鮪
始発を待っている間、音楽を聞き流しながらもぼうっとしていたので、思わずうつらうつらと船を漕いでしまっていた。急に覚えた喉の違和感に、不可抗力で出た咳を吐き出してから、はっとして辺りを見渡す。そうして此処がどこだったかを理解したあと、まだこのどうしようもない現実から抜け出せていないことに気がついた。昨日、彼女の家で、彼女に言われた言葉がふと頭に浮かんでくる。「ねえ」彼女はやわらかな唇をすこし震わせていた。何を言われるのかわかって、 俺は中途半端に立ち上がりかけた自分のそれが、じわじわと大人しくなるのを感じる。「あなた、わたしのことすこしもわかってない」確かにそう言われた。一字一句違わず、彼女は俺に向かってそう言った。駅のホームに、朝を迎えた電車が滑り込んでくる。その音にかき消された、思い出の中の彼女の泣き声。(わかっていないのは、お前もなのに)(だって俺はなんだって我慢ばかりで)(お前のわがままに応えてあげていたのに)(どうして俺が)ふらりと揺れた体が、 寝言を交えるように重力に従った。「あっ」どんなに辛い事を言われたって、どんなに嫌な事をされたって、他の人なら耐えられたっていうのに。後ろに並んで いた女性の悲鳴が耳を劈いて、ホームに俺の意識が飛び散った。(おまえだけは、)(いつかおれをあいしてくれるって、) 気の遠くなるような轟音の中で、 俺は愛の夢を見る。
過去作(10/04/16)
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失恋記念日
AM 10:00 【普段より少し遅めの起床】
ちょうどよく休みだったから、10時に起きた。外はぴかぴかに光る晴天で、半開きにしたカーテンから細い太陽光が洩れている。あたしはそれを眼をこすりながら見て、大きく伸びをした。ついでにうつぶせになって、ネコのポーズ。なんとなく、にゃあんと鳴いてみたけれど、起きたての声は掠れていて可愛くもなかったから、布団を蹴ってベッドから下りた。
そんで、綺麗に布団を揃えてから、顔を洗った。洗顔料をたっぷりと泡だてて、ぬるま湯で綺麗に洗い流す。鏡の中のあたしはえらくぼんやりとしていて、残った眠気を拭うように冷水でぴしゃりと顔を打った。それから、パジャマにしてるくたくたになったシャツとジャージを脱ぐ。タンスから一番お気に入りのブラジャーを選んでつけて、一番お気に入りのワンピースに袖を通した。外はすこし寒いんだろうから、厚めのタイツを履く。
時間をかけてゆっくりとメイクをしている間に、TVをつけて短編ショートムービーを見た。知り合いの知り合いが作ったというその映画は、無理矢理買わされたもの。ながら作業で見ていると、主人公の女の子が、急に図書室を荒らし回る場面が眼に飛び込んでくる。「あたしは生きてるんだー!」女の子が叫んだ。なんだそりゃ。ちょっと吹き出すと、アイラインがよれそうになって、慌てて軌道修正。よし、大丈夫。ビューラーで念入りに睫毛を上げて、友達にもらってから一回も使わなかったつけ睫毛を添える。何度か瞬きして、鏡の中のいつものあたしが完成した。(あ、だめだめ、チーク忘れてる。)あたしはあたしに微笑んで、少し盛り上がった頬の部分にチークを付ける。完璧。
AM 10:45 【カフェでモーニングセット】
駅前に新しくできたカフェは、おしゃれでかわいいところだった。外見はレンガ造りのお屋敷みたいで、まさに女の子の夢がつまってるみたいなカフェ。店内も綺麗で質素で、ぬるいピンク色がよく映えた。店員さんはみんな清潔そうで、笑顔も素敵。あたしの中で今のところカフェランキング1位ですよ、この店。お水を持ってきてくれたウェイトレスさんに心の中でそう言って、モーニングセットを注文した。あたしはモーニングセットなんか頼まないんだけど、今日は特別。
11時までやっているというモーニングセットは、やわらかくておいしいパン2枚と、それに乗せる自家製ストロベリー・ジャムとチョコレートムース、無農薬野菜を使ったしゃきしゃきの野菜サラダに、甘いコーンスープ、そして豆からひいたというエスプレッソ、というメニューだった。どれも美味しくて溜息が出そうになる。ああ、モーニングセットってこんなに美味しいんだ。余すところなく食べつくして、最後にゆっくりとエスプレッソを飲んだ。ガラス張りの向こうにある下界は喧騒や雑踏に包まれていて、まるで別世界のように感じる。せかせかと歩くスーツの男性、手首の内側にした時計を見ながら走る女の子。世界はいつも猛スピードだ。(でもあたしは今、飛ぶように自由!)
