ギニーピッグ
※ グロ注意
吐いた白い煙が充満する、コンクリートばかりのゲロ臭い部屋で、スナッフフィルムをぼんやりと見ていた。画面の向こうにいる端正顔付きの女が、真っ白な四肢を曝して横たわっている。ギラギラと光るナイフが、女の体に赤い線をすうと引いていく様にすっかり飽きて、最初に覚えた恐怖と僅かな興奮を忘れながら、じっと煙草を呑んだ。横ではすっかり酒に溺れた柏崎が、横たわったままでごぼごぼとゲロを吐いている。意識があるのかないのか、ただ、僅かな寝息だけは聞こえるので、そのままほうっておいた。柏崎が持ってきたこのスナッフフィルムも、恐らくは純粋な殺人フィルムではないのだろう。こいつが持ってくる「すげえモン」が本当に「すげえモン」だったことは今まであったのだろうか? 随分と興奮したようすで「ピュアなスナッフフィルムだよ!」なんて言っていた癖に、ビールと日本酒を散々かっくらったあとに、「きぼぢばるい」だなんて舌足らずに零して嘔吐、そして女が画面に出てきたところで睡魔に食われてしまった。だいたいこんなもの、酔ってなければ見れるはずがない。俺の方は、たいがい真面目に見てしまったが為に、酒の所為でないゲロを吐き散らかして息を詰まらせた程だというのに。恐らくこれは作り物で、大した臓物だって出ていないのだけれど、それでも初めてみるスナッフフィルムの衝撃は強かった。腹に入っていたものをすべて引っ繰り返してしまった今は、吐く胃酸と元気もないので、ただぼんやりする他にない。最初はぎゃあぎゃあと喚いていた女も、今では半分諦めているのか、細いすすり泣きだけを洩らしていた。柏崎の寝息と重なって、じりじりと鼓膜を攻める。(ああ俺はなにやってんだか、)そんな哲学的な自問自答をしてしまう時は、くそったれの現実に腹が立っている時である。煙草の先で震えていた灰が、ばらばらにほどけて柏崎の指先に落ちた。何気なくそれを見届けてから顔をあげると、スナッフフィルムの中の女が急に、怯えたように俺を見ている。開ききった瞳孔の奥に、淀んだ灰色が見え隠れしていた。悪い画質が女のアップを抜いて、その震える肌を映し出す。(悪趣味、悪趣味だこんなの、これでマスターベーションできるバカがどこにいる、)コンクリートに散らばるビール缶を足で蹴って、画面に背中を向けた。女が絶叫するのと、ぐじゃ、と何かが潰れる音がするのはほぼ同時。甲高い悲鳴なんかじゃない、蛙が鳴いたみたいな気味の悪い断末魔のようなそれに、また胃がぐるぐると回るような気がする。ダメだもうダメだ、クソ、俺の運のツキはこのバカ、柏崎とつるんでしまったことにあるのだろう。すすり泣く女がナイフで肌を切られるのはまだしも、女の太ももがぐちゃぐちゃに潰される様子なんて、正気じゃなきゃ見ていられない。結局のところもう一度、ゲロには程遠い唾をべたべたと吐き曝して、俺はぐったりと倒れ込んだ。視界の端に映った真っ赤な肢体が眼球と脳味噌を着く。赤の間からちらりと、その肌に似た色の綺麗な脂肪が見えた。(柏崎、柏崎のバカ、死ね、バカ、くそったれ、)もうこんなビデオ見てられるもんか、俺はすばやく立ち上がると、レコーダーの電源に指先を伸ばした。大丈夫だ、大丈夫、これはピュアなスナッフフィルムなんかじゃねえ、柏崎のバカが持ってきたパチもんの、「だぁあ、」できるだけ画面に近付きたくない衝動の下、深爪の所為もあったか、届かない指先が空を掻く。思わず喉を逸らしてしまった俺は、退けた筈の赤を視界に捉えてしまった。いつの間にか瞼をひん剥かれた女の眼球が、ぴくぴくと、明後日の方向を眺めている。