アップル・ピープル
彼女の家の冷蔵庫には、いつも林檎がふたつ、入っていた。
何故林檎を冷蔵庫に入れるの?と聞くと、
「だって、冷えた林檎は美味しいじゃない」
と、ふわりと微笑まれた。
その割に彼女は不器用で、うまく林檎が剥けず、皮にたくさん実を付けたまま生ごみを排出していた。
包丁の持ち方があんまり危なっかしいから、おちおち安心してもいられず、傍についていると、
「そんなんじゃ集中できないから、あっちいってて」
と、彼女は恥ずかしそうに答えた。めったに照れる事のない彼女の、貴重な表情だった。
ある日、彼女は包丁で指を切った。
ほらいわんこっちゃない、と、消毒液を含ませたティッシュでそれを拭ってあげていると、
「あんがい、包丁で人間の肉って、切れないものなのに」
と不満げに洩らされた。そんなことはない、牛肉も豚肉も鶏肉も、この包丁で捌かれている。
包丁は危ないから、君は遣わない方がいいよと忠告しながら、カットバンを張ってやった。
その日から僕が、林檎を剥くようになった。彼女はひどく落ち込んでいた。
林檎の皮剥き以外はなんでもできる彼女の、唯一の汚点だったのかもしれない。
冷蔵庫の林檎は、ひとつ減ればひとつ足すというリズムで保持されていた。
だけどもある朝何気なく、彼女の家に行くと、冷蔵庫からふたつの林檎が消えていた。
こんなことは珍しかったので、僕は稀に見る動揺っぷりを見せた後、慌てて家を探った。
彼女はどこにもいなかった。
もう一度冷蔵庫を開けても、林檎はどこにもなかった。
マヨネーズやお茶、しなびたレタスはそこにあったのに、真っ赤な林檎だけがなかった。
僕はそれが心底哀しくて、辛くて、切なかった。
衝動的に包丁を手に取って、左の手首にその刃を当て、強く押し付けて引っ張ると、
まるで猫が引っ掻いたみたいな、うすいうすい切り傷ができた。
僕の予想していたものとは違う。僕はもっと、血が出るように、切ったのに。
僕はそこでようやく、彼女が、包丁であんがい人間の肉は切れないと言った事を思い出した。
キッチンにへたりこんだ僕を慰めるみたいに、冷蔵庫が電気を操って呻く。
ゴミ箱には、実のたくさんついた、不器用に剥かれた林檎の皮がたくさん、詰め込まれていた。
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浮気症のシンデレラ
あたしがする呼吸なんて、あなたのする呼吸とはぜんぜん違う。あなたはこんな街にいるくせに穢れもしないで、ふんわりした毛先を風に踊らせていた。生きている意味だって知らないような、どうしようもないあたしの声を聞きながら、うとうとと船を漕いでいる。
あたしはあなたの好きな、「シンデレラ」のお話を読んであげていた。ひょろひょろと背の高いあなただけれど、頭の中はいつも可愛い女の子みたいなことばっかり考えていて、童話が大好き。特にシンデレラは、お気に入りだった。あたしはそれについて一度、あなたに聞いたことがある。
「ねえ、なんで、シンデレラが好きなの?」
「んー?」
「シンデレラは、ほんとは残酷なのよ。グリム童話ではね」
「そうなの? 知らなかったなあ」
「ねえ、どうして?」
「どうしてって、ねえ、お前はどうして僕が好きなの?」
質問してるのはあたしだっていうのに、あなたは平然と笑いながら返してきた。だけどあなたは変な人だし、こうやって質問を返してくることだって少なくないから、あたしも面喰わずにううんと唸る。
「理由なんか忘れたわ。だってあたしとあなたが出逢ったのは、もうずっと前だもん」
「僕もいっしょ。僕とシンデレラが出逢ったのは、もうずっと前だから、忘れちゃったんだ」
それとこれとは別じゃない! って、普通の女の子だったら思うんだろうけど、あたしとあなたの間にはそんな“普通”なんか存在しなかった。普通じゃないって、とってもすてき。