AM 11:30 【散歩がてらの雑貨屋さんめぐり】
カフェを出てから、あてもなくぷらぷらと歩いていると、見たことのない道に出てしまった。あれ迷ったかな、と思いあたりを見渡すと、向こうの方に高いビルが見える。あ、あれ、うちの会社のビルだ。うん、大丈夫。そのまままっすぐ進んで、右に曲がり、今度は左に曲がってみると、小さな看板がいくつも並んでいる道に出た。おお、雑貨屋さん通りだ。
ぽつりぽつりと並ぶ雑貨屋さんの数は、5つだった。一件一件に入り、時計を付けてみたり、ピアスを耳元にあててみたり、指輪を薬指にはめたりして遊ぶ。かわいいピアスがひとつ、3件目で見つかったので、それは購入した。1800円。(安くない、安くないけど、今日はいいの。)自分を納得させて、その場でピアスをつけさせてもらった。パーマをゆるくアレンジして結んだ今の髪型によく似合っていると、店員さんが褒めてくれて、いい気になってお店を出た。
5件目では、そういえばと思いだした友達のエリーに渡すプレゼントを買った。小さいハートがふたつ繋がっている、赤いネックレス。金色のチェーンも細いから、あの子の白い肌に合うだろう。エリーが喜ぶ顔を想像しながら、かわいく包んでもらった。大事に大事に鞄に収める。
PM 13:00 【本屋さんへ】
会社のビルを目標にしながら、来た道を帰って、よく利用する本屋さんに入った。そこは家から近くて、しかも結構品揃えがいい。あたしの好きな作家の新刊が出ていたはず、とコーナーを覗いてみると、ちゃんとそこに積まれていた。ひとつ手に取って、引っ繰り返してあらすじを読む。
『「私は生きる意味を見失ったのです」洋司は、図書館でそう嘆く女性に出逢った。彼女のことをなにひとつ知らないのに、なぜか惹かれてしまう洋司。洋司には付き合って2年経つ彼女、小夜子がいたが、小夜子は精神障害に悩み日々洋司に暴力を振るうようになる・・・。』
ここまで読んで、あたしは少し笑ってしまった。また図書館かよ、みんな図書館好きだなあ。そういえば耳をすませばも図書館の出逢いよね。上から3番目の本を取って、ユーミンの「ルージュの伝言」を脳内で口ずさみながらレジに向かった。(あっの人の、ママに逢うために~、)あ、ママの声、久しぶりに訊きたいな。
PM 13:30 【公園のブランコで】
本を買ってから、すぐ近くにある公園のブランコに乗って、携帯電話を取りだした。やんわりと足を動かして、低い位置にあるブランコを動かしながら、ママの携帯にコールする。ママは4コール目の途中で、「はーい」と声を訊かせてくれた。
「ママー、元気? あたしよ」
「あたしあたし詐欺。私は引っかからないわよ」
「はいはい。わかってるって」
「どうしたのよ電話なんて、珍しい」
「いや、久しぶりにね、ママの声訊きたくなって」
「・・・何かあったの? 元気ないじゃない」
「ウソー! ちょう元気だよ、お腹いっぱいだし」
「そーお? まあ、深くは訊かないけど、あんた、無理しちゃだめよ」
「だからなんにもないってばー。心配症だなあ」
「娘の事が心配じゃない親がどこに居ますか。年末は帰るんでしょ?」
「もちろん。パパにも逢いたいしね!」
「伝えとくわ」
「じゃ、またねママ。今、外だから」
「元気でやんなさいよ、あ、連絡もマメにしなさいね、じゃあ」
ママはすこし早口に言って、電話を切った。こういうとき、親って妙にするどい。なんなんだろう、この、血筋のカン、ってやつ。きしきしと錆びたブランコが鳴いて、そろそろ降りてとも言いたげにあたしを突っぱねた。あたしもその気だったっての、なんて呟きながら、また歩き出す。(バスルームに、ルージュの伝言~、)
PM 14:00 【ニーナ】