画面の外から斧を投げつけられた女の足が、反動でがくんとカメラを蹴りあげた。ざあっと画面がぶれ、衝撃による砂嵐が女の体を裂く。「げえっ」そして、画面の外で、この美しい女を痛めつけていた人物の顔が、砂嵐を被せながら映った。「おっ、ぼ、」その男と眼が合ってしまった瞬間、何も残っていなかったはずの俺の胃がひゅうっと音をたてて、喉元にせり上がってくる。ぼたぼたぼた、と、コンクリに汚物が落ちて、(こいつ、)それを見届けるまでもなく酸化した瞳に、(この悪趣味ヤロウ、)変態殺人鬼のゲロ塗れの寝顔が映る。
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オヤスミウサギ
「いろいろあったけど、結局おれら、なーんもしてないやんなあ」
テーブルの上のチョコレートラテをじっと眺めながら、漱石は唇の皮を剥いでいた。1ヶ月付き合った彼女にクリスマス前に振られてしまった彼は、どことなくテンションが低い。もったりとしたアフロ頭が、ゆらゆらと揺れて、そのたびにぴりぴりと皮が剥かれた。
博識そうな名前を立派に持っているくせに、漱石は本当にバカだった。天然パーマが進化に進化を重ねたぐりぐりのアフロと、無駄に高い背がこいつの特徴で、そこそこモテるがバカな所為で恋愛が長続きしない。そして猫舌の彼は、チョコレートラテが冷めるのを待っている。(ただし、見つめたところではやく温度が下がるわけではない)
「俺はしたよ・・・」
「なにを?」
「・・・バイトとか」
「おれもしてんよ」
「お前は辞めたじゃん」
「だって仕事覚えれんもん」
「バカだもんな」
「あっちぃ!」
結局、大した我慢も出来ずにラテに唇を付けた漱石が、大きく仰け反る。がちゃん、と乱暴に置かれたカップからチョコレート色の液体が飛び出してきて、無垢な白を汚した。ああバカだなあと、どうしようもなく思いながら、あたたかくて美味しいコーヒーで喉を潤す。これを淹れたのは、浮気症というすさまじい病気をもった俺の彼女であるが、残念ながら外出中である。
「2011年、他になにした?」
「・・・勉強」
「単位3つも落したやんな」
「じゃあお前は何したんだよ」
舌を火傷したらしい漱石は、蛇のようにそれをチラつかせて、うっすら涙を滲ませている。いひゃい、と小さく呟いたのも聞き逃さなかった。
「いろいろ・・・いろいろしたよ、まず髪染めたっしょ、んで告白して、付き合って、セックスして、振られて、財布無くして、姉ちゃん結婚して、」
「ちょ待て待て、それアリか、アリなのか」
「アリよ、もうなんでもアリよ」
「お前さっきなんにもしてないっつったじゃん」
「よく考えたらしてた」
「ほんっと・・・お前・・・」
バカだよな。最後のセリフだけは目線に預けて、黙ってコーヒーカップを傾けた。漱石は目線の意図も知らずに、またチョコレートラテを眺める作業に移っている。だけどそんな単純なことが「した」ってことなら、あんがい、俺も2011年を謳歌できたのかもしれない。俺も髪切った、いつもどおり浮気された、いつもどおり許した、隣人と喧嘩した、村上春樹読んだ、ギター始めた、ギター壊した、ギター辞めた。
「あーあのギター、高かったのにな・・・」
「なんでやめたん」
「壊した」
「なんで・・・」
「落した」
「どこでよ」
「ベランダから」
「はあ?」
「酔っぱらって」
「・・・笑っていいん?」
「あーできれば笑うな」
とたんに、漱石のなで肩が震えた。やがてゲラゲラと声をあげて笑いだしたので、テーブルの反対側から手を伸ばして、アフロを思いっきり叩く。このくるくるパーマがクッションになったのか、たいしたダメージも受けずに、漱石は笑いを深めた。
