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ハローグッバイ







帰ってくると、マキがブドウの皮をむいていた。しんとした部屋で机にむかってイスの上であぐらをかいている。ボウルと真っ白い皿との間を行き来するむらさき色の指先をみながら、俺はしずかに「ひさしぶり」とつぶやいた。マキは顔をあげなかった。
「ひさしぶりね」
「……どうしたの、ブドウ」
「もらったの。母さんから」
たんたんと答えるマキの横顔は落ち着いていた。人間はいついかなるときも、果物にむきあうと、しゃんとする。むかしマキがそう言っていたことをおもいだした。いついかなるときも。俺が突っ立ったままマキをみているのが嫌だったのか、マキは不機嫌そうな顔でテーブルに肘をついた。そのあいだももくもくとブドウがむかれている。

ボウルに残っているのは、もうほとんど死んだ皮ばかりだった。マキの濡れた指によって剥かれ、つつりとした光沢のある実だけが、あの汚れない真っ白い皿に着地することができるのだ。それは単純な作業だった。だからこそ、しゃんとするのだろう。マキの指の動きを見つめながら、ぼんやりと部屋の隅に立ったままだった。


放浪癖、みたいなものが、自分にあるかもしれないと気が付いたのはいつごろだったろう。ひとところに、いられないのだ。おなじような生活、おなじような風景、おなじような人間との関わり合いが1年2年と続いていくうちに、違和感を覚え始める。端的にいうと、きもちわるいのだ。同じ生活が繰り返される得体のしれない恐ろしさ、人間と生活を営んできたがゆえに生まれた圧倒的な生々しさみたいなものに体中がさいなまれて、やがて見動きもできなくなる。そうなってしまったら、おわり。俺はもうそこにはいられないのだった。すぐにでも逃げ出してちがう生活がしたくなる。


マキは高校の時からの彼女で、付き合いは10年ほどになるが、いまだにこの「放浪癖」には納得がいかないらしい。あたりまえだ。自分でもよくわからないほどなのだ。
マキと一緒に暮らしはじめて、半同棲も含め約10年程度の長い期間。はじめは自分でもよく自重していたけれど、ここ最近の放浪は度を過ぎている。どうしてもひとところにいられない。ほかの場所へ移って、そこにいられなくなったら、今度は別の場所へ。そこもだめになってからはじめて、この家へ帰ってくる覚悟を構えるのだ。そのへんのサイクルはあいまいで、帰りたいときに帰るし、帰るつもりがないときは2年や3年は平気で帰らない。今回は2年ぶりの再会だった。

マキはブドウを向きおわったあと立ち上がり、指先とボウルを洗うためにキッチンへと向かった。キッチンには見知らぬ調味料や食器が並んでいる。2年の間にいろいろあったのだろう。自分のなかの暗黙のルールは、かかわらなかった年月に相手がなにをしていようとそこに干渉はしないというものだった。マキはゴミをゴミ箱にぶちこみ、ボウルを手早く洗って食洗器へのせた。最後に両手を水でがしゅがしゅと洗って振り返ってくる。
「あのさ」
マキが、ことばを発する。ひさしぶりに聞く、彼女のかすれた声だった。
「あたしさ。最初のほうで、かなしいとかさびしいとか、不安とかそういうの考えつくしてる」
「うん」
「だけど最近はもう、全部に慣れて諦めてる自分に気が付いてさ」
「うん」
「気が付いたから、考えたんだけど」
「うん」
「あたしも逃げたいときあんのよ」
「……うん」
「あんたは、逃げないでいようとおもったことある?」
つやつやと光るブドウの実を見下ろしながら、マキがそう吐き捨てた。力なくぶらんとぶら下がった指先からは透明なしずくがポタリと落ちる。そのとき俺はしずかに、とてもしずかに終わりを悟った。