本屋さんの隣にある、レンタルビデオ店は、大手チェーンで有名なところだった。青い看板に黄色い文字、太陽に光ってすこし眩しい。この春に買ったヒールを鳴らしながら入店すると、一番に眼に飛び込んできたのは、お店の制服を着て、プラスチックのケースを抱えているニーナだった。
「えっやだ、ニーナ!」
「わーびっくりした、久しぶりじゃん」
びっくりした、だなんて言ったわりに、ニーナは唇の端をすこしあげて笑っただけだった。ニーナとは高校の同級生で、なんとなーく一緒にいて、なんとなーく交流が続いている、数少ない友達のひとりである。
「ねえ髪型変えた? あ、色か」
「両方。切って、明るくしたんだ」
のんびりと歩きながらも、DVDがたくさん並んだ棚を確認しながらニーナは歩く。数字で言えば、ニーナの身長はあたしとおんなじなんだけど、ニーナはいつもしゃんとして歩くから、あたしの方が小さく見えた。でも今は、ヒールを履いたあたしのが上だ。ニーナの頭はつるんとしたキューティクルに覆われていて、やや明るめの茶髪がミディアム・ボブに揺れている。
「ていうか、いつからここで働いてんの?」
「えー、先月・・・かな」
「気付かなかったよ」
「よく来るんだ?」
「家近いもん」
「そーだっけ」
あたしたちが遊ぶ時は、いつもニーナの家に行くようにしていた。だからニーナは、あたしの家を覚えていないんだろう。今度はあたしの家に招いて、得意な料理でも作ってあげようかな。(カレー、たこ焼き、ホットケーキ・・・、)ニーナはプラスチックケースをDVDのパッケージに戻している。
「あ、ねえ、おススメは? 思いっきり、笑えるやつ」
「笑えるやつか。邦画? 洋画?」
「どっちでも」
「じゃあショーン・オブ・ザ・デッドかな。あほだよ」
「怖いの?」
「ちょっとグロいけど、あんたグロ系は平気でしょ?」
あたしが頷くと、ニーナはこっち、と言って店内を速足で歩きだした。この迷路みたいな広い敷地を、ニーナの黒いハイカットシューズが踊る。ニーナの後姿はいつも凛としていて、あたしは、結構、彼女のことが好きだ。(本人には言わないけど。)
PM 15:00 【おやつの時間】
ニーナの言う映画と、邦画で人気だというものをそれぞれ借りて、ちょうど休憩に入るニーナと外に出た。ニーナは制服の上着を脱いで、ヒョウ柄のマフラーを首に巻いている。白いシャツにそれが良く合うから、少しおかしくて笑ってしまった。ニーナはあたしのワンピースの裾をぴらっとめくって嫌がらせをしながら、裏路地に行こうと言う。
「なにがあるの?」
「ケーキ屋さん。最近できたんだけど、美味しいよ」
「いっくー!」
モーニングセット以来、小腹も空いてきたころ。ニーナみたいにスレンダーじゃないあたしは、普段なら我慢するケーキを食べることを即決した。だって今日は特別なんだもん。ニーナの後姿を追いかけながら、「やさしさに包まれたなら」をハミングした。
「小さい頃は神様が居て、不思議に夢を叶えてくれた、かあ。ほんとにそう思うね」
ユーミンなんて聴きそうにないニーナが、モンブランをつつきながらそう言った事に、あたしはびっくりした表情をしていたのだろう。ニーナは一瞬あたしの眼を見て、「魔女の宅急便はジブリで一番好きなんだよ」と笑った。
「え、あれ、『耳をすませば』じゃないっけ?」
「違うってそれは、カントリーロード」
「あああ、そーだあ、間違えてた」
「なにを?」
「歌」
「別にいーじゃん、あんたの歌なんてどうでも」
言葉は冷たいけれど、ニーナが言うそれは、励ましの言葉だってことにあたしは気付いている。イチゴがたくさん乗ったタルトを頬張りながら、テーブルの下でニーナの足を蹴ると、蹴り返してきた。
「あのさあ」
休憩時間が終わるニーナに合わせて、一緒に店を出ると、おもむろにニーナが振り返った。
「今週末ヒマなら、うち来なよ。慰めてあげるから」
「・・・なに、慰めるって。別に落ち込んでないよ?」
「ヒマ?」
「ヒマだけど、ニーナ。あたし、」
「じゃあおいで。実家からカニ届いたから、鍋しよ」
うそ、カニ!? 叫んだあたしに、ニーナは甲高く笑った。ニーナの笑い声は、路地に響く。あたしたちは舌を甘くさせたまま、一番最初にカニを食べたのはいつだったかという話題についで熱く語り合った。(ちなみにあたしは、中学2年の時、北海道への修学旅行で。ニーナは3歳の時だった。)
PM 15:30 【帰宅】
いい具合に日も暮れてきたし、DVDが見たいから帰ることにした。ひさしぶりにゆっくりと街をまわって、大満足。玄関で鏡を見ると、きらりとピアスが光って揺れた。エリーへのプレゼント、ママへの電話、面白いDVDに、ニーナと鍋の約束。素敵な半日だ。あたしはワンピースを着たままで、ベランダに行き、先輩に貰ったいいにおいのする煙草を一本だけ吸った。
それから部屋着に着替えて、『ショーン・オブ・ザ・デッド』を見る。ニーナの好きそうな映画だ、と思いながら、帰り道にあるコンビニで買ったミルクティーを飲みつつ観賞する。時折声を出して「くだらな!」と笑ったりして、ちゃちなグロシーンににやついた。おもしろい。その後で続けざまに邦画を見たけれど、こっちは妙に凝り固まっていて、あたしの好みじゃあなかった。プレーヤーから取り出しながら、少し唸る。
PM 19:00 【肉じゃがとジュンちゃん】
自分の為に料理を作るっていうのは、めんどくさいことだとおもう。でも今日は特別、あたしを甘やかしてあげる日だから、あたしは肉じゃがを作った。こっちで独り暮らしを始める際に、ママが手書きでくれたレシピを見ながら、慎重に作っていく。じゃがいもの皮をむいたりにんじんを切ったりするのは随分とひさしぶりな気がして、思わず苦笑した。このレシピだって、はじめて使ったっての。
できた肉じゃがは、不格好で決まらない外見だったけど、案外美味しかった。ママの味とまではいかないけれど、それに近いものを感じる。TVを付けて夜のバラエティ番組を見ながら、炊いたばかりの白ご飯と一緒に頂いた。よく咀嚼していると、不意に携帯のバイブ音が聞こえる。膝をついてずるずる鞄まで移動し、携帯のストラップを引っ張ってそれを取りだした。
(メール、)
お箸を口に挟んだまま、慌てて受信ボックスをチェックする。
ジュンちゃんだった。バンドマンのジュンちゃんとは結構疎遠になっていて、ときたま、こういうライブ案内が来るだけの仲になっている。(紛らわしいことすんなよ!)ジュンちゃんに罪はないけれど、ちょっとむかついて、携帯をベッドに放り投げた。
PM 21:00 【あわあわマンゴー】
ご飯のあと、だらだらとTVを見たり漫画を読んだりしているうちに、時刻は回っていた。だらしなく身を預けていたベッドから起き上がって、バスルームに向かう。腕まくりをして、ジャージの裾を折り上げ、丹念にバスタブを洗った。掃除用のシャボンが粟立って、指先に出来た傷にちょっと沁みる。傷なんていつ付けたんだろう、と考えようとして、やめた。どうせさっきの料理中だ。気がつかないくらいの傷なんてないのと一緒。ごしごしと水垢を拭いながら、カントリーロードを英語で口ずさんだ。うろおぼえだから、わからないところは適当に、それっぽく。
お風呂にお湯を張っている間に、歯を磨いて、着替えを準備し、ニーナがくれたバスグッズを漁る。確か、疲労回復とかそういう効能がある、なんかがあったはず。探っていると、「あわあわマンゴー」といううさんくさいものを見つけた。あわあわ、って、つまりはジャグジーってこと? しかもマンゴーって、なんで、お風呂で、マンゴー。ニーナのセンスはちょっと変。(それともこれってボケてんの? ツッコんだらいいの?)
PM 21:15 【バスタイム】
しっかりお湯の温度を確認してから、「あわあわマンゴー」の固形剤を放り込んだ。瞬間、しゅわしゅわとマンゴーの形をしたそれが暴れ出す。あたしはそれから視線を逸らさないで、防水スピーカーの中に入ったiPodの曲を聴きつつ頭を洗う。シャンプーは念入りに流して、トリートメントを塗りたくる。髪の毛をざっとバレッタでまとめてから、体を洗い、バスタブに飛び込んだ。
あたたかくて、あわあわ、そんで、マンゴーのにおい。あわあわマンゴー、意外にいい仕事するじゃないの。湯船いっぱいに広がったきめ細かい泡を、まるで映画みたいにふうっと吹いたりして、ひとりできゃっきゃと笑う。iPodからはしっとりしたバラードが続いていて、ランダム再生が空気を読んでくれないことに不満を覚えた。
「ハッピーソングが聴きたいのよ、あたしは」
iPodに話しかけると、聞こえないふりをしてるみたいに、次の曲もバラードを流される。(このやろう、濡らしてやろうか。)(いやでも、困るのはあたしだ。出勤の時に耳が寂しい。)
じっくり汗をかいて、泡だらけのバスタブで遊ぶことにも飽きて、トリートメントを流す作業に移る。これはちゃんと洗い流さないと、髪の毛が乾きにくくなっちゃうから、正念場だ。丁寧に丁寧に、何度もお湯で流しながら指で梳いた。これで明日はつるつるよ。前かがみになって髪を流していたあたしが不意に顔をあげると、バスルームの鏡には貞子が映っていた。貞子、リング、リングの曲って、なんだっけ。iPodは今更、あたしの大好きなレッド・ホット・チリ・ペッパーズを流し出した。(おっせーよ、もう出るよ!)
PM 22:30 【就寝】
明日からまた仕事、が始まる。普段ならめんどくさいから絶対にしないブローをやって、パーマを慎重に乾かすと、本当に天使みたいなキューティクルが浮き出てきた。なんだあたしは天使だったのか。てろてろりーん、じゃあこんなところに居る場合じゃないな、天国に帰らないと。(あっリングの曲、思いだした、くーる、きっとくる~、)(キー高い、出ないっちゅーの)
あたしは今日という1日を満喫した。もう十分楽しんだから、昨日の涙は無駄じゃない。あたしの告白は「あわあわマンゴー」の泡みたいにきめ細かかったけど、シャボン玉より弱くって、すぐに割れちゃったんだ。あたしが逢って言った「好きです」も、彼の「考えとく」に流されて、結局メールの1文で終わりを告げたんだもん。
―ゴメン、恋人としては見れない。
「・・・じゃあなんでデートしてくれたの。なんでいっぱい電話してくれたの。メールしてくれたの。なんで、なんで、セックスしたの!」
喚いても何も変わらないっていうのに、あたしは部屋中いっぱいに響くくらいに叫んだ。わかってる。ほんとはぜんぶわかってる。彼があたしを誰かの代わりにしようとしたことも、セックスなんて好きじゃなくてもできるってことも。(たとえあたしはそうじゃなくても、彼はそうなんだ。ただのダッチワイフみたいなもの。)
あー、あたし、また泣く。なんだよ、今日、楽しかったくせに。明日がんばって仕事行って、そんで、週末まで耐えたら、ニーナの家でカニ鍋食べて・・・、たぶんまた泣くんだろうな。そんでニーナはきっと、「失恋と酒に酔おうよ」と笑ってくれる。
「あ、あたしは生きてるんだー、ぐすっ」
明日は、晴れますように。
スカイラブ
もぉいいかぁい!
どこかで、子供の声がする。アタシはベランダの窓を開け放ったまま、ぼんやり、夕方からビールを呑んでいた。爪先がすこし、さむい。見たこともないような派手な柄のカーテンが、ゆらりゆらりと、アタシと部屋を煽った。アタシは白いテーブルの上に乗っている、メンソールの煙草を眺めながら、缶を指でリズムよく叩く。
アタシがクッキーの部屋に来たのは、すこし久しぶりだった。
クッキーと初めて出逢ったのはちょうど1年前。大学で出逢ったクッキーは、その時、自販機の前でうろうろと歩いていた。クッキーはこの時代、髪の色がまっピンクで、しかも綺麗に切りそろえられたおかっぱだったから、誰よりも目立っていた。でも、誰とも群れないでひとり、ぼんやり遠くを見たり、小さな文庫本を読んだり、花柄のヘッドフォンで音楽を聴いたりしている。不思議な子だなあ、なんて思っていた矢先に、彼女を見かけたのだ。
アタシは彼女に、黙って100円を差し出した。昨日、煙草を買ったおつりがポケットに入っていたのである。それは本当に偶然だったのだが、20円しか持っていなかった彼女は、どうしても飲みたかったというホットミルクティーを買う事ができた。しかもそれが、ちょうど最後のひとつだったということで、えらく彼女は喜んだのだ。
「わあ、とってもラッキーだわ、ありがとソラさん!」
「…なんでアタシの名前、」
「イギーが呼んでたもの」
イギーとは、アタシの唯一の友人であり彼氏でもある、同回生の男だった。五十嵐だから、イギー。よくわからないが、彼は小学校からそう呼ばれているらしい。
「なんだ…イギーの友達?」
「そうね、うん、そう言ったらそうよ、でも私達は同士なの」
「同士って?」
「あなたを愛する会」
クッキーは、一本だけ抜けた前歯を見せて笑った。そのあどけなく、あたたかい微笑みと、最強の口説き文句に、アタシはあっさりクッキーにおちたのである。
クッキーにあの時の話をすると、「イギーが、そう言ったらあなたと友達になれるって言ったの」とだけ返された。クッキーは耳に開けたピアスホールを掻きながら、なんでもないように言ったので、「なんだそんな単純な事か」と思う。イギーのばかみたいな冗談と、クッキーの持つ独特で惹きつけられるような存在感に、アタシはまんまとはまった。きっとイギーは、アタシとクッキーを結び付けたかったのだのだろう。
イギーはクッキーをひどく珍しがっていて、「彼女はきっと火星人だよ」と言うのだ。イギーはアタシと、火星人のクッキーを研究しようとした。だけどクッキーは、火星人ではなく、ただの宇宙人だった。
クッキーはアタシに影響されて、煙草を吸い始めた。アタシは、イギーの影響で吸い始めたから、嫌な連鎖である。なんやかんやでいろいろあって、アタシとイギーは同棲をはじめた。クッキーはひとりで、遠いようで近いような場所に、アパートを借りて住んでいる。だからアタシたちはよく、お互いの家を行き来して、いつも一緒にいるようになった。
そんで、アタシは今、クッキーの部屋でビールを呑む。向かいのマンションの、5階のベランダに、白と黒のペンキで汚れた作業着が干してあった。あそこはいつもそれと一緒に、女物の服がかかっていたんだけれど、見当たらない。どうやら5階のカップルは別れてしまったようだ。アタシとイギーも、明日は我が身かな。もちろんイギーは好きだけど、同棲っていうものは、ほんと、長くは続くもんじゃないと、アタシはおもう。