「お前さあ、俺のことバカにできんのかよ。お前村上春樹、読んだことある?」
「はー、え、なに?」
「村上春樹! ノルウェイの森とかさあ」
「ビートルズ?」
「・・・そうだけど、じゃなくて、本。作家!」
「ねえよぉ、俺、クリスチャン・ラッセンしか読んだことない」
「それ読むんじゃねえの、見るっていうの」
はあはあ、と適当な相槌を打っている漱石が、耳の裏を掻きながら、ぼうと部屋の隅を見ている。だいたい、ラッセンの本だってどうしてこのバカが読んだ(見た)のか、気になるものだが、この際は関係ない。
「俺のゼミの教授が、村上春樹を読んでない奴は死ねっていうから、死ぬの嫌だし、読んだんだよ」
「じゃあおれ、死ななきゃならんね」
「うん、そういうこと」
「でもビートルズのノルウェイの森、弾ける」
「うん?」
「ピアノで」
「・・・なにおまえ、ピアノ弾けんの」
「3歳からやってんもん」
漱石はなんでもないことのように、言った。チョコレートラテがすっかり湯気をなくして、寂しそうに漱石を見上げている。一方俺のコーヒーは熱いうちに飲んでしまったから、しゃべっているうちに、たまに香ばしいにおいがした。漱石がまた指を駆使して、唇の皮を剥きだしたので、それが彼にとって特別なことではなくて、当たり前の一部なんだなと気が付く。3歳のころ、つまり20年近く、ああこんなバカでもピアノは弾けるのに、俺はギターすらまともにできない・・・。
「で、村上はるき、おもしろかった?」
「えー、うーん、まあ、ふつう・・・」
「人生んなもんね」
「せめて読んでから言え、な?」
「読まんよ、死ぬしかないって、の、あてて」
引っ張りすぎた唇の皮が、ぴりぴりと千切れて、うっすらと赤が滲む。漱石の眉毛が動いて、眉間にわずかな皺が寄った。
「バカ、深入りはなんにせよ、よくねえぞ。だから振られんだよ」
「もういいんよ、おれは前を向いている」
「かっこよく言うな、血ィ出てんぞ」
「名誉の負傷」
「あほか」
ようやく漱石が、チョコレートラテに手を付けた時。俺の指先にじりっと痛みが走って、漱石が白い歯を見せて笑った。
「薫ちゃん、指の皮剥くの、クセな」
「・・・・・・おまえもな」
ただし唇の皮、だけど。チョコレートラテを飲んだ漱石は、「つめたい」と呟く。
ストロベリー・イン・ザ・バビロン
信じられないくらい変な模様の猫の置物と、眼が合っている。
まるで、僕の煩悩やぐちゃぐちゃになった感情を表した、みたいな色彩。この間までこの部屋にはなかった造形物だ。クッキーの作品はたいがい、こんな風に抽象的である。猫の横にある小ぶりな牛は、以前からこの薄い液晶テレビの前にあったもの。真っ青な眼をくりくりさせて、緑の舌をだらりと垂らしている。まったくもって、理解不能。いったいクッキーの頭の中はどうなってんだ。カート・コバーンの掠れた声が響く部屋で、僕は猫の鼻に触れた。
「先週、雨が降った時に造ったの」
突然、クッキーのスカッシュみたいなセリフが頭上に降ってきた。僕は悪いことなんかしていないのに、びくりと猫から手を離す。
「これ・・・君の故郷を表してんの?」
「イギーあなたまだ、私が火星人だと思ってるのね。何度も言うけど、私の母は織姫よ」
「父は彦星」
「わかってるじゃない」
クッキーは低く笑って、僕の頭上を通り過ぎながらカーテンのレールにコートを引っかけている。あたたかそうなファーがついたキャメルカラーのコート。クッキーがこれを着ているところなんて、僕は見たことがない。
