお前、ちよりちゃんは?」
「うまくやるよ。ちよりなら」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「ハルオ、生命保険はいってんの?」
「はい………いや、はいってないわ。はいってなかった」
「貯金は?」
「パチンコで溶かした」
「ハハハハ! お前、アホだな~」
「……兄ちゃん…俺、アホだわ……」
「そうだなあ」
「葬式って金かかるよな」
「おう、かかるぞ」
「じゃあ生命保険入ってから死ぬことにする」
「そうしな、バカ野郎」
「……ねむい」
「お、陽菜が起きてきた。陽菜、おじさんだぞ~」
「おじさん? おじさん、ひなだよぉ。まだおきてるの?」
「いや……もう寝るよ」
「おじさん、あしたはおしごと?」
「うん」
「そっか。がんばってねえ」
「うん」
「おい、ちゃんとあったかくして寝ろよ。じゃあな」
「うん」
その日はそのまま意識が落ちたけれど、あまりの寒さに早朝4時に目が覚めた。とうぜん俺はアホのごとく風邪をひき自殺どころではなく、会社を2日休んだ。そうしてそのまま何事もなかったかのように生き続けている。2年前の話である。あのときのどろどろした自殺願望を絵にしようと筆をとったが、それがなかなか進まない。生命保険は無事に入ることができたけれど、その絵を完成させるまでは死ねないなあとなんとなく思っている。そういうわけで俺はまた絵を描けるようになった。もちろん時には休むし、時にはぜんぶグチャグチャにする。完成はいつになるかわからない。
サカナノホネ ※10/12修正
※10/12修正
青痣、梅子です。
渡辺枝里・北村麻衣子と一緒にユニットを組みました。
その名も「サナカノホネ」。
ひんむかれて満身創痍な骨だけれども、がんばるフィッシュボーン。
出演予定
11/22(sun) Contemporary
13:00start / 19:00end 入場料 1,000
11/29(sun)蛸蔵ラボvol.1
『無様』という女子高生が愛し合う泥沼ものがたりを書きましたので、
三人で演じることになるます。
いろいろ、ありそうですが、よろしくおねがいします!
サカナノホネTwitterアカウント @sakana_bone https://twitter.com/bone_sakana
submarine
わたしは彼女の日に焼けた手足がすきだった。手は細くておおきい。ぎゅっと握っているときの関節のあたりは、まるで砂浜の小石のようにうつくしかった。足はながくて、無防備にさらされたふくらはぎは少したくましくて、ひざのあたりに小さなピンク色の傷がある。ななめ後ろの席から見える彼女の身体は、あたまのてっぺんから爪先まで、生命がぎっしりと詰まっているように健康的だった。ただ見つめているだけでよかったはずなのに、その甘ったるい感情はいつの間にかほんとうの恋になっていた。わたしは彼女がすきだった。
女の子が女の子をすきになるということは、まちがっていることだった。わたしはそう教えられてきた。だから誰にも言えなかった。もちろん彼女にも言えなかった。どうせ恋人同士になどなれやしないのだから、いちばんの友達であろうとした。
はるか、とわたしを呼ぶ声がみずみずしい。夏の夕方は気が遠くなりそうなほどさびしくて、日の落ちた青白い廊下は、彼女の声にしんと静まり返った。はるか、帰ろう。彼女はそう言って、スカートをひるがえした。わたしは彼女に追いつくために廊下を走ってゆく。距離はすぐに縮まって、彼女の四肢からはほんのすこし汗のかおりがした。かかとを踏みつぶした上履きはうす汚れている。わたしはそれすらもうつくしいとおもった。彼女が彼女であるために、雑に見えるほど短く切りそろえられたショートカットや、無防備な足の先は大事なものだった。
わたしは彼女の足をみつめていることに気が付いたのか、彼女はくちびるをとがらせながらわたしに呟く。
「はるかは、足が小さくっていいね」
「……そうかな、ふつうよ」
「ううん。はるかはなんもかんも小さくっていい。あたしたまにかなしくなるよ、自分の女の子っぽくないとことかさ」
彼女はたまにこんなことを言う。彼女は彼女だからこそうつくしいのに。彼女がどれほど尊く清いいきものなのか、わたしなら夜まで語ることができるのに。でもこういうとき「ともだち」ならなんと言うか、わたしは知ってしまっているのだった。
「あなたはちゃんと女の子よ。だってとってもすてきだもん」
「もう、はるか。いつもありがと、そんなこと言ってくれて」
「ほんとうのことよ」
「うん」
彼女は目をそらしてうなずいたけれど、きっとなにもわかっていない。わたしの心のなかにある、夜よりも濃い闇色の感情を。今ここで彼女の手をにぎって、「かなしくなんてならないで」と言えたなら。「あなたは誰よりもうつくしい」と言えたなら。でも、できない。
「はるか……、」
「なぁに?」
「わたし、はるかになれたらいいのに。はるかになってみたいな」
彼女は言った。その横顔はひどくせつなくて、触れれば今すぐにでも壊れてしまいそうなガラスの心細さに似ていた。そのときわたしははっきりと、彼女のことをさらってしまいたいとおもった。
彼女をさらって、どこか遠くの国にでも行って、ふたりきりで暮らしたい。このピンと張りつめてやぶれそうなほどやわらかな肌が、しわくちゃで色あせて紙切れのようになっても。わたしは彼女をうつくしいとおもうだろう。心からうつくしいとおもうだろう。わたしの愛はほんものだ。
「あさみ」
わたしは彼女の名前を言った。その響きはやさしくて、まるで喉が火傷したかのように熱くなった。まぶたの裏がわからみるみるうちに涙があふれてこぼれそうになっても、わたしは彼女を見つめていた。視界はとろとろと融解していって、彼女がいまどんな顔をしているのかわからない。でもきっとうつくしいんだろう。わたしは愛に満ちている。こんなにも満ちているのに、この感情をことばにできない。ことばにしてしまったら、なにもかも失ってしまう。
わたしは海の底でしずむ潜水艦だ。もううまく息もできない。あさみがすきだった。とてもとても、すきだった。
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