12時の鐘が鳴って、シンデレラの魔法が解けてしまったころ、あなたは小さな一人掛けソファの上で、くるりと丸まったネコのように眠ってしまった。その傍に座り込んでいたあたしは、白い絨毯を指でなぞりながら、そっと絵本をたたむ。物語はこれからだっていうのに、あなたは関係なく、眠り姫ごっこに集中し始めたのだ。時折、上から降り注ぐ寝息が、あたしの耳を甘やかしてくれる。あなたが眠り姫なら、あたしがキスをすれば起きてくれるのかしら。
(ううんきっと起きないわ、だって、あたしはあなたの王子様なんかじゃない。)
あなたは眠り姫のお話が、あんまり好きじゃないんだって、昔に一度言っていた。眠り姫はただただ不幸に生まれたけれど、ずうっと眠っていただけ。王子様がいなくちゃ、なんにもできない。衰えることのない美貌の中で、茨を飼い馴らして呼吸をしていただけなんだ。そんなの人間じゃない、そんなのおかしいって、あなたは少し、怒ってた。
そんならシンデレラだって、魔法使いがいなくちゃなんにもできなかったじゃないって、あたしは思ったんだけど、確かに惰眠を貪っていた眠り姫より苦労はしてるし、何より自分の意志と勇気で、舞踏会に足を踏み入れた。そこが眠り姫とは違うのかなあって、ひとりで納得するあたし。
音の無い時計の針が、あなたを起こさないように、静かに動いた。時刻は夜の12時。魔法はどろどろ解けて、シンデレラは煌びやかなドレスから粗末な洋服に、美しい馬はネズミに戻る。あなたは寝静まっていて、魔法が解けただなんて少しも感じさせなかった。
どうやら、あなたが眠り姫じゃなくシンデレラだったとしても、あたしはあなたの王子様なんかじゃないみたい。あたしは、あなたのためのカボチャの馬車。魔法が解けたら、ただのカボチャに戻ってしまうのよ。
ソファの傍から立ち上がったわたしは、なんでもないように些細な伸びをして、シンデレラの絵本を本棚に仕舞った。もうそろそろカボチャも美味しい季節ね。秋がすぐそこまで来てる。お伽話の中にいるみたいに端正なあなたとお別れをして、あたしはゆっくり、玄関へと向かった。
「さようならよ、シンデレラ」
カボチャのあたしは、何の痕跡も残さないようにして、シンデレラの家を去る。呼吸さえも見逃さないように、慎重に。もうあたしも眠る時間。明日の朝には、いつものように、王子様があなたを迎えに来るわ。あなたにぴったりの、ガラスの靴を持ってね。だからあたしは、王子様に気がつかれないように、そっとあなたを置いて行く。長い間、本当に長い間、あなたはあたしだけのシンデレラだった。でももう、もう、いいの。
(ああ残酷な、グリム童話!)
うつうつ、うそつき。
ポケットから偶然零れ落ちたキャンディを拾うみたいに、涙を拭った。自然に見せようとして、あんまり乱雑にしたものだから、瞼の上が、すこしひりひりと痛む。東から吹く秋風がそれに沁みて、余計に鼻の奥がつんとした。立ち竦むベランダの端に溜まった煙草の吸殻は、見るたびに情けなくて、ぼんやりとした視界が色彩を転がす。ああどうしてこんなにも、人生って、面倒なんだろう。息をするってだけで、体が重くって、そのまま投げ出してしまいそうだ。日がな一日ベッドに転がって、なんでもないことを考えながら、柔軟剤のにおいが微かに残る枕に耳を押し付けると、ピアスのキャッチが、頬骨を押しつけてくる。それが僕の、日常だった。5つもある穴にはそれぞれ、種類の違うピアスが刺さっているのに、どれも思い入れがない。人から何かを貰う事なんて滅多になかった。
「アンタは生きるのがへたくそね」
いつの間にか、カーテンを開けて後ろに立っていた彼女が、唇の端を赤く滲ませながら呻いた。彼女の大好きなトマトチーズピザは、僕が大嫌いな食べ物だ。それを知っていながら、玄関のポストに入っていたピザ屋のチラシを見ながら携帯のボタンを押して、バカみたいにひとりですべてをたいらげた彼女は、トマトソースを舌で舐めながら、裸足でベランダに出てくる。白くて皮の薄い足からは、青い血管が透けて見えていた。ひたひたと、冷たいコンクリートを歩いて、ベランダの隅のサボテンを覗きこむ。
「アタシ、あんたが浮気してたこと、知ってたよ」