僕は猫から視線を外して立ち上がり、赤と紫のビビットなソファーに腰を埋める。ちょっぴり硬い安物のソファーは、クッキーが実家から持ってきたものらしい。宇宙からの搬入はどうやったの、と訊くと、「バカね、宇宙は無重力よ」と鼻で笑われてしまった。いや、だから、その無重力空間から抜けた時どうしたのか、知りたいんだけど。喉元まで出かかった疑問は、また次の機会にしようとおもって、そういえばすっかりそのままだ。
「ほら、召し上がれ」
ソファーの前に置かれている、ガラステーブルにかちゃりとケーキが表れた。真っ白なクリーム、熟れたイチゴ。クッキーは意味もなくたまに、ショートケーキを作る。これがまた美味しいんだ。僕は大きいスプーンを手に取って、贅沢にもそのままケーキをすくった。同じように向こう側からスプーンを伸ばしているクッキーは、まだら模様の絨毯にそのまま座り込んでいる。
僕の彼女でありクッキーの友人であるソラは、甘いものが嫌いだった。だから、クッキーの手作りケーキはいつもソラ抜きで片付ける。僕はひどい甘党で、ポケットにはいつもキャンディやチロルチョコが入っているし、遣い込んだリュックには自分で淹れた甘い甘いミルクティーをたっぷり注いだタンブラーがある。スプーンですくったケーキのかけらを口に頬張りながら、ふわふわのスポンジとクリームを咀嚼した。
「美味しい」
「ありがとう。イギーは美味しそうに食べてくれるから、好きよ」
クッキーは、黒とピンクのキャミソールを重ねて着た上に、グレーのカーディガンを羽織っていた。部屋着にしては肌寒そうなその格好に、レザージャケットを着てマフラーまで巻いたままの僕と対照的だ。
「この間急に、アップルパイが食べたくなったのよ。ソラと居る時にね。どうしても食べたくなったの。私、我慢が出来なくなって、彼女にアップルパイを食べに行きたいとねだったわ。そうしたらソラは、オスキニドウゾって顔で、私を見た。学校の前に小さなケーキ屋さんがあるでしょ、あそこに行ってアップルパイを買って、食べながらソラのところに戻ったら、ソラは煙草を吸いながらぼんやりしてたわ。だから私、ソラにアップルパイを勧めてあげたのよ」
「ソラは甘いもの嫌いだよ」
「知ってるわ! でも、べつになんにも考えないで、私の食べかけをソラに差し出したのね。ねえソラがどうして甘いものが嫌いか知ってる?」
「さあ、訊いたことないかも」
「虫歯になるからですって!」
あはは、とクッキーは甲高い声で笑った。僕は普段、対して笑うこともないので、ふうんとだけ返す。ソラは意外に子供みたいなところがあるんだなあと思いながら、イチゴのヘタを摘んだ。大口をあけて、ひとくちで放り込む。甘酸っぱい味が舌の上で広がって、目の前がパチパチと光り輝いた。思いだしたソラの歯は真っ白で、確かに虫歯ひとつ、ない。
「あ、クッキーさ、」
アジアンな雰囲気を漂わせる仕切りの向こうから、低い声が聞こえた。それに被さってがちゃがちゃと金属が触れ合ったあとに、肩が跳ね上がるような大きな音が響き渡る。僕はヘタを持ったままで、仕切りの方へ視線を投げた。そのうるさいような模様の仕切りの向こう側には、これまたうるさい色彩を存分に散らしたキッチンがあるのだが、そこにいる男が何かを引っ繰り返したのだろう。前に居たクッキーが、じわじわと立ち上がる気配を感じる。
「アポロぉ、何やってるのよ」
「これあのー、ボール、洗おうと思ったんですけど、どこに置くのかなあって思ったら手が滑っちゃって」