人生のまるごとが、出会いと別ればかりだった。それ以外には、なにもなかった。だからこそ、なにものこってはいなかったのだ。それでもマキは俺の帰って来られるところだった。どこへ行って出逢っても、なにをして別れても、人と人の波に疲れたときにふと思い出す家がある。マキの顔がある。そうやって俺はここに戻ってくるのに。
「逃げないでいようとおもったこと……あるよ」
「うそ!!」
マキは声をあらげた。その反動で、ブドウの入ったボウルが揺れる。一瞬の緊張感を無視して、マキは続けた。
「あんたはいつだって逃げることばかり考えてる。向き合おうとするまえに逃げる。だから私は、私は……私は、逃げなかった。あんたと向き合おうとしたわ。…でももう無理よ。…無理、なのよ」

ここはいつの間にか、俺の居場所ではなくなってしまった。らしい。ずいぶんと長い間ここにいたようなきもちだけれど、自分にとってはきっと短い期間で、マキにとっては10年以上の重ったるい時間の流れだったのだろう。何度も考えて、何度も嘆いて、何度も信じて、俺に振り回されたマキの10年間。ながい、ながい10年間。



「……そうか。無理かぁ」
口から出た声は、あまりにもなさけないものだった。もしかしたらすこし泣いていたかもしれない。自分の帰る場所をなくした。唯一の愛を失った気がした。出会いと別れを繰り返すたびになにもかも捨ててきた俺が、どうしても手放したくなかったものが。音もなく消失していた。

俺はマキに向き合ったまま、あいまいに笑っていた。ほんとうは笑いたくなかったが、こんなときに出てくる表情がこんなもんしかないから仕方がない。仕方がない。仕方がないんだ。
「マキ、ごめんな」
「謝らないで。惨めになるから。だってあたしたち、この結論からはもう逃げないでしょ」
マキはそう言うと、ブドウを一粒つかんで口にいれた。その横顔は泣いているようにも見えたし、ほっとしているようにも思えた。
「…俺も、もらっていい?」
「……どうぞ」
銀色のボウルのなかから、うすいブドウの粒をつまむ。毛細血管のように張り巡らされた筋たちのむきだしの果実。果汁がしたたって、さわやかな香りが鼻孔を抜ける。口にふくむと懐かしい味がした。故郷なんてとっくに忘れた放浪癖の俺が、なつかしいと感じるようなさわやかさ。

「うまい」俺は繰り返した。
「うまくてなつかしいよ」
なぜだか視界がゆがんで溺れて、ブドウの味はわからなくなった。マキが俺に背中をむけて震えている。ああ、そうか。ほんとうに、ほんとうに遅かったんだなあ。もうすこしはやく帰ってきていれば、俺はいまマキを抱きしめていられたのに。



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ユニバース



思い出がすきである。あっとうてきに、すきだ。思い出ばかり思い出してうっとりしたり、わらったり、シクシク泣き出すのがすきだ。あたしは最近までこんな単純なことをどうしても認められなかった。我ながらバカみたいだとおもうが、そうだから仕方がない。もうこのままでいいから、30歳になったらぽっくりと、用意されていた落とし穴に落ちるように死にたい。

そういうことを言うと、ハナ子がわらった。たばこの煙を吐きながら笑っていた。口をあけたときに見える奥歯のぎんいろがまぶしかった。さびれた屋台に似合わない金髪と派手な恰好のハナ子と、会社帰りのOLであるあたしが並んでおでんをつっついている状況。とてもちぐはぐだけども、あたしたちにとってはいつものことだった。
「むずかしいねアンタ。ほんとまぁバカみたいに極端ですこと」
「……こないだ元カレが今カノとデートしてるとこに鉢合わせして」
「ほお。しかしどうやったって過去は過去だぜ」
「そうだけども。あたしはさ。部屋の電気が調子悪いからって、休みの日なのにわざわざチャリ漕いで電球を買いに来てた。スッピン、よれたセーター、くすんだジーパン」
「はっはっは。悪くないね」
「そうしてトレンチコート着てたっかいヒールを履いてるキレイなナリした女と、帽子かぶって青いシャツ着た元カレのラブラブおてて繋ぎを見たわけよ」
「荒れるね。まァ飲みなよ」
ハナ子は片手で瓶ビールを注いできた。グラスと瓶の口があたってカチンと鳴ったけど、あたしたちは気にならない。あたしはたばこを灰皿に押し付けて、奥の席で焼き鳥を食っているサラリーマンがけだるげにスマートフォンに触っているのをぼんやり見た。
「思わずツイートしちゃったよ」
「なんて?」
「『なにやってんだろうわたし』」
「ああ~」
鼻に抜けるような返事をしたハナ子は、続けて「ン~」と言いながらたばこを咥えて揺らした。
「どいつだ? 増田? それとも龍くん? 大川さんか?」
「佐野ちゃん」
「んっ~、美容師か」
ハナ子はあたしのだいたいの恋愛遍歴を知っている。そのどれもがアホのようにつらい思い出なんだけど(そうしてそれをたまに思い出しては泣いたりするんだけど)、そういうのも含めてハナ子はぜんぶ笑い飛ばしてしまうような女だった。あたしの5つ年上で、居酒屋でバイトをしていた時期に知り合った。それなのになぜだかもう何十年も一緒にいるような、それでいてさっき知り合ったみたいなそんなかんじもする不思議な存在である。