「・・・うそ、なんで」
「女の勘・・・って、いうか、あんたがいっぱい自分でヒント、くれたんじゃん」
「あげてるつもりなかったけど」
「ベッドの上ではみんな素直なもんよ、いつも卑屈なアンタもでもさ」
放浪者の姉から、誕生日にもらった小さな小さなサボテンは、春になると黄色くて可愛らしい花を咲かす。去年あたりは見事に美しい花弁を見せてくれたものだけれど、そういえば今年は、このサボテンの様子なんてろくに見ていなかった気がする。毎日が気だるくて、煙草の煙に塗れるように、視界がかすんでいた日々。終止符を打つタイミングなんか少しもわからない。昨日の夜にたっぷりと酒を飲んで以来、何を食べる気もしない胃が、アルコールにもたれてぐるぐると回っていた。
「ねえ、このサボテン、痩せてる。もうダメなんじゃない?」
「サボテンはそんなもんだよ」
「それ偏見でしょ。うちのサボテンは丈夫に育ってるわ」
「お前のサボテンって、がっつり育ってて、気持ち悪いよね」
「がっつり育って何が悪いの? 生き物なんて、みんな必死で生きてんでしょ」
だから、と彼女が言う。
「死ぬとかさ、簡単に言わない方がいいわ」
必死になることが、難しい僕には、すこしも理解できない言葉だった。生きてたらなんとかなるだとか、生きてないと意味がないとか、そんな陳腐で安っぽい言葉で慰められても、このバカみたいにゲロくさい心は微動だにしない。卑屈に卑屈が重なって、ホームレスの嘔吐物以下の汚さを持った僕という生き物が、そこのある小さなサボテンより価値があるだなんて思えなかった。思考ばかりが脳内を跳ねまわり、嬉しい過去を押しのけて、つらい出来事を浮き彫りにする。煙草が眼に沁みて、また、涙が出そうになっていた。
「アンタさ、死んだら楽になれるって、誰が言ったのよ。死んだらひっどい世界かもしれないわよ。死ぬほど働かせられるかもしんないし、あ、ねえ、無だったらどうする? なにもないの。眠れないし、食べられないし、もちろん死ぬこともできないで、何もない部屋でひとり、ずうっと、長い時間を過ごさなきゃならなかったら。知らないでしょ、アンタ、向こうの事なんてさ」
サボテンに飽きた彼女がゆっくり、こちらに近寄ってきた。ベランダの柵に腕を引っかけている僕の横に来て、まっすぐに僕を見つめる。零れ落ちそうなほど大きな瞳は真っ暗で、見つめ返す事ができなかった。僕は彼女と眼を合わすのが苦手なのだ。何を考えているのか解らない眼。自分でも気がつかないような、何かとんでもないことを見透かされているような気がして、僕は空を仰ぐ。
「お前だって、知らないだろ」
「知らないから、想像するのよ。得意分野でしょ、作家さん」
「その言い方やめろって」
「アタシはアンタのそういう、自分嫌いなとこだって好きだわ」
恨めしい想いや、どろりとしたなんともいえない感情が押し寄せて、思わず彼女を見た。人間として尊敬するべきところはたくさんあったのに、どうして僕らは、想いを交差させられなかったのか。その原因は僕にあるのだけれど、それでも、彼女はストレートで暴力的な愛を、遠慮なく僕にぶちまけてくる。わかっていながら、その優しさに遠慮もせず甘えていたのは、僕という人間の弱さの為だった。
「そんな顔しないでよ、わかってる、やり直したいなんて言わないから」
彼女はそっと、僕の肩に額を寄せた。僕が抱えきれなかった痛みや苦しみを、なんとかしようとしてくれた彼女への感謝は、謝罪としてでしか言葉にならない。何度も何度も、呟くように謝りながら、彼女の細い肩を抱きしめた。優しい彼女はされるがままに、空気を吸いこんでいる。
「生きるのって面倒だけど、死後の世界が楽じゃないなら、死なない方がマシなのかもね」
ひとりごとのようにぽつりと、彼女の耳元に向けてそう呟くと、彼女はまるで素敵なものを見つけた子供のように微笑む。ほんのすこし、トマトのにおいがした。きっと僕はトマトソースを舐めるたびに、彼女を思い出すのだろうと、ぼんやりおもった。
八重歯とヴァンパイア