仕切りの横から困ったように顔を出したアポロは、濡れて血管の浮き出る細い腕を、中途半端に宙に浮かせていた。赤いセーターをまくった彼の指先から、透明の雫が滴り落ちる。雫を吸った絨毯は、彼のセーターと同じ色をしていた。絨毯を眺めていると、クッキーが前を通って、ボールを置く場所を指示しはじめる。最初から一緒に片付けすりゃあいいのに、なんて、僕が言えたことではないので、黙ってまたケーキにスプーンを伸ばした。
「ねえ、イギー?」
片付けを終えたふたりがこちらに戻ってきた頃、僕はショートケーキを半分ほど食べ進めていた。そろそろお腹も膨らんできたが、甘いものは無限に入る胃袋を持っている僕に、限界はない。さあこれからだと、再びスプーンを唇から離したところで、同じくスプーンを舐めていたクッキーが顔を覗きこんで来た。僕から見て左側に座っているアポロは、ひとり、フォークでスポンジを崩している。俯いた彼の頭はほのかに赤く染まっていたが、さらりと落ちるショートカットの毛先は真っ黒だ。
「訊いてる? イギー」
「うん、なに?」(この時僕は、アポロが取ろうとしたイチゴを奪った)
「イギーさんそれ俺の」
「ちょっとアポロ黙ってて」
「ふん、ほんで、はに?」
イチゴを頬張った僕の滑舌が悪くなったところで、クッキーは自分の肩のあたりを一瞬、触ってから、ゆっくり微笑んだ。
「ソラと別れてよ」
ぷちぷちと、口の中で、イチゴの種が潰れていく。今、口の中は真っ赤な海で、たぶんアポロのセーターよりも赤くて、グロテスクなものとなっているだろう。僕は赤い海を歯で噛み潰しながら、長い間をあけないで、「今はムリ」と告げた。
「そう」
クッキーもすばやくそう返して、また、スプーンでショートケーキをつつき始めた。かしかしと、皿とスプーンが擦れ合う。
なんでもなかったように、僕らはまたどうでもいい話を続けた。例えば最近見た映画とか、おもしろい出来事とか、アポロの生まれつき毛先が黒くなる体質はどうしてなのか、とか(ちなみにこの話題については、ここ1年かけて話し合っているものの、未だに答えが出ない)。しばらくするとショートケーキはなくなって、ゆったりのんびりと食べていたアポロが、「俺イチゴ食べてないです」と唇を尖らせた。
「クッキーさんって」
砂糖を胃に流し込んで、ちょっとだけ膨らんだお腹を持て余しながら帰路につく。うっすらとオレンジが滲む空の下、冷たい指先をあたためるように指をこねくり回していたアポロが、僕の煙草の煙を避けながら呟いた。
「イギーさんの事、好きだったんですね」
アポロが、あの質問をちゃんと訊いていたことに少し驚いてみると、彼は僕の言いたい事がわかったのか、また乾燥した唇を僅かに突き出す。「さすがの俺も、そこは訊いてました」アポロはたいがい、人の話を訊いていないことが多いのである。僕はフィルターを優しく噛みながら、煙草を動かし、煙を揺らめかせる。顔の前でもくもくと広がる紫煙は、さっき食べたショートケーキより余程苦い。だけどそれが、そのギャップが、堪らなく僕を魅了するのだ。
「アポロ」
「はい」
「お前、わかってないよ」
はあ、と、薄い声を洩らしたアポロより歩幅を速めて、すこし振りかえり、ラッキーストライクの煙を吹きかけてやった。嫌そうに首を振っているその長身の男が、ほんのりとした恋心のようなものをクッキーに寄せていることは、なんとなくわかっている。そして僕は、クッキーが本当に好きな女を、知っていた。
( クッキーは今頃、あのバビロンみたいな部屋で、きっとソラのことを考えている、)
くだらない朝に夢の痕