「泣かれたんだよな、別れるときに」
「そう。『俺には愛ちゃんしかいないのに!』って」
「それが、愛ちゃん以外にもいたわけか」
「当たり前よ、わかってる。あたしをずーっと愛してろってわけじゃない、あたしだって違う男を好きになったりもすンだから。でもね情けないのはさ、佐野ちゃんはちゃんと生きてたのよ。あたしが死んだように毎日仕事して文句垂れてしこたま酒飲んでグースカ寝て、またダラダラ仕事に行ってるときもね。つまり今あたしの生命力は枯渇してるってことよ」
「セイメイリョクが、コカツぅ?」
知らない言葉を繰り返すように、ハナ子は眉をひそめた。あたしはコップをぐいと飲んでからっぽにして、ハアと一息ついてからもう一度「そう、生命力が枯渇してる」と言った。
「生きるパワーがないんだわもう。だってはやく死にたいモン」
「じゃあ死ねよ、ほら、いま大通りにすっぽんぽんで飛び出してッたらいつでも死ねるぞ」
「すっぽんぽんである意味ないじゃん」
「あるよ。生まれたまんまの姿だよ。生まれたまんまの姿で、死ぬんだよ。ウウ~、文学的」
「真面目に聞いてんの? マジなんだけど、あたし」
「とにかく回りくどいッ! 結局なにが言いたいんだテメー。ツイッターだのフェイスブックだので不特定多数の人間に視姦されながらマスターベーションするぐらいなら、はっきり口に出して大きな声で言え!」
ハナ子はそれこそわりかし大きな声で叫んで、あたしにむかって人差し指を突き出した。スマホをつついていたサラリーマンが、ハナ子の背中ごしにギクッと体を揺らすのがわかってあたしはにやついた。
「なにニヤニヤしてんだ、愛。わたしもマジで答えてやってんだぞ」
「あ~、うん。はい」
「で、なにが言いたい」
「日々のマンネリ化に嫌気がさしています。刺激が欲しいです。もっとはっきり言うなら恋愛みたいなことしたいです。ワンナイトラブでも可」
ハナ子はフンと鼻を鳴らして、あたらしいたばこに火をつけた。ジジ、と火種が赤くなって消える。ハナ子の煙草の銘柄はメビウス。メビウスとは、小惑星であり、永遠の曲面であり、元マイルドセブンである。
「ムラムラしてんのかね、愛ちゃん。若いモンね」
「ちっがうの。セックスがしてーんじゃないの。恋愛みたいなことしたいの」
「だからその、みたいなこと、ってなに」
「……ときめき? かけひき? こいつ落としたい、落とせるか、みたいな瀬戸際のヤツ」
「バーーーーーッカ、あっはははは」
ハナ子は大爆笑した。爆笑しながらひっくりかえってビールをぶちまけ、たばこの火種でこのしょぼい屋台を炎上させてしまうんじゃないかと思うほどに爆笑した。

