冬をいっしょに
がつんがつんと、鉄でできたゴミ箱の角が地面に当たる音がする あたしはそっとくちびるに鼻歌を乗せながら焼却炉に向かっていた スカートの下のタイツはデニールをずいぶん濃くしているから寒くない だけど鼻のあたまが風にさらされていて肩がすくんでしまう こんなにも寒い冬をどうして神様はおつくりになられたんでしょう? あたしは春が好きである
適当な鼻歌が「さくら」に変わったとき 焼却炉の鉄のかんぬきを引っ張っている後姿をみつけた 肩の上でざっくりと切りそろえられた髪の毛 しろい首筋がぼうと浮かんでいる
れもんちゃん 声をかけるとれもんちゃんは振り返った
いちごちゃん れもんちゃんは目を細めてくれる
さむいね
うんすごくさむい
ゴミ捨てた?
これから…、
れもんちゃんはまばらになった前髪の間から困ったように寄る眉毛を覗かせる あたしたちの髪の毛を揺らした風がれもんちゃんのせっけんの香りを運んできてくれて あたしの鼻はちょっと敏感にひくひくと動く
あのねいちごちゃん、かんぬきが抜けないんだ
かんぬき、これ?
これが抜けないと開かないよ、焼却炉
燃やせないね
うん…おとこのこ、呼んでこようかなあ
れもんちゃんが おとこのこ というのはひどくめずらしいことだった あたしが言うのもなんだけど れもんちゃんはあんまり おとこのこと会話をしたりしない たいていあたしと一緒にいるから会話をする必要なんてないのだ
でもあたしはおとこのことお話をする そのとき遠くのほうからあたしを見てるれもんちゃんはとてつもなくかわいいの これは誰にも言ってない秘密 (誰にも知られたくない秘密)
ねえヘンゼルとグレーテルをおもいだすわ
あ、かまど?
うん。グレーテルが魔女をこのなかに突き飛ばすの
そう言いながらあたしはかんぬきの向こう側を覗きこむ ふるい焼却炉のサビがかんぬきを護るみたいに絡みついていた そしてそれと一緒に かんぬきを縛る鎖をみつける
あのねれもんちゃん、かんぬきはね、こうして鎖で繋がってるのよ
あ!、ほんとうだ
これをこうやってはずして、あとでまたちゃんと戻すの
あたしはサビついた鉄のかんぬきに重なるぴかぴかの鎖を指でひっぱった 簡単にからからとほどけてしまう これはいったいなんのためにしてるのかしら れもんちゃんを困らせて悪い子ね
鉄のドアの向こうにゴミ箱のお口を開けさせて 揺さぶる からっぽになったゴミ箱に見向きもしないで れもんちゃんはドアを閉めてしまった
あたしたちのゴミのなかに魔女はいたかしら?
…、いるかもしれないから封印しようよ
れもんちゃんはそう言ってすこしわらいながら 簡単にかんぬきと鎖とドアを結び付けた
魔女は出てこれなくなったわね
いちごちゃんが怖くて泣きださないようにね
泣いたりしないわよ!
ふふふ、本当かなあ
本当よ、あたし、魔女なんかこわくないわ
たのもしいね。グレーテルみたい。
あたしがグレーテルなられもんちゃんはヘンゼルなのかな だったらちゃんと助けてあげなくちゃ あたしはあなたの為に魔女を真っ赤なかまどに突き落とすの そして檻の中で震えているれもんちゃんにかけよって もう魔女はいないわって慰めてあげるのね
すてき
あたしはぽろりとその言葉を零した いつの間にかあたしのゴミ箱も持ってくれていたれもんちゃんはふと振り返って 不思議そうにあたしの顔を覗きこむ きりりとした二重まぶたがおおきな瞳を覆い隠してしまう前に あたしはその瞳に笑顔を放り込んだ
すてきよ、れもんちゃん。あまいお菓子のお家でふたりで暮らせるわ
あたしとれもんちゃんは冷たい指先をどちらともなく引き寄せて おたがいの体温をわけあいながら校舎へと足をすすめる
ねえ春になったらさくらを見に行こうよ
え!、びっくりしたわ
…なにが?
あたしも今、そう言おうとおもってたの
…ふふふ。わたしたち一緒だね
一緒だね、と笑ったれもんちゃんの頬があかくなっていた たぶん寒さのせいもあるんだけど そうじゃないってあたしは自分を喜ばせる 手をつなぎながらあたしが「さくら」を口ずさむとれもんちゃんもそれをまねっこした ああわかったわ神様、あなたが冬をおつくりになった理由!