「ああこれは夢だなって思う夢って、あるだろ」
「ええ、まあ」
「昨日それを見たんだ」
新学期が始まって、僕らはまた途方もない学校生活を続ける事となった。
今日はその初日で、長たらしい校長の話や久しぶりの掃除を済ませて帰ってきたところ。
時間の余る放課後はよくこうやって、僕の部屋にシバさんが訪れる。
母さんが買い置きしてあるインスタントのものを適当に沸かして入れてあげたコーヒーを、
長いデザート用のスプーンでかき混ぜながらシバさんは薄く笑っていた。
真っ黒いコーヒーの中で渦巻くのは、市販のミルクと角砂糖二個。
甘ったるさの象徴であるそれらを綺麗に溶かせるように熱いお湯を注いである。
僕は一方、ミルクだけを混ぜた簡素なコーヒー。
ずず、と音をたててそれを啜りながら、続けて出てくる彼の言葉を待った。
「ナオの部屋に居るんだよ、私。この部屋じゃなくて、見たことも無いような白い部屋。でもそれはナオの部屋だなって私は思うんだ。それなのにナオは居ないの。私はそれも不思議に思わなくって、ただぼうっと、こうやって座ってた。コーヒーは無かったけど。しばらくそうしてたら、窓の方から夜がやってくるんだ。それで私は気付く。あ、これ夢だなって」
もう溶けているはずのミルクと砂糖を探しているかのように、シバさんはスプーンを回し続ける。
僕は、黙ったままコーヒーを飲もうとカップを口に当てたけれど、ふいに思い立ってシバさんに訊ねた。
「どうしてそんな所で夢だと気づくんです。あなたはそれを不思議に思わなかったんでしょう?」
「だって、夜がやってくるって、変じゃないか」
「ええ?」
「夜がやってくるって思わないだろ普通」
かちゃかちゃと、カップに擦れたスプーンが鳴いている。僕は眉を寄せた。
そんな僕の様子を見て、シバさんは少し声を出して笑った。スプーンが停止する。
よく解からない風に理論を綴っている癖に、シバさんは僕に理解を求めてやしないのだ。
そうして、何も無かったかのようにまたスプーンが動き出す。シバさんは続けた。
「夢だって気付いてからは、私、なんだかテンションがあがっちゃってさ。ああ夢なら何でも好きな事できるな、どうしよう、何しよう・・・色々考えたけど、空を飛ぶ事にした。だってたぶんこれが一番セオリーだし、楽しいだろうし、現実じゃ体験なんかできないだろ」
そこで言葉を切ってから、シバさんは僕の表情を盗み見てきた。コーヒーを飲み込んでいた僕は、曖昧に頷く。
揺れた喉が熱いコーヒーをなんとか胃へ押し込んだ所で、シバさんは口を再び開いた。
「でも飛ばなかった」
「・・・なぜです」
「夜が来てるからさ」
「え、」
「窓に夜が来てるなら、空は飛べない」
また、わけのわからない話を。僕は小さく小さくため息をついて、カップをソーサーへ戻した。
未だかき混ぜられ続けているコーヒーは、ミルクも砂糖も溶かし切って、もうきっと冷め始めている。
飲まないのかな、と思いながらそのスプーンを視線に捕らえていると、シバさんは動きを停めた。
「夢だって解かってるのに、夜が怖くて私は飛べなかった」
「シバさん、コーヒーが冷めますよ」
「不思議だろ? そこで私は目が覚める。枕の上で考えていて、はっとした」
「飲まないんですか? せっかく入れたのに」
「夜が怖いんじゃなくて、朝が来るのが怖いんだって」
ことごとく無視され続ける言葉たちを、お互いに投げ続けた。会話にならない会話が空間を乾かす。
スプーンがカップから取り出されて、ソーサーに置かれる。ああ、やっと飲むのか。
僕が安心した息を吐くと、シバさんはまた小さな声で笑って、カップの取っ手に指を絡めた。