「瀬戸際のヤツはあんたが過去にやってきたことで、もうほんとうに過去で、ただの思い出で、いまがマンネリで、ところが未来はまた思い出とおなじになるのか。繰り返してくわけね。あんたの人生、メビウスの輪」
ハナ子はわかっているのかいないのか、煙をフーと吐きながらたばこを挟んだ指でメビウスの輪を再現しようとして、しばらくしてやめた。
「つまんねえよ、メビウス。愛ちゃん。どうせならもっとでっかくいこうぜ。セイメイリョクにコカツしてんならとりあえずビック・バン。宇宙にでも行って感化されてくれば?」
「宇宙になんか行けないもん」
「じゃあ宇宙を感じられる場所」
「どこ?」
「世界。の、夜空」
ハナ子はすっかり酔っぱらってしゃっくりをしながらそう言った。「世界の夜空」だなんてわけのわからないこと。さんざんビールを飲んだあとは日本酒できゅーっとキメるのがあたしたちのお決まりコースなんだけれども、どうやら今日は無理そうだ。
「ハナ子、帰ろうか」
「帰らない、わたし帰らないよ」
「だってもう3時。びっくりするよね」
「眠いとおもった。でも帰らない」
「なんでぇ……」
だんだん面倒になってきていた。酔っぱらったときのハナ子は至極めんどうくさい。そんなことはとっくにわかっているのに、なぜだかいつも限界まで飲み続ける。あたしは最後のたばこを口にくわえてライターを点け、店主に「おかんじょ」と声をかけた。

ああ。あたしはいま、これが思い出になっていくのを身体で感じ取っている。細胞の隅から隅までせせこましく働いて、このたのしかったハナ子との出来事を思い出に昇華しているのがわかる。やっぱり思い出がすきだ。いまが、思い出になるから、すきなのだ。つらいこともたのしいこともすべでは思い出になる。そうしてビールのなかにぶくぶく沈む泡のようにいつでも安心に満ち溢れている。

あたしはいつかこの思い出を思い出して笑える。そうして泣ける。


「生命力の枯渇は、宇宙の、いや世界の夜空で復活するのか」
「バッカヤロウ。そんなにうまくいくかよ。とりあえず逃げてみろ、生命力を奪うようなところからさ」
「逃げられるわけないじゃん」
「いいや逃げるのさ。すぐにでも。帰ったら荷物まとめろ」
「無理だってばぁ」
「とにかくアンタはなぁんにも間違ってないんだからさ。刺激が欲しけりゃ宇宙へ行くんだね。それが無理なら世界、さらに無理なら日本のどこか遠いとこ。そこでセイメイリョクがジュンタクになるんじゃないの」
「簡単に言うけどね、ハナ子」
「簡単に言うさ。わたしのことじゃあないんだからね。アンタのことさ」


勘定を済ませて外に出ると、屋台のなかよりやっぱりよっぽど寒かった。雨上がりのコンクリートのにおいがツンと鼻にしみる。かたくて冷たい風が耳の裏を通り過ぎていって、身体がすくんだ。飲み過ぎたビールのせいで足元がおぼつかないけれど、帰らなきゃならない。ここでいつまでも管を巻いていたって明日はどうしても来る。

今を通り過ぎて出来ていく思い出がすきで、すきで、たまらないから、未来がこわくなる。当たり前のことだった。そんなあたりまえのことに気が付くのにずいぶんとかかった気がする。朝が嫌いだったのだ。もう二度と夜が明けるなと思った日だってあった。


キャスターを取り出して火をつけていると、メビウスの煙がふっと横に舞った。
「いやぁ、セイメイリョクのコカツね。フフ。いいこと聞いたぜ」
「もういいから、わかったから。あんまし繰り返さないで」
「よく考えてみたらわたしもセイメイリョクにコカツしてるんじゃねーかなって、今」
「……ハナ子はそういうタイプじゃないでしょ」
「いいや。コカツしてるさ。カサカサよ。アンタと同じ。さすがに30歳はイヤだけど、やりたいことやりきったあと、どうせならすっぽんぽんで死にたいって思ってるしね」
「すっぽんぽんはあたし思ってないからね」
「すっぽんぽんの何が悪い。わたしたち、生まれたまんまの姿で、死ぬんだよ」
ふたりはいっしゅん黙って、「ウウ~、文学的!」とはしゃいだ。そのまま手をつないでフラフラ、あっちへいったりこっちへいったりしながら帰った。道を分かれるすんぜんで、ハナ子は「グッバイ、さよなら、また今度」と言った。