「自分でさあ、解かってる事をさあ、いちいち人に言われると腹が立つじゃん。僕はお前のこと嫌いじゃないけど、お前のそうゆうところが大嫌い。早く、死ねよって思う。でもお前が死んだらたぶん僕、駄目。駄目ってどうゆう駄目なのかわかんねえけど、駄目なんだよ。昔からそうなんだよな。好きになればなるほど、嫌いになるんだよ僕。好きだから、色々気に入らなくって、胸糞悪くて、文句言いたくなる。んでも、文句言ったらお前に傷が付くだろ。それは嫌。さっきさりげなく言ったけど、お前の事好きだから嫌いなんだって、僕は言いたいわけ。わかる? 僕と付き合ってよ」千葉は軽い口調で続けていたけれど、その顔はいやに真剣だった。あたしはいつもそういう千葉を見ていたし、千葉が真剣な顔するときは、嘘を吐いてるって知ってる。本当にばかばかしいから何にも言わないでおこうと思ってたけど、やっぱりあたしは口を開いていた。指先に髪の毛を絡めていた千葉があたしの口元に注目する。最近真っ黒に染めなおした千葉の髪の毛は、ごわごわでぱさぱさでむかつくけど、なんだかんだでいつもいい匂いがしていた。女の子が使うみたいな、甘いフルーツの香りがするワックスを愛用している証拠だった。開いた割に、口は一向に音を出さない。千葉が眉を寄せた。「う、」あたしはそれだけを言った。「あいうえお」の中にある「う」じゃなくって、呻くみたいな、言葉にならない言葉。千葉が先に音を出した。「どっちだよ」しょうがないので、精一杯口を開いた。そんで、「セックスの後に言う言葉やないわ」と小さな声で言ってあげる。千葉が笑った。本当に、おかしそうに笑っているから、唇の端から八重歯が飛び出す。吸血鬼みたいだ。千葉はいつも、バンパイアの顔をしていた。獲物を狙うみたいな鋭い眼で、あたしを眺めて、いつ噛みついてもおかしくないってぐらいに闘志をむき出しにする。腹が立った。どうしようもないくらいむかついた。くだらない生き方しか出来ないあたしをこうやって甘やかすから、あたしは千葉の胸板を思い切り殴ってやる。「あたしが嫌いなんやったら、こんなんせんといて欲しい。わかっとる癖に。なんでいっつもあんたはあたしを苦しめるん。いっつもしんどいねん。あんたのセックスは乱暴やし気持ちようないしほんま、へったくそ過ぎて欠伸が出る・・・」言葉が消えてゆくのを感じてしまって、あたしは俯いた。声が震えてしまう。これ以上あたしを苦しめるようならもう、いっそのこと本当にバンパイアになって人間界から出ていって欲しい。千葉が、自分の胸板にそっと手を当てていた。そうしてしばらく静かにしていたけれど、やがて思い出したように顔を上げた。「そうだ、僕と結婚しろよ。そうすればきっとさ、お前が満足できるようなセックスしてやるから。なあ、お前さ、なんで八重歯抜いたの?」話に脈絡が無くなってきた。とうとう頭が可笑しくなったんだ、千葉はもう人間じゃなくなるんだ、このまま寝たらきっと横には、セックスの下手なバンパイアが眠ってる。そんであたしを見て、本当は血が嫌いだけど好きなんだって笑うんだ。うっとうしい。「やえ、一緒になろうって」あたしの名前を馴れ馴れしく呼んでくる千葉の眼は、真っ赤になってゆく。いつかこうして横になっても、もう二人は一緒になんか居られない。「あたしは、吸血鬼やなくなった。やから、もうあんたとは一緒におれへん」「きゅうけつき?」「八重歯は勝手に抜けてもうたんや」「やえ、」「もう疲れたねん」「僕が吸血鬼や言うんか」千葉の言葉が変わった。あたしは顔を上げた。千葉は泣いていた。真っ赤になってしまった眼を大きな手で必死に擦って、溢れる涙を拭っている。あたしはやっと、千葉の瞳を見た。「なあやえ、僕が悪かったわ。もう、背伸びせえへんから。お前のこと嫌いなんて嘘や、好きや、好きでたまらんねん」あたしを手にいれたがる吸血鬼は、不器用な腕で、力いっぱいあたしを抱きしめた。「・・・最初から言うてえな、それが聞きたかってん」震える背中に、あたしはそうっと噛みつく。
さよなら