もう少しでビールの缶が空く、といったところで、クッキーが帰って来た。がちゃがちゃ、とドアが開き、薄いシャツ一枚と短いデニムスカートを穿いたクッキーが飛び込んでくる。アタシはすぐに缶をテーブルに置いて、身を乗り出した。
「クッキー、あんた、上着は?」
「私ね、買い物のついでに、クリーニング屋さんに行ってきたの」
クッキーの話は脈絡がないようでいて、実はある。アタシは黙って、クッキーのメンソールを勝手に一本、頂いた。イギーがくれたジッポで火を付けて、すうと吸い込む。
「待って、換気扇の下で吸いなさいよ」
「わぁってるよ、んで、上着は?」
「ああそうそれでね、4着、コートとジャケットを預けてきたんだけど」
そういえば、出かける前のクッキーは、随分と大荷物だったような。
「あと1着あれば割引出来ますよって言われたから、あの上着も置いてきちゃった」
「…お前、その間、どうすんの。一週間くらいかかるでしょ」
「別にどうってことないわ、マフラーとストールがあるし、ソラさんのジャケットもある」
「着る気かよ」
「貸してくれるんでしょ?」
換気扇の下に移動して、メンソールを吸うアタシに、クッキーは振り返って笑った。ああ、もう。あたしはこの、唇の隙間から見える、歯一本分の、空っぽに弱いのだ。あんまりかわいいもんだから、思わず「しょうがない」と呟いてしまう。
「ねえ寒いから、窓閉めていい?」
「あ、待って、向かいのマンション別れてるよ」
「知ってる。3週間前から、女物の下着とお洋服が消えたわ。洗濯も3日に1回になった」
クッキーは、ついこの間髪の毛を金髪から真っ黒に染めた。真っ黒のストレート。ピンクのボブから金髪のベリーショートを経て、こうなったのだ。クッキーの髪型はいつもころころと変わる。
「あと、子供がかくれんぼしてる」
「さっき、最後の子が見つかった。トタンの上に隠れてたの。頭いいわよね、上に隠れるなんてさ。でもね、鬼の子はカーブミラーを見て、みぃつけた!って叫んだのよ。聞こえなかった?」
「…聞こえた、ような」
「鬼の子が一枚上手ね。鏡の利用。私、鏡って不思議で好きよ」
クッキーは黒髪を肩に払いのけて、買ってきたのであろう、鍋の具材をキッチンに並べはじめた。白菜、豚肉、鶏肉、白ネギ、ホタテ、うどん…。
「あー、ねえクッキー、シメはラーメンってゆったのに」
「私はうどんが好きなの! だけどあなたたち、同じ事言うわね」
「なに?」
「イギーもシメはラーメンがいいって」
「じゃあ多数決でラーメンでいいじゃんか」
「ここは私の家だわ。私がルールなの」
堂々と言い放ったクッキーの細い足は、黒いタイツ一枚で護られていた。その下には薄く透けそうな白い皮がある。アタシはクッキーの、この、なんでもないような体と雰囲気が、好きで好きでたまらなかった。それは、イギーに対する愛情と、まったく同じようなものだったのかもしれない。
「で、イギーは?」
「ラーメンを買いに行ったわ」
「ぶはっ」
思わず吹き出すと、煙草の灰がコンロの上に零れ落ちた。クッキーはえらく綺麗好きで、こういったお粗相を許さないので、アタシは気がつかれないように、ふうっとそれを吹いて床に落とす。ばらばらに散った灰は、まるで雪みたいに、フローリングと空気に