また来週もハナ子には会う。こうやって小汚い場所でビールを飲んで日本酒をやって、くだらない話をして、深夜になったら解散。それだけであたしの思い出はまた完成するのだ。しかし、宇宙か。ひとりじゃきっとさびしいな。



アンダーラインの恋



有馬記念でゴールドシップが負けたので、今日はもうヤメにした。池澤が万馬券を手にしたら、叙々苑に連れて行ってくれるという約束だったのだ。真っ赤なセーターを着た池澤はフンと鼻を鳴らして、「今年の運はあのとき使い果たしてやがったか」と毒を吐く。床にしゃがみこんだままの鹿取は、泣きはらしたまんまる目玉を真っ赤に充血させながら「ごめんなさい」と繰り返していた。あたしはそんなふたりの間に座って、スーパーで売れ残っていたクリスマスケーキなんかを食べている。
どうせ鹿取の予感なんてムラがあって当たるかどうかいつも五分五分だし、先月のパチンコでの大当たりはよっぽどツイてる台に座っただけだ。ただ、それだけ。現実っていうものはいつも当たりとハズレが混在している。

「池澤ごめんね、なんかね、俺、もうだめみたい」
「あーもういいから、次当ててくれ。年末ジャンボ」
「アンタ、もう鹿取に頼るのやめなよ」
「ばっかやろ、てめ、諦めたらそこで試合終了だろ!!」

池澤は格好の良いことをいいながら勢いよくあたしにむかって中指をたてる。池澤はいつだって自分で勝負をしない。いい加減この意味のわからないテンションも疲れてきた。こんなに理不尽なことを言われているのに怒りもしないで、鹿取はまだスンスンと鼻をすすっている。
なぜだか鹿取はいつも池澤に弱い。ふたりは幼馴染だっていうけれど、むかしからこんな力関係だったんだろうか。だとしたら鹿取ってすっごく生き下手。こんなめんどくさい男、ギャンブルにハマりまくってる男、真っ赤なセーターで叙々苑に行こうとしてる男とはさっさと縁を切ったほうがよかったのだ。

でもあたしは昨日、この部屋で池澤とヤッた。深夜3時のスタート。忘年会という名目であつまったヒマな大学生のあたしたちは、鹿取の家でビールとチューハイをしこたま飲んでいた。
そう、まずは酒の勢いだったし、なんならコタツのむこうで鹿取が爆睡していたというのに、あたしたちはあっさり性欲に負けた。そもそもあたしはセックスなんて3年ぶりぐらいだったのに、池澤は指の突っ込み方がとにかく雑だった。きもちいいなんて感覚はとうになくなって、もはや泣きわめきたい気分だった。しかも床の隅でコソコソしていたので今でも背中がメチャクチャ痛い。外が白んできたころにあたしたちはようやく我に返ったけれど、一発出して落ち着いた池澤は「あした一限だから」とかそんなことを言いながらそそくさと帰っていった。
爆睡する鹿取と部屋に残されたあたしは、呆然としていた。やらかしてしまった。池澤なんてどーでもよかったのに。なんでヤッちゃったんだろう、数時間前の自分がほんとに信じられない。
そのあとあたしはトイレに行って、パンツに血がついているのをみつけてますます死にたくなった。クソ池澤、女の子は繊細なんだよチクショウめ、だなんて呪いの言葉を思い浮かべて用を足し、そのあと鹿取の横でふつうに寝た。鹿取は昼まで起きなかった。ああ、まだアソコが痛い。

池澤が万馬券を当てて叙々苑に連れて行ってくれてたら許すつもりだったけど、やっぱり無理だった。あまったるいケーキも飽きてきている。あたしはフォークを投げ出すと静かに立ち上がって、ダウンジャケットとマフラーを身に着けた。

「え、帰んのお前?」
「ごめんね、ユラちゃん、怒ってるの?」

みじめったらしくすがりついてきた鹿取を冷静に見下ろす。鹿取のキンキラに染めた金髪は、もう根本が黒くなっていた。そもそものはなし。あたしは鹿取のことが好きで、それなのになんで池澤と寝てしまったのか。ヤリマンごっこなんて向いてない。アソコも背中も心も痛いしとにかく今すぐ死にたいのだ。鹿取はいつになったって池澤のことばっかりで、叙々苑より池澤を片せてあげられなかったことがかなしくて泣いている。