沈黙が痛かった。だからわたしは黙って、対して気にもならない左指の爪の先をずっと擦っている。目のやり場がないって、きっと本当はこういう状況のことを言うんだ。じりじりと時間だけが過ぎる音がして、わたしの瞬きでさえもぱちりと大きく鳴いた。そうすればやっとのことで彼は唇に当てた指先を離し、「そう・・・」とだけ言う。あれそれだけ、と思った瞬間、「うーん」という長い長い呻きが空間を支配した。まだ考え足りなかったのかな、この人はいつもいつも考えているから。そう思って上げかけた視線をまた爪の先に落とすと、彼が話を始めた。「いや、うん。そうか・・・あのね、僕はなんとなく、君がそんな気持ちでいることは気がついてたよ。でも、まさか、こういう事になるとは・・・思ってなかった・・・」帽子を被ったままで、その上俯いているもんだから、彼の表情はわからない。ただ、その指先はまだ考え込むようにちらちらと動いていた。癖だ。彼の、癖。いろいろ思うところはあったけど、あえて何も言わないでいようと口をつぐむと、彼はまたぽつぽつと話し出した。「残念、だなあ・・・すごく残念だ。だって君は、もっともっと・・・ううん、君の考えはしょうがないと思うよ、引き留めて困らせようなんて別に思ってない。でもね、僕は、残念だと思ってるんだ」そこで彼は足を組み換え、また視線を宙に浮かせた。まだ考えている。どこまでもどこまでも考えている。わたしはとうとう居た堪れなくなって、唇を開けた。「わたしは・・・ばかだから、貴方の気持ちを理解できなかったし、自分の事だってロクにできなくなってしまった。もちろんそれは貴方の所為じゃなくて、わたしの所為なんだけど、やっぱりわたしは貴方とは合わないんじゃないかと思うの、それはわたしがばかだからなんだけど」相変わらず言いたいことがうまくまとまらないわたしは、言いながらわたしはなにを言っているんだろうと思った。そんなのただの言い訳で、本当は、ただ貴方から解放されたいって思ってるだけなのに。それを言えれば苦労しないんだけど。それでも、わたしが自分で考えた結論は、絶対に真っ向から否定されると覚悟していた分、拍子抜けしたところもある。彼はようやく少しだけ顔をあげて、ずれた眼鏡をさりげなく押し上げた。そうして、わたしの足元に視線を注ぎながらまた小さく唸る。「うーん、でもね。僕は、君が思うより君はバカじゃないと思うんだ。君はずいぶん自分を卑下しているみたいだけど、君は賢い人だよ。僕は、いろんな人を見てきた。だから、人を見る目だけはあると自負してんの。だからこそ、残念だなあって思って」そこまで言って、彼は体を捻った。「でも僕の所為でもあるよ。君をそこまで追い詰めてしまうような環境を作ってしまったのは僕だから。君がずるずるとマイナスの方へ引き摺られているのを見ていて、優しく引き上げるよりも言葉でしっかり叱責したほうがいいと思ったんだ。だからあんなことを言った。君がそういう風に理解してしまう事までは考えてなかったけど。はやくなんとかするべきだったな。ほんと、後悔してる」テーブルの上に散らばった書類の上に手を置く気にはなれなくて、ただずっと膝の上で、爪の先を拭っているわたしに、彼が視線を注ぐ気配がした。わたしはどうしようもなくて、視線を返すこともない。「でもやっぱり残念だ。この間まで僕は本当に切羽詰まっていて、他のことに気が回らなくて、あまりにもばたばたしてしまった。それが君を委縮させて、怖がらせてしまったんだろうね。たいがい君は臆病者なんだろうから」怒っているのか、ただ自論を語っているのか、さっぱりわからない。わたしは爪を擦るのをやめて、冷たい指先を太腿の下に滑り込ませた。部屋が寒い。羽織った上着は、わたしの行動を制限させた。「君が優しいのかなんなのかはわからないけど、もっとドライに生きるべきだよ。僕のようにね。周りに引き摺られてしまった分は、自分じゃ気がつかない事が多いし。感情って伝染するんだよ。誰かが緊張すれば、それが周りに伝わって緊張感になるでしょ。