PR
サイキョーラブソング・ヒストリー
「ごめん。付き合えない」
あたまのなかがまっしろになった。
ついさっきまで甘ったるい空気が充満していたあたしの外側で、折りたたんだ足を抱きしめる手が、ぎゅっと汗をかく。うっすらと明るくなり始めている空が冷たく見下ろしていた。ちょっと。ちょっと待ってよ。あれおかしいな。どこで間違えたんだっけ。今日はいつもどおりだった。バンド練習が終わったあと、ギターを背負ってサブローのアトリエに行き、彼が絵を描く背中を眺めて、無性にいとおしくなって抱きしめて、そんで絵の具に塗れたセックスをした。朝になって、脱げかけたTシャツから出た肩が寒くって眼を開けると、横にはサブローがすやすやと眠っている。かわいい寝顔をしていた。眉毛のあたりに赤い絵の具がへばりついて、固まっている。サブローは誰に何をやられても自分から眼を開けるまで起きないとしっているあたしは、その絵の具をそっと爪の先ではがしてやった。しあわせだった。古いベッドの横にはサブローの絵がたくさん散らばっていて、まるであたしたちは溺れてるみたいだ。しばらくしてサブローが瞼をこすりながらあたしの腕を引っ張ったので、あたしはそうして、「ねえ、このままでいいから付き合おうよ」なんて、とてもとても軽々しく、それでも本当に気持ちを込めてそう言った。サブローは眠たそうな瞬きを何度かしてから、「何でそんなこと言うの」と言った。
あたしは慌ててあやまりながら顔をそむけて、ベッドからそそくさと退出する。パンツとTシャツだけで眠っていたので、足の先まで冷え切っていた。サブローが厚紙に鉛筆でがりがりと描いた「らくがき」の上に、乱雑に黒いタイツが放ってあったから、それを取りあげてつんのめりそうになりながら足を通す。ショートパンツを穿いてから、サブローの迎えを催促した。サブローはぐずりながらもベッドを出て、ダウンジャケットを羽織りながら先にアトリエを出て行ってしまう。外はひどく寒かったので、サブローの車の窓に霜が張り付いていた。
あたしの家に着くと、サブローは、そう言った。確かに、言った。なんだか急に心臓が冷え切って、あああたしとんでもないことを言ってしまった、と鼓動が絶叫する。「そ、そうだよね、ごめん、ごめん、変な事言った、ほんと忘れて!」あたしは大げさに両手を振り、ぶらぶらと足を揺らした。サブローは、小さな声で、「ごめん」と呟く。
「えっえっなんで謝るの、ね、さっきのなかったことにしよ、ね、何も変わらないでしょ」
「・・・うん」
「あの・・・・・・ね、あたし、勘違いしちゃった! サブローのアトリエに入れてもらえるようになったから、あたし、もう彼女みたいな存在になれるのかなーなんて、なんか、ひとりで舞い上がっちゃって・・・、」
喉の奥が、きりりと締めあげられるような、そんな痛みに襲われた。足の爪先が、うすいタイツの向こうから透けている。遠くの方から、朝早く犬の散歩をするおじさんが歩いてきていて、あたしとサブローを物珍しそうに見ていた。「チバちゃんが」サブローが不意に声を出す。「チバちゃんが僕のこと好きなの、知ってたから。知ってたから、アトリエに入れてあげたり、ちょっと特別扱い、みたいなのしてあげると、喜ぶとおもった」そういう、やさしさだったんだ。サブローは言った。そのころのあたしは、ついさっき寝たばっかりなのにビープ音が鳴り響いて本当にうるさい、みたいなそんな感覚を口の中いっぱいに溜めこんでいて、もういてもたってもいられないから、ぐっとそれを呑み込んでいる最中だ。ああーそっかそっか優しさか! やさしさ! うん!やさしいもんねサブロー。
「ああね! そっかそっか! なるほどお、なるほどね! あー、でもどうだろ、その優しさはー、ちょっと、いらないかな!?」
「そう、だよね。ごめんね」
「あーだから謝るの無し、ていうかあたしが悪いんだって、なーにひとりで勘違いしてんだよって感じだよねほんと、あーごめん、ごめ・・・ん、」
鼻を抜けるような声が出た。これ以上涙腺を刺激するようなことをしたら、あたし、ほんと、ないちゃう。そんなことを思いながら何気なく外に眼を向けると、ぼろぼろって、ほっぺたに何かが零れ落ちてしまった。きゃああ。うそー、うそあたし泣いちゃったの。
「な、なんかさあ。ごめんね、あたし、こんな話するべきじゃなかったよね」
「・・・うん」
「言わない方がよかったね」
「うん」
「・・・言うつもりじゃなかった」
「うん」
「・・・、泣くつもりでも、なかった」
ずる、と鼻をすすると、サブローが動く気配を感じた。膝の上に、ふわりとティッシュの束が乗る。やわらかくてしろくて、羽みたいなティッシュ。あたしは慌ててそれを掴むと、サブローに顔をそむけたまま、ティッシュを突き返した。
「や、ごめん、要らないよお! だいじょうぶだいじょうぶ、そんなに泣いてないから!」
「でも、」
「ほんと大丈夫。はは、もう朝だねー、帰れって話だよね、なんか人見てたし、あは、恥ずかしいねえ」
あたしの乾ききった笑い声が、車の中に響いていた。サブローは居心地が悪いんだろうな。はやく帰って二度寝したいって思っているんだろうな。ね。そうだよね。サブロー。
「サブロー・・・、」
あたしのこと、すきじゃないんだね。
サブローがまた、謝った。あたしはむせび泣きながら喉を震わせながら、よく考えたら恋愛で泣いたのってはじめてだ、とどうでもいいことをおもう。次から次へと、溜まったものが出て行くみたいに、めだまが海に溺れていった。セックスをする前に、あたしの黒いタイツに包まれた足を見ながら、サブローが「チバちゃんあんがい細いんだね」と言ってくれたの、地味にうれしかったなあ。でも最近甘いもの結構食べちゃって、太ったんだよねえ。サブローは本当に細いから、わからないんでしょ、こんな気持ち。ねえあたし、サブローの絵、実はあんまり好きじゃないんだ。ごめんね。でもサブローが絵を描いてる瞬間がとても、すきなの。その空気感がたまらなく狂おしいの。サブローの絵はリアリティがありすぎてあんまりおもしろくないんだよ、あたしはどっちかというと抽象的なのが好きだからさ。でもサブローは好き。サブローが好きなの。サブロー、サブロー。
「サブロー、」
「うん?」
「ごめんね」
「僕もごめん」
「なんで?」
「チバちゃんのこと好きになれなくて」
「それは謝ることじゃないって」
「チバちゃんとは仲の良い友達でいたいんだ」
「それってこれからも一緒にいるってこと?」
「いてもいいかな」
「あたしに訊くの、ははは」
「チバちゃんは気まぐれだよ」
「そんなことないとおもうけど」
「他の男とも寝てるくせに」
「・・・寝てないよ」
「うそばっかり」
「ほんと」
「僕は嘘吐かれるのが一番きらいだ」
「ほんとうなの信じてよ」
「・・・なんで」
サブローは冷たい声で空間を落とした。さっきから停まる気配のない涙が、くちびるの山を流れて、マフラーに吸い込まれてゆく。あたしは唾を呑み込んでから、「本当なの」と小さく言った。ほんとう。ほんとうだった。サブローと出逢ったときは確かに、フリーセックスに抵抗があんまり無くって、そもそもサブローとヤっちゃったのも初対面の日だったし、でもそう言うとサブローも軽いんじゃないのっておもうけど、まあそれは今どうでもよくて。とにかく、サブロー以外にも通っている家があったのだ。でも、あたしはサブローを好きになった。サブローのときおり見せる少年みたいな微笑み方や、絵を描く時の表情、好きな画集を滾々と眺めているときの目線、骨ばっていてかわいそうなぐらいの体、セックスしてるときの気持ち良さそうな声。ぜんぶだなんてそんな無責任な事言えないけど、ほんとに、好きなところがたくさん、あった。
でもあたしは不器用だった。破滅的に不器用で、素直になれなくて、うそばっかり、ついていた。本当は好きで、大好きでたまらないのに、あたしばっかり好きなんてずるい、あたしはあなたのこと好きなんかじゃない、って、変に意地を張って、他の男とも寝てますよって空気を出してたんだ。でも昔そうだったのは本当の話だし、今更こんな風に弁解しても、なんにもならないって、あたしはわかってた。それでもサブローのその冷たい声が、まるで氷みたいにゆっくり頭の先から爪先まで浸透してしまって、こわくてこわくて震えている。
「不器用なのが、素直になれないのが、気まぐれっていうの」
「そういうわけじゃないけど、チバちゃんは、たぶん明日にはまた違うことを言ってる」
「そんなことない」
「そんなことあるよ」
「あたしほんとに他の人なんかと寝てない」
「ほんとに?」
「ほんとだよ・・・でも軽い女の方が、サブローが、来てくれるとおもったから」
「僕は軽いわけじゃない。今も、こんな関係になってるのはチバちゃんだけだし」
やめてよ。あたしはその言葉をおもわず零しそうになりながら、そっと前のめりになった。心臓が痛くて破裂してしまいそう。つらい、とてもつらい。込み上げてくる感情をどうしたらよいかわからなくて、ただ泣いた。
「確かにチバちゃんは、いつ連絡しても来てくれたし、じゃあ他の子といつ逢ってるのかなあなんて思ってた、けど」
でもなんもかわらないんでしょ。あたしはまた鼻をすすって、ついに、ダッシュボードに置かれていたティッシュの箱に手を伸ばした。手触りもやわらかなそれは、鼻も瞼もぜんぶ優しく包んでくれる。そう、あたしが求めてるのは、こんな、さりげなくて寂しくない優しさなのにな。
「ねえ、人間としてさ、たぶん僕は、チバちゃんから離れるべきだよね」
「・・・そうなのかもしれないね」
「モラルに欠けることだとおもうけど」
「うん」
「僕はこれからもセックスしたいとおもってる」
「うん」
「だからどうしたらいいかわからない」
「もしあたしがセックスさせなくなったら、もう逢ってくれないの」
「・・・そうだね」
「そっか、ごめんね。わかってた。うん・・・わかった。また連絡してよ」
「うん、・・・チバちゃん」
こんなに僕の事を好きな人を、好きになれなくて、僕もつらいよ。
サブローはそんなことを言ったんだとおもう。でもあたしはただ呆然と泣いていたし、窓の外もすっかり明るくなって、自転車に乗ったサラリーマンや女子高生たちが傍を通り抜けて行くのを眺めていると、あたしが停まっても地球はまわるんだとどうしようもない現実を受け止める他になかった。あー、どこからまちがったんだろう。これ、ゲームならやり直せるのになあ。選択肢を間違えちゃったから、たぶん、バッドエンドになっちゃったんだろうなあ。サブローがこもった声で「もう帰りなよ」と言ったから、あたしはそうだねと笑った。
助手席のドアを開けて外に出てから、後部座席に回ってギターケースを引っ張りだした。それを肩にひっかけてから、マンションへの道を歩く。途中で走りだしたあたしの耳には、サブローの車が遠ざかっていく音が聴こえていた。走ると涙がなびいて、ほっぺたの濡れていなかった部分を汚す。これで顔面ぐちゃぐちゃ、メイクもぼろぼろ。泣きながらエレベーターのボタンを押して、ふと指先を見ると、塗ったばかりのオレンジのネイルが剥げてしまっていた。一生懸命塗ったのに。トップコートも綺麗にハケで塗ったのに。昨日まで綺麗に、あたしの指の上で、ギターの弦とも仲良くやっていたネイルだったのに。なんか、そうなんだよなああたし。ほんと、なんでか知らないけど、いつもそうなってしまう。
ああうまくいかない。ぜんぜん、うまくいかない。
部屋に飛び込むなり、靴も脱がないで玄関に崩れ落ちて、あたしは子供の様に大声をあげて泣いた。背中のギターは静かにあたしの鳴き声を訊いている。頭の中も顔もぜんぶがらがらに壊れてしまって、どうしようもない現実に、ひくついた喉が何度も何度もしゃくりあがった。
さんざん泣き喚いたあと、ひくひくと鼻を上下させながら、あたしはぎゅっとギターケースの端を握った。ああなんか今なら、今なら最強に切ない曲が書ける気がする。客が全員、さっきのあたしみたいにぼろぼろ泣いちゃうぐらいに、めちゃくちゃ哀しいラブソングが。ギターを掻き鳴らしたくてたまらない。弦が千切れて爪が割れるぐれーにピックで虐めまくって、史上最強の爆音と切なさを届けてやるんだ。そんであたしはステージの真ん中で絶叫しながら悲劇のヒロインを演じる。なんだ、サイッコーじゃん。サイッコーにサイテーで、サイキョーだ。あたしは最強だ。ああっ!なんか泣き過ぎてなんかテンション高くなっちゃった!今すぐ曲作ろう!作らなきゃだめだ! そんであたしはギターを引っ張りながら部屋の奥に引っ込んで、まっしろな楽譜とペンを握る。
オーサカ・シガー・ガール
彼女のスカートは、ひらひらと揺れていた。
うすい緑色のロングスカートをはきこなしている彼女は、あたしよりすこし背が高くて、もうすっかり半分まで侵食している黒が金色の毛先を際立たせている。就職活動が始まるから、この黒を伸ばすんだそうだ。一度色素を抜いてしまうと、黒染めが難しくなる。それでも、その身なりは個性的で、彼女らしいとぼんやりおもった。
ストイックな雰囲気の喫茶店に寄ったあたし達は、同じケーキを頼んだ。お互いに趣味が似通っているみたいだ。それでもあたしはキャラメルティーを頼んで、彼女は楽しそうにパッションフルーツ・スカッシュを指差す。そして、店員が去った後に、テーブルの端にある灰皿を指でそっと寄せた。バニラの香りがする煙草をうすい唇に加えながら、スマートフォンをすいすいと使いこなす指は、細くて美しい。すべてが芸術作品のようで、眼の前で彼女が息をしているということ自体が、あたしには信じがたい事実だった。やわらかな緊張が心臓をあたためて、すこし心地が良い。
「煙草、吸う?」
ころころと、転がるような声。ライターを失くしたあたしは、この機会に煙草をやめてしまおうだなんて生温いことを考えてはいたけれど、結局実行も出来ずに、先程から彼女のキャスターを減らし続けている。申し訳ない気持ちと、これから来るケーキへの敬意を込めて、首を振った。あたし達の隙間に漂う煙草のにおいだけで十分、あたしは満足できる。
しばらくして、ガトー・ショコラが運ばれてきた。濃いチョコレート色のケーキに、雪が降ったようなそれ。横には真っ白のホイップクリームとバニラアイスが添えられていて、あたしたちは揃って「アイスや!」と叫んだ。あたしのところにはあたたかいキャラメルティーが置かれ、彼女の傍にはスカッシュが並ぶ。割と珍しい「パッションフルーツ」をあしらっているそのジュースに興味を示した彼女は、ストローを折り曲げながら眼を輝かせた。煙草をくわえていた時と同じようにストローを含んで、ひとくち、飲む。
「・・・ねえ、」
「ん?」
「この味、なんやろう」
パッションフルーツの味、なんじゃないの。あたしはすこし笑って答える。すると彼女は「ちゃうねん、ちょっと、なんやろうこれ、飲んでみて!」と必死に訴えかけてきた。そうなる程のものだろうか、なんて笑いながら、それをひとくち頂く。口内に広がった味に、あたしはぱっと顔を上げた。
「お酒」
「えっ、」
一瞬の間を開けて、彼女はげらげらと笑った。その答えが欲しかったわけではないらしい。確かにカクテルみたいな味やけどな、と妙なフォローを入れられ、ああ失敗だ、と顔が赤くなる。だけども確かに覚えのある味で・・・、
「あー!! ピーチや!」
静かな喫茶店に、ぴんときた彼女の大声が響く。注意を促すよりも先に、「ああ!」とあたしも納得の声をあげてしまって、慌てて唇に手を当てた。周りはひとりで来ている女性や休憩中のサラリーマンしかいないので、二人組というだけでも注目が集まっているというのに。だけど彼女はそんなことにもお構いなしで、そうやそうや、と頷きながらもう一度、ジュースを飲んだ。
( 彼女の小説に出てくる女の子みたい、)
笑うと白い歯が零れて、自然な言葉遣いのうちに潜む感傷、指先まで包まれた情緒。ひとつひとつが物語みたいで、あたしの憧れた彼女、そのものだった。日常を“らしく”生きる、胸を張って、「これがあたしだ」って叫ぶ、その優しさを、あたしは欲しがっているのだ。
「ねえ・・・川上弘美、好き?」
「えっ、うん、なんで?」
「リカの文章って、川上弘美みたいやなあって、思ってさ」
現実の中に潜む、非現実の世界。ありえない事があっても、まるで本当にあったことみたいに語る。それが彼女の文章だった。川上弘美の小説を読んだ時に感じる、どこか知らないところなのに懐かしいと思えるような、そんな感情。
「そう、あたし、川上弘美の小説に影響、受けてん。あの独特な感じが好きで」
「・・・リカの文章は、なんていうか、本当にリカにしか書けない世界だと思う。ふわっとしててかさかさしてて、手触りがよくて、いごごちのいいバスタブみたい」
言っているうちに、なんだかはずかしくなった。誤魔化すみたいにキャラメルティーを飲む。あついキャラメルティーの湯気がまぶたに触れて、すこし眼に沁みた。
「・・・梅ちゃんの文章は、読んでいるうちにのめり込んでいくけど、終わったら急にぽんっ!って、追い出される。突き離される。だからあたしは呆然と、その余韻に浸れるんや。・・・そういうのが、梅ちゃんの文章にはあるよ」
喉を通り過ぎたキャラメルティーが、あつく内臓を燃やす。あつい、と呟きそうになって、ぐっと言葉を呑み込んだ。胸の中がきゅうと締め付けられて、ああこんなに嬉しい、彼女があたしの文章を読んでくれてるってことも、こうやって文章の話ができるってことも。食べかけてぽろぽろと崩れたガトー・ショコラの傍で、バニラアイスがすこし、溶けていた。
リカのほそい指先がとたんに愛おしくなったけど、握る勇気すら出ないで、あたしはガトー・ショコラをつつく。彼女の金髪はきらきらとしていて、笑うたびに、すこし揺れる。あたしのなかに渦巻くこのあったかい感情は、まるで恋心みたいだ。あたしは彼女の文章に、恋をしている。
とかげごっこ
いちごちゃんが床にはいつくばっていた 白い足がスカートからあられもなくはみ出ているのにも関わらず いちごちゃんは顎の先を床にあててじっと前を見ながら息をひそめる
ねえ、なにしてるの、よごれちゃう
わたしはいちごちゃんの脚を眺めながら言った 日焼けすらしてないきれいな脚 そっと撫でてみたい衝動にかられる
なにって、とかげごっこよ
いちごちゃんは当たり前のことを言うみたいに呆れた
えっなに?
とかげごっこ
とかげ・・・、ごっこ
いちごちゃんははいつくばっている ひらひらと足が動いた わたしはしゃがみこんで床に触れる まるで氷みたいにひんやりしていた
いちごちゃん寒くないの
とかげは寒がったりしないわ
そうだけど、いちごちゃんはとかげじゃないよ
今はとかげなの
指の先についたほこりを払い落としながらいちごちゃんの顔をのぞきこむ 陶器みたいな肌が輪郭のはっきりした鼻を型どっていた ビー玉みたいにつるりとした目玉はとかげとは似ても似つかない
とかげごっこ、楽しい?
いじわるな質問をした いちごちゃんの眉間にはしわが寄っていたし 不服そうなとがったくちびるから とかげごっこの面白さがちっとも伝わってこなかったからだ
あんがい、楽しくないわね
じゃあもうやめたら
でもあたしは今とかげで、れもんちゃんは人間よ
うん・・・、ねえどうしてとかげごっこなの
とかげになりたかったの、一度でいいから
どうして?
しっぽが切られたとき、また生える感覚はどうなんだろうって
でもあたしにしっぽはないし、もしあっても生えてこないわね。だってあたしはとかげじゃないもの。
いちごちゃんは吐き捨てるようにそう言って立ち上がりセーラー服のほこりをはたいた スカートから落ちたほこりはきらきらと光って さっきまでいちごちゃんがはいつくばっていた床に付着する
ねえいちごちゃん
なあにれもんちゃん
わたし、切ってあげようか
…しっぽ?
ないでしょ
じゃあなにを切るの
あし
いちごちゃんの、あし。
わたし、欲しいな。
ちょうだい。
わたしはとんでもないことをくちばしった いちごちゃんの脚を見ながら言ってしまって 慌ててくちびるを両手でふさぐ
ごめんわたし、あ、ちがうの
ふふふ
ちがうのごめんねいちごちゃん
あたしのあしがまた生えてくるならいいわよ
えっ、という言葉をわたしはのみ込んだ いちごちゃんはわらっている
あたし、れもんちゃんになら、あし、あげてもいいよ
そうして彼女は もしいちごちゃんが本当にとかげになったら わたしにあしをくれると約束してくれた ちゃんと細い小指を絡めてくれたから わたしはなんだか恥ずかしくなってうつむいてしまう
そのかわりれもんちゃんがもしとかげになったら、あたしにあしをちょうだいね
これも約束。
わたしのあしなんかどうするの わたしは真っ赤になりながら呟いたけど いちごちゃんはただ微笑んで ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本 と歌った
ああはやくとかげにならないかな、あたしたち
小さくわたしがうなずくと いちごちゃんは約束の小指でわたしのくちびるを引っ掻いた ひっかかれたところにみみずばれができそうなくらいの 熱くて痛い衝撃がはしった
春と星
ハルさんが死んだ。交通事故だった。
ほんの少しだけ窓を開けて、遠くから流れる風を受けながら、ヒーターで火照った顔を冷やした。助手席に座っているお兄ちゃんが、さっきから「さむい」と大げさに喚いているけど、運転してるのはあたしだし、この車も自分で買ったものだから、無視をする。お兄ちゃんはペーパードライバーのゴールド免許なので、母さんの車を運転しているとき、ワイパーとウィンカーを間違えたりしていた。お兄ちゃんに器用なことはできまい。そもそも免許がとれたことすらきっと奇跡だ。(こうやってお兄ちゃんをバカにすると、女の子みたいにはらはら泣くので、これは本人に言わない。)
お兄ちゃんは白い肌とがりがりの体付きから、ハルさんに「もやしくん」と呼ばれていたらしい。あたしはハルさんには通算5回くらいしか逢ったことないので、よく知らないけど。すくなくともあたしの前ではちゃんと、「ショウくん」と呼んでいた。お兄ちゃんがそのことをあたしに言ったのは、6回目のあたしとハルさんの逢瀬が無いことをはっきり自覚していたからだと思う。母さんはお兄ちゃんが取り乱しておかしくなっちゃうんじゃないかって、出かける前までずうっと言ってたけど、あたしは知っていた。お兄ちゃんはこんな時、びっくりするくらい、冷静だ。
ビートルズのベストアルバムが2周したころ、お葬式の会場が見えてきた。黒い服を着た人たちが、うろうろと駐車場と会場をいったりきたりしている。あたしもお兄ちゃんも、喪服なんか持っていなかったから、今日の為に購入した新品の、てかてかしたものを着ていた。その上あたしはおととい、金髪のショートカットにしたばかりで、お兄ちゃんは眉毛の上に新しい入れ墨を入れていた。小さな黒い星がきれいに3つ、並んでいるその入れ墨に、あたしが「テリーマンかよ」と突っ込んであげたら、「テリーマンは米って字を額に入れてるけど、あれかっこ悪いよね。母国を愛してるなら、星条旗でも入れればいいのに」と返された。(意味がわからない。)(だいたい、キン肉マンだって肉って入ってるじゃん、どっちかというと肉のほうが恥ずかしいじゃん。)ともかくあたしたちは二人、葬式場でかわいそうなくらい、浮いていた。
車を降りて会場に行くと、まっさきに、長い黒髪の壮年の女性が近付いて来た。女性は皺が刻まれた、ほっそりとした色の無い顔でこちらに向かって弱々しく微笑む。お兄ちゃんは急にぴしりと背を伸ばしてから一礼し、「この度は真にご愁傷様でした」と早口で言った。
「いえ・・・遠いのに、来てくれてありがとうね。きっとハルコも喜んでるわ」
「ハルコさんには大変お世話になっておりましたので・・・」
「こちらこそ! あの子は本当にわがままで気分屋だから、親しい友達が少なくてね・・・だからこうしてショウゴくんが来てくれるのがおばさん、本当に嬉しいのよ・・・」