あたしは鹿取に何度も言い聞かせてやったのに。池澤はあんたが思うほどあんたのことを愛してないって、あんたが池澤のすべてが欲しくたって、池澤はあんたのなんにも欲しくはないんだって。ああバカみたい。あんたバカみたいなのよって、何度も何度も言ってやった。それなのに鹿取はいつもみたいに情けなく笑って、「でも池澤は俺を信じてくれるから」って。池澤が言う「信じる」とか「わかってる」とか「焼肉おごってやる」は、この世で一番根拠のない言葉だっていうのに何度言ったって伝わらない。あたしの「好き」は一度だって受け入れてくれないくせに、鹿取は池澤の言葉ばっかりをまるごと受け入れてパンク寸前なのだ。

ああもう、しあわせってなんだ?


立ち上がったあたしに、池澤がなにか言いたげに眉をひそめる。
あたしは勢いよく彼に中指をたててみせた。




玄関の脱ぎ散らかしたくつのなかに、池澤のエメラルドグリーンのハイカットシューズを見つける。ヒールの底で思いっきり踏みつけて、鹿取のコンバースをきれいに揃えてあげてからドアを開けた。つめたい夜の空気が耳のすぐそばを通り抜けてゆく。

ああまったく昨日のことはぜんぶ水に流してくれないかな神様仏様。なかったことにしてちょうだいよ。だってあんな獣みたいなセックス。まっくらな中でおたがい手さぐりな乱暴でくだらないセックスなんて。いや種族繁栄という点においては獣のほうがずうっとマシか。とかなんとかいいながら、あたしは明日もこの部屋に来るんだろう。鹿取の情けなくって愛しい笑顔をみるために。ご主人様に夢中な馬の耳の横で必死に念仏を唱えるために。


有馬記念の実況が脳でリフレインする。

―――ジェンティルドンナ、ゴールドシップ、ジェンティルドンナ、ジャスタウェイ、ジェンティルドンナ、ジェンティルドンナ!最後を飾りました!なんという牝馬!!―――


ああもしあたしが才能のある牝馬だったなら、あんたの子孫を最高のヒーローにさせてあげられるのに。ジェンティルドンナ、あんたみたいな品格のある女にはわからないでしょうけれど、人間の底辺の女っていうのもなかなか苦労があるもんなのよ。えらそうなことを想いながら駅までの歩く道、やっぱり背中とアソコが痛いまんまである。





わたしのたったひとりの





「いーのよ、あんなオトコ、あたしキライだったのホントは」

ボニーがたばこの煙を吐きながらそう言うので、わたしはもうなんだっていいからそのくちびるにはやくキスがしたくって、たまらなかった。『マトリックス』の時のキアヌ・リーヴスに似てるからってセックスした男にフラれたのがどうしても気に入らないみたいだけど、ボニーはとにかくこういう不機嫌な顔をしてるときがいちばんセクシーでカワイイ。でもこんなときにキスなんかしたら絶対に嫌われるに決まってるから、わたしはじっと黙ってピザの破片をかじっている。あ~このトマトソース激マズ。

「知ってる? サラがフットボウラーと付き合いだしたの」
「知らないし、興味もないわ」
「サラのロッカーにファック・ミーって書いたのあたしよ」
「嫌われちゃうわよ」
「嫌われたって構わないのよ、あたし人間なんだモン。あ~あサラなんて死んじゃえばいいのに」

誰かの死を願うようなボニーの目つきは最高にシビれる。一度だけわたしにも「死んじゃえ」なんて言ってきたけど、それはさすがのわたしでもメチャクチャ傷ついちゃったから、やっぱり誰かの不幸を願うようなボニーが一番スキだ。フィルターが口紅だらけのたばこを灰皿に押し付けて、ボニーはくちびるを舐めた。

「みんなヒドいわよ。あたしが悪いことばっかりしてるって思い込んでるの。あたしはただ自分の好きなようにやってるだけなのに。神様はあたしが嫌いなのかしら? あたしきっと不幸の星に生まれたのね。かわいそうなボニー、とってもかわいいボニー」