それと同じ」そんな台詞を聞きながら、彼は本当に頭の良い人だけど、わたしが何を不服に思ってもおそらく根本からは理解できないのだろうなとぼんやり思った。部屋が寒いね、とだけ呟いて彼は席を立ち、エアコンのスイッチを入れる。ぶーん、と音を立てて動き始めたエアコンは、このかちかちに固まった空気をほんの少しだけ柔らかくした。「心が折れちゃったんだね。そうでしょ? ・・・いつからそんな風に思ってたの?」疑問詞が投げかけられたことに気がついたわたしは、はっと顔をあげて彼の顔をみた。彼は真顔だった。思わず唇を噛み、視線を逸らしてしまう。「・・・2週間くらい前に、決めた。考えてたのは、もっと前だけど」「ふうん・・・そんなに前だったのか。様子が変だなあとは、思ったんだけど」彼はわたしから視線を逸らせて、椅子に深く腰掛けた。背もたれにぐっと体重を預けて、だらしのない格好で唇を突き出している。「前はそんなんじゃなかったよ、君。もっとハッキリしてたし、雰囲気も良かった。でも変わっちゃったんだよね、マイナスに当てられてさ。こう、もやもやしたものがあるとするじゃん。それはみんな持ってるもんなんだよ。でもあるきっかけで、それがふっと重くなる。今までどうでもよかった疑問や不自然を引っ張り出して、考え込みはじめる。それが君にあった出来事なんだね。さすがに僕も、このタイミングでそう来るとは思ってなかったけど」じわじわとあたたかくなり始めた部屋に、また固い風が吹き始めた。わたしはテーブルに乱雑に並んだ書類の文字列を、意識もせずに読んでいく。彼はおもむろにポケットからフリスクを取りだして、幾粒か口に放り込んだ。「みんな気がついてたんだよ。君の異様な雰囲気にはね。でもそれをカバーするだけの環境がなかったから、こうなった。いや、もう今更言っても仕方ないんだけど。たとえば誰かがそういう気持ちになったとき、それを乗り越えるだけの力と環境がいるんだ。そして乗り越えれば達成感や爽快感がある。でも君の場合はそれがなかった。それってとても怖いことだよ。とっても怖いことだ」彼は繰り返した。腕を組んで、また考え込むように視線を下げている。「今まではそういった波乱がなかったんだ。割と平凡にやってたし、ごちゃごちゃすることもあったけど、なんとか乗り越えられた。でも今回のはちょっと複雑で、僕もいっぱいいっぱいだった。そのマイナスをどうにかするっていうことは、僕自身でやらなくちゃいけなかったんだ。誰かに任すべきじゃなかった。それがきっとダメだったんだ、それに、」淡々と話をしていた彼がふと停まった。がりがり、とフリスクが砕ける音がしたあと、彼の声がぽろりと零れる。「いや、今となっては別にこんなこと、どうだっていい・・・何が言いたいんだろう、俺」最後の方でほんの小さく呟かれたのは、初めて聞く彼の弱々しい本音。反射的に顔をあげると、彼は視線を落としたまま、深く深く帽子を被っていた。なんにもわからない、表情。わたしは彼を見ていたけれど、彼は、さっきのわたしのように、あえてわたしのほうを見なかった。「残念だよ、すごく・・・残念だ・・・」エアコンが空気も読まずに音を荒げた。彼の小さな声は一瞬、訊きとれなくなる。それを見計らったかのようにわたしの喉に押し寄せた不快感は、咳となって口から飛び出た。わたしが咳をしている間、彼はずっと黙って、静かに音を聴いている。しばらくして、彼は自分の携帯に手を伸ばした。時間を確認して、立ち上がる。「もう行かなきゃ。ダブルブッキングだったんだ、今日」「あ、ごめん・・・くだらない話で長くなっちゃって」「いや、大事な話だよ」腕時計を見れば、もうすでに時間は迫っていた。わたしも帰らなくてはと思い立ち上がりかけると、彼はふとわたしと目を合わせる。帽子の下の眼鏡に覆われた目は、ぱちりと瞬きをした。「・・・髪切った?」「あ、うん、前髪だけ」「ふーん・・・感じ変わったね」彼は少しだけ笑った。久しぶりに見る笑顔だった。
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