女性はそこまで言うと、右手に持っていたうすい灰色のハンカチを持ち上げて、ぐっと声を詰まらせた。皺を流れる細い涙が、ハンカチにゆっくりと染み込んでゆく。灰色が濃くなるのを眺めながら、ああハルさんってハルコって名前だったんだ、とどうでもいいことを思った。
「ごめんなさいね・・・あら、そちらは?」
「あ、妹のナツミです。ナツミ、こちらはハルコさんのお母様」
急にあたしの方に、お兄ちゃんが振り返った。お兄ちゃんといきなり眼が合う。女性が、ああ妹さん、と独り言にしては大きい声を出したとき、あたしは慌てて彼女に頭を下げた。
「はじめまして、ナツミです。ハルコさんにはわたしもお世話になっていまして、あの、」
「あらそうだったの・・・やだわ、こんなかわいいお友達がいたなら、紹介してくれたらよかったのに」
女性は、涙で真っ赤になった眼をすこし微笑ませながら、社交辞令を述べた。あたしも一応、いえそんな、と小さく呟いて首を振る。(ああだめだ、あたしやっぱりこういうの、できないわかんない。)
そうしてあたしたちの間に変な沈黙が生まれて、女性は一度鼻をすすってから、「じゃあ、ハルコの顔、見てやって」と言った。
長い長い坊主の呻きが終わって、お焼香も済ませ、最後のお別れをする時間になった。パイプイスの弛んだネジが、体を動かす度に鳴いてしまうので、あたしは大変窮屈な思いをしていたから、やっとか、と息を吐いてしまう。そして周囲がすこしざわめき始めたところで、あたしより先に立ち上がったお兄ちゃんのあとに続いた。
「お兄ちゃん、知らない人みたいだった」
「・・・なにが?」
「さっき、ハルさんのお母さんに挨拶したとき。なんか、よそ行きの顔、してたもん」
「そりゃあ、よそだもん。ハルちゃんのお母さんだって、一回しか逢ったことないし」
「それにあたしのこと紹介したときも。なんか・・・、」
ちょっとこわかった。ぼそり、と言った。あたしたちは、献花をする人たちの行列に並んで、のろのろと歩きながら、小声で話をする。
「なっちゃんこそ、焦りすぎだよ。なぁに、どもっちゃってさ。そんなに人見知りだったっけ?」
「いや、だから、お兄ちゃんがあたしのことナツミとか言うから・・・ナツミなんて、今までで呼んだことないじゃん」
「あるよー、なっちゃんの前ではじめてだっただけ」
お兄ちゃんはすこし笑って、入れ墨の上を小指で掻いた。黒髪の間から見えたり隠れたりしているその星を、じっと眺めながら、あたしたち兄妹のタイミングの悪さをちょっとだけ呪う。(なにもこんなときに、金髪にして、入れ墨しなくたっていいのにね。)
やがて、お兄ちゃんの番になって、お兄ちゃんはそっと体を乗り出すようにしてハルさんの顔を覗き込んだ。その背中は本当に細くて、なんだかぽっきりと折れてしまいそうな気がする。お兄ちゃんの骨みたいな指が、綺麗な白い花を彼女に捧げたとき、その存在すら白に消えてしまいそうで、あたしはまた怖くなった。
(そうだ、お兄ちゃん、あの泣き虫のお兄ちゃんが、まだ泣いてない。ハルさんが死んだって電話があったときから、もうずっと。)重大なことに気が付いてしまったことで、いつの間にかお兄ちゃんが前からいなくなっていたことに、あたしは小さな悲鳴をあげてしまった。
「お兄ちゃ、」
「なっちゃんの番!」
突然、横から苛めるような小声が聞こえてきて、はっとしてそちらを見ると、お兄ちゃんがちょいちょいとあたしの腕を引っ張っていた。ああそうか、お兄ちゃん献花を捧げてたんだ、そんで次、あたしの番。あたしは慌てて、ハルさんに駆け寄る。
ハルさんは、花だらけのカラフルなその場所に体を埋めていた。その顔は真っ白に死化粧を施されていて、そのアンバランスさで、表情だけが白黒写真のように浮きあがる。まるでリリアン・ギッシュみたいな美しい顔に見えたけれど、生きていたときのハルさんは、とてもじゃないけどギッシュのような上品さの欠片もなかった。よく、ドラマや小説では「まるで生きてるみたいな顔をしていた」なんていう表現があるけど、そんな風にはまったく、思えない。ハルさんは死んでしまった。蝋人形みたいにかちかちになって、白塗りを浮き立たせたまま、花に埋もれるリリアン・ギッシュ。あたしはその花畑に、お兄ちゃんと同じ白い花を添えて、なんにも言わずに列を外れた。
駐車場へ向かいながら、霊柩車をぼうと眺めていると、お兄ちゃんが「お父さんにも挨拶してくる」と言った。お母さんだけじゃなくお父さんとも知り合いだったのか、と思いながら頷くと、「車で待っててね」と次いで言葉を投げかけられる。はーい、と小さく返事をしてから、黒いハンドバッグから煙草を取り出した(実はずっと吸いたくてたまらなかったのある)。ライターの火は、真冬の風に曝されてすこし頼りなかったので、手で壁を作りながら優しく吸い込んであげる。煙が肺に充満したところで、顔を上げて、ふうと息を吐・・・、こうと、した。
あたしはそれを見た時、思わずライターを落としてしまった。それは元彼に貰った、なんの未練もないただの安物ライターだったので、別に構わないのだけれど、あたしは「ああっ」と叫んでしまう。ライターを拾おうと腰をかがめると、今度は唇が緩んで煙草が落ちた。あたしはまた「ああっ」と叫んで、煙草を拾った。ふうふうとフィルターを吹いて、埃を払った気になって、そしてまた唇に乗せる。ゆっくり煙を呑んで、さらにゆっくりと吐いて、それを2、3回繰り返してから、「そんなばかな・・・」と呟いた。
「そうね、私もそう思うのよ。だって私、死んでるんだもんね」
ハルさんは言った。生前と変わらない、淡々とした喋り方だった。死んでるんだもんね、の、「ね」には、強い力がこもっていて、あたしは何か悪いことをしてしまったかのようにびくりと肩を震わす。ハルさんの声は普通ではなかったけれど、脳内に直接響いている、というにはあけすけすぎた。ハルさんはあたしを見下ろして、ちょっと右眉を上げて、「金髪になってる」とひとりごちる。それでもあたしが黙って煙草を吸っていると、ついに痺れを切らしたように、ばっと両手を上げた。
「なっちゃん! 見えないふりしないで!!」
「わあっわかってますわかってますごめんなさい、悪い事したなら謝ります、あのっなんで、なんで、」
ハルさんの怒号に誘われるように、あたしの喉から言葉が零れ落ちた。あんまり大きな声を出してしまったので、前を歩いていた初老の女性が一瞬、振り返る。ハルさんは透けていたけど、完全に透明というわけでもないから、その女性があたしを見ているのがわかった。あたしは慌ててポケットから携帯を取り出して、耳に突き当てる。
「電話してるフリ、するんだあ。まあ、他の人には私、見えてないみたいだもんね」
「・・・あのー、一応確認しますけど。ハルさん・・・ですよね?」
「違う人に見える?」
「いいえ・・・」
あたしはゆるく首を振った。そう、ハルさんだ。さっきまで、棺の中にいた筈の人(ただしその顔はリリアン・ギッシュとは似ても似つかない)。
「しくじったわ。しくじったのよ。ほんと。私は右に曲がるつもりだった。だからウィンカーを付けてたの。右にね。でもなんか、チカチカって音がしないなーと思ってたら、どーん。どーん! どーんよ! 捻りの無い音でしょ。でもどーん、としか言いようがなかった。私、ウィンカーとワイパーを間違えてたのよ。そしてそこにちょうど、向こうから車が来た。そんなことってある? ないわよ。もやしくんじゃないんだから」
しくじったわ。ハルさんはもう一度、言った。あたしはハルさんの声で、ハルさんが、お兄ちゃんの事を「もやしくん」と言ったことに、少なからず動揺している。(ほんとに言ってたんだ、仮にも長い付き合いなのに、)あたしはハルさんをまじまじと見ながら、じわりと滲む手汗をぬぐうため、携帯を持つ手を切り変えた。
「あの、ハルさん・・・」
「さっきね、私ずっとママの横に居たわ。でもママはずっと泣いてるし、パパは唇噛みすぎて血の気なくなってるしで、もうね。いたたまれないって、こういうことを言うのね。誰にも見えてないの。だから私、きっとなっちゃんも見えないんだろうと思ってた。だって、もやしくんも見えなかったし」
ハルさんは、白いシャツの上に、触り心地が良さそうな桃色のセーターを着ていた。デニムのスカートからは、黒いタイツと灰色のごついブーツが構えている(実際、透けているので、正確な色味はわからないけど)。ほんの少しだけふくよかなその足は、妙に色っぽく見えた。あたしはお兄ちゃんと似て痩せているから、足が変に骨ばっていてコンプレックスなので、めったにこんな格好はしない。それにハルさんは、交通事故で死んだっていうのに血の一滴すら流さずに、表情だってころころ変わった。こんな幽霊がいるもんか、と思いながら、ちびた煙草を懸命に吸う。
「まさかね、なっちゃんに見えるなんて。私、このお葬式に出てくれた人で、なっちゃんが一番遠い人だと思うわよ。差し向かいのタナベさんだって、私は最近、頻繁に挨拶してたんだから」
「そう・・・、ですよね。だって、あたしに見えて、お兄ちゃんに見えないなんて、そんなの・・・」
そんなの、かわいそう。あたしの口から思わぬ言葉が洩れそうになって、慌てて煙草を口にくわえた。でもそれはもう短くなりすぎていて、吸うには頼りなさすぎる。ちょっとわざとらしい咳をしてから、携帯灰皿にそれを突っ込んでいると、ハルさんはまたまくしたて始めた。
「もやしくん。もやしくんね、また入れ墨入れてたね。私、もやしくんは入れ墨なんか入れなくたっていいと思うのよ。背中の梅の木も、腕の骸骨も、統一性がないし何より似合ってない。それに今日見たらなにあれ、眉毛の上に星が3つ! ミシュラン? ミシュランに認定されてんの? 3つ星なのあの人は?」
わけのわからない質問を引っ提げて詰め寄ってきたハルさんに、あたしは「いや知らないです、」と弱々しく返した。揃いもそろって、お兄ちゃんとハルさんは本当に、わけのわからない会話を好むもんだ。寒い外気にさらされて固まってきた指先を、軽くほぐしながら、また煙草を指で挟んだ。
「なっちゃんもなっちゃんよ。金髪でショートになんかしちゃってさ。そんで煙草も吸って。女の子なんだから、もっと可愛い格好しなさいよ」
「・・・ハルさんのお母さんは、かわいいって褒めてくれましたよ」
「ママは元々レズビアンだもん」
衝撃の事実をさらりと告白してくれたハルさんは、なんでもないことのように、短い舌打ちをした。あたしと逢った時も、お兄ちゃんがすこしでも怯えたり眼球に涙を滲ませると、こうやって舌打ちをしていたものだ。ハルさんはいつも焦っていた。なにに焦っているのかは、お兄ちゃんも、知らなかったとおもう。ハルさんのお母さんとの間に出来た沈黙みたいなものが、ゆっくり迫ってきている気がしていたので、あたしはなんとなくフィルターを噛みながら、ぱっと思いついたことを口に出した。
「ハルさん、は・・・あの、キン肉マンって知ってますか・・・」
「知ってるけど」
「あの・・・・・・あれですよね、キン肉マンの額の“肉”って・・・ださい、ですよね・・・・・・」
「それ行ったらテリーマンの“米”のほうがださくない? だって米だよ、米。アメリカを愛してるからって、米。その時点でなんか日本っぽいよね。なんだったら星条旗でも入れればいいのに」
ハルさんは意外とこの話題に食いついて来た。しかもお兄ちゃんと同じことを言っている。
「・・・ねえ、なっちゃん」
ハルさんが、急に声のトーンを落とした。あたしはもうかれこれ10分くらいここに突っ立っているし、慣れない黒タイツが寒くて、凍えてしまいそうになっているというのに、ハルさんはそれに気付く様子もない。ただ、真っ黒に澄み切った大きな瞳を、あたしの向こう側に注ぎながら、呟いた。
「私、かなしいのよ。とても。だって、死ぬつもりなんかじゃなかった。あの時右に曲がって、家に帰って、ママの料理を食べて、パパとゲームして、お風呂に入って寝て、朝起きたら会社に行って、週末はもやしくんと映画に行くつもりだったの。私そのとき、もやしくんに告白しようと思ってた。私達はずっと一緒にいたけど、はっきり、付き合ってるわけじゃあなかったから、それを明確にしたかったのね。来週なんか来なくていいとも思ったし、はやく来て、とも思った」
あたしは、ハルさんとお兄ちゃんが恋人同士じゃなかったことを、今知った。唇に挟んだ煙草が、風に揺れてふらふらと動く。
「だからかなしい。かなしいよ。ママにもパパにも、もやしくんにも、私、さよならが言えなかったんだもん。なのにさ、不思議ね。こんなにかなしいのに涙が出ないの。体の中がかなしみでいっぱいなのに、ぜんぜん、出ないのよ」
ハルさんの声が震えている。横を通り過ぎた大きなトラックの音に、掻き消されてもいいくらいの小さな声だった。なのに、それははっきりとあたしに伝わってくる。ハルさんはとてもとてもかなしい顔をしていたけれど、その瞳は乾燥したままだった。
「なっちゃん、車で待っててって・・・・・・あ、」
低い声が、ぷつりと停まった。でんわちゅう? と唇だけでなぞられたそれに、あたしは機械的に頷く。携帯を持つ手が、寒さで震えていることに気が付いたお兄ちゃんが、くるまのなかでしたら、と空気を混ぜ返した。あたしは首を振る。ほんのりと動いただけなのに、瞳からぼろぼろっと、ビー玉が零れるみたいに、涙が溢れた。
「・・・なっちゃん、どうした? かなしいの?」
お兄ちゃんはそっとあたしの肩を抱く。お兄ちゃんの冷えた指先があたしの涙を拭うので、あたしはいやいやをしながら、すばやく前を指差した。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん見てよ、ハルさんが、」
「なっちゃん」
「ハルさんがいるの、そこにいるの」
「なっちゃん、車に行こう」
「お兄ちゃん!」
お兄ちゃんは眼を細めた。その眼差しに、大きな切なさと怒りが含まれていることに、長い間一緒の家で暮らしてきたあたしが気付かないわけがない。
「お兄ちゃん嘘じゃないよ、信じてよ、ほら見てよハルさんが」
ハルさんがいる、と続けながら前を見ると、そこにはただまっすぐとのびる歩道が、なんにも知らないふりで横たわっていた。そこに確かにいたはずのハルさんの姿が見えなくて、あたしは無意味だと知っていても、振り返ったり周りを探したり、涙を拭いながらぐるぐると回った。ひっきりなしに流れる涙が頬を濡らしていて、それが風に触れて余計に寒い。お兄ちゃんは回るあたしの手を取って、多少強引に車に乗せた。
「ハルちゃんと結婚しようと思ってた」
車に乗って、エンジンをあっためている間に、お兄ちゃんはそう呟いた。今までに訊いたことが無い、真剣な声色だった。あたしはお兄ちゃんに渡されたティッシュで鼻を噛んで、それをぐしゃぐしゃに丸めてから、目頭を拭う。
「ハルちゃんと出逢って、僕の人生は本当にカラフルになった。ハルちゃんはわがままだったし、気分屋で、どうしようもないお喋りだったから、僕のタイプなんかじゃないんだけど。でも僕はハルちゃんが好きだった。結婚したかった。ハルちゃんとの子供が欲しかった。そんで細々とでもいいから、ふたりで暮らしていきたかったんだ」
お兄ちゃんの声はだんだんと小さくなってゆく。ティッシュを掌の中に押し込んでから、音をたてないようにお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんは手の甲で鼻を押さえていた。
「ねえ、お兄ちゃん・・・」
「だからさ、なっちゃん、お願いだよ。そんないじわるを言わないでよ。もうハルちゃんは死んじゃったんだ」
「お兄ちゃん、どうして泣かないの」
あたしは随分と鼻声だったけど、お兄ちゃんは笑わなかった。それどころかあたしの方を見ないで、急に、「ぐ、」とだけ言った。そのうち細い肩がぶるぶると震えだして、ぷっくりと浮き出た喉仏が上下に動き、そして、耳さえも哀しくなるような嗚咽が車に響き渡った。お兄ちゃんは泣き虫だったけど、泣くときは決まって、ほろほろと美しく泣く。でもこの泣き方は、決して綺麗じゃなくて、喉に唾や涙や鼻水がひっかかったみたいな、ひどく下品な泣き方だった。あたしはティッシュをポケットに押し込んでから、新品の喪服のスカートに出来た細かい皺を掌で丁寧に丁寧に伸ばしていた。
お兄ちゃんが泣き終わった頃にはもう、真っ暗な夜がすぐそこまで来ていた。あたしがハンドルを持つと同時に、お兄ちゃんが鼻をすすったので、あたしは久しぶりにお兄ちゃんに笑いかける。
「お兄ちゃん、週末ひま?」
「・・・いや、ちょっと、ズッ、用事あるよ」
「そう。ハルさんによろしくね」
「・・・・・・ズッ、なんで知ってるの」
鼻をすすりながら言うお兄ちゃんの言葉は、とても情けなくて、しかも驚いた顔がこれまたしょぼくれていて、あたしはまた窓をすこし開けながら、「ハルさんが泣いてもいいように、ハンカチを持っていってあげてね」と言った。お兄ちゃんは「さむい!」と叫ぶ。
カレンダー
最新記事
プロフィール
HN:
梅子
性別:
女性
自己紹介:
*Twitter
@sekai045
https://twitter.com/sekai045
*mail
tsubutsubule@yahoo.co.jp
@sekai045
https://twitter.com/sekai045
tsubutsubule@yahoo.co.jp