わたしのピザを横取りしてしまったボニーの、ゆううつな横顔。口紅とトマトソースが混ざってほんとうにおいしそう。わたしは心からおもってる。ねえ、わたしにしなよボニー。わたしさ、あなたのこと大好きなのよ。かわいそうなボニー、とってもかわいいボニー、大好きなボニー。ぜんぶアンタの好きにさせてあげるし言うことだってなんでも聞くわ。キアヌになれっていうんなら整形して銃弾を避けてエクソシストになって愛犬のために人を殺すわよ。ねえボニー。わたしなら、あなたを悲しませたりしないのに。


「ねえ聞いてンの、ブギーマン」





カシスソーダの爪先



「もう帰りぃや」


そう言いながら、ぱちん、と開けた煙草ケースの音に、鏡に映った彼女が眉を上げるのを見た。この言葉を彼女の背中に浴びせるのは何度目だろうか。彼女の指に引っかかったままのビューラーは、相変わらず、かしゃかしゃとうるさい。きっちり綺麗にあげられた長い睫毛がゆれる。草を丸めた紙をくちびるに突っ込んでいると、彼女とようやく視線がかち合った。

「言われなくても帰る。今日仕事だし」
「……すねた?」
「煙草やめろって」
「わかっとる」

こっちは、言われ慣れた言葉だ。尖端をライターであぶる過程を、嫌というほど凝視される。素知らぬふりで煙を喫めば、やがて、じっとしていた指がビューラ―を離してマスカラを手に取った。何度か出し入れされたその黒い毛虫のような先が、すらりと天に伸びた睫毛を塗り込めて行く様は、どこか彼女の零れる溜息を思い出させる。ベッドに腰をあずけながら、今度は自分の足の指先を見た。おととい仕上げたカシスソーダ色のネイルがすこし禿げかけている。ああ、お酒を飲みたい。昨日みたいな、頭にガツンと来る、強いお酒を。

「お前、今日仕事は」
「休み……、昨日言うたやろ」
「そうだっけ」

興味なさげに、睫毛をぱしぱし、される。繊細だった睫毛がしっかり太くなって、大きな瞳に覆いかぶさっていた。まぶたにほんのちょっとついたマスカラを眼を細めながら小指で拭っている。その爪の色は、カシスソーダだった。

「次……いつ?」
「いつでも。どうせいっつも暇やしな」
「じゃあまた連絡する、けど。あのさお前、ちゃんとメール返せよ」
「あーちゃうねん、無視しとるわけやないで、めんどいだけや」
「うざ」

ふ、と、笑った唇に引かれた薄いピンクのルージュは、この前見たものとすこし違うようだった。好きなブランドが変わったのか、なんなのか。こうやってこの女はときおりまったく知らない顔をする。ファンデーションの上に乗ったチークは先月あたりからすこし変わった。あとアイラインが濃ゆくなったのは先週ぐらいだったろうか。まあどーでもいいんだけどそんなこと。

「じゃあ帰るわ。今何時?」
「7時半」

手首に巻き付けられた時計は、前とおなじ。よし、よし。よかった。彼女が悪魔の草ときらうそれを肺いっぱいに吸い込んでから、ゆったりと鞄を持ち上げて部屋を出て行く後姿についてゆく。ストッキングに包まれたほそい足首を確認しながら、まばたきをした。カーテンを通した薄い太陽だけのあかりが頼りなくもないのは、今が朝だからだろう。慣れた手つきで鍵を解除して、昨日履いて来た秋色のヒールを引っかける彼女のうなじに、静かに煙を吹きかけた。それに感付いた彼女がすぐに振り返り、心底いやそうに眼球を揺らす。

「…そういえばまた友達が結婚したんだけど」
「あーあ、ご愁傷様」
「わたしもう最悪、お前でもいいわ」

彼女はあたしの顔を眺めながら、吐き捨てるように、そう言った。そのままドアノブを捻り、さっさと身を捻らせて出て行く。最後の最後まで残っていた右手の指先の、カシスソーダ色が、ちらちらと心臓に突き刺さった。ああ、あたしほんと、アンタみたいな女がだいきらいや。







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