細い喉が動き、あおられたカップの中のコーヒーが胃に収められていく光景が目の前にある。
すべてを飲み切ってから、シバさんは掠れた声で言った。
「だって朝がくれば、お前に逢えないじゃないか」
夢の中のシバさんが笑う。力なくほんのりと、笑う。
(過去作 再編)
依存症
酷く寒い風が耳元を吹き抜けて、キリのマフラーが揺れた。キリはそんなことにも気が付かないみたいに、ずっと道路を眺めている。道路を行き交う車は、白、 黒、赤、緑、青、ベージュ。アスファルト色の下地が無機質に存在し、それが一種のキャンバスにも見える。ポケットに入れた携帯が震え、昔流行った洋楽が滲 んで聴こえた。あーあ。私はもう一度呟く。あーあ。キリは気が付いたみたいだった。「なに?」「・・・ゆう」「は?」「ゆう」「ああ、ゆうからメール?」 ゆうはこの時代のために生まれてきた男だった。携帯がなければ生きていけない男なのだ。そんな男と付き合ってしまった私はなんだろう。何のためにこの時代 を選んだのだろうか。「返さねえの」私が携帯を開くどころかポケットから出そうともしないのを見かねたのか、キリは訪ねてきた。興味のなさそうな声だっ た。たぶん、ないと思う。「返さない」「なんで」珍しくキリがしつこいので、私はまた、あーあ。と言った。キリは煙草の所為で鮮度を無くした声を使ってか らからと笑った。何がおかしいのかは、わからなかった。でも訊かない。視線を落とせば、それなりに短い制服のスカートの下でふとももが鳥肌を立てていた。 背中を預けたコンクリートの壁からは、分厚いコートのお陰で何にも伝わってこない。キリの携帯が鳴いた。聴いたことのある曲だった。キリはこんな曲好き だったかなあと思いながら顔を傾けると、キリは八重歯で舌を軽く噛みながら携帯をスライドさせた。携帯も、新しくなっていた。「スライドは、画面に傷が入 るからイヤって言ってたのに」となんとなしに愚痴ると、キリはふふんと鼻で笑った。「イヤだよ」「・・・意味わかんない」「ヤだけど仕方ねえ」その割に は、別段嫌そうでもないように見えた。今度は私の携帯が震えた。またあの洋楽だった事が可笑しかったのか、キリは一瞬体を曲げて笑った。一瞬、そのマフ ラーの下から、白くごつい喉仏が顔を覗かせる。キリは携帯のボタンを押しながら鼻をすすって、ちょっと唇を噛んだ。私はキリを見ながら、「新しい彼女でき たの?」と囁いてみた。キリは真っ黒の瞳で携帯のディスプレイを眺めたまま、「ん」と言った。だから私は、ちょっとうなじを垂れて低く笑う。そして、携帯 依存症のゆうと、彼女依存症のキリは、いったいどっちがマシなのだろうと考えながら、うるさいアスファルトのキャンバスを黙視した。隣にいるはずのキリ が、遠くにいるゆうよりずっとずっと遥か向こうに居るのだと知って、頭の中がぐちゃぐちゃになっているみたいだ。たぶん私、キリの彼女より、キリのこと好 きだよ。そうやって言おうと唇を開いても、冬が乾燥させたそれはうまく開くこともなくもごついただけだった。そんな私は、キリ依存症で、たぶん三人の中で 一番最悪なのだろうと思った。三回目の洋楽が鳴った時、キリは携帯をスライドさせながら、「早く別れろよ」とどうでも良い事を言うみたいに言った。それだ けでもう十分だった。この時代を選んだ意味を見つけた私は唾を飲み込んで、あーあ。と嘆いた。
過去作(09/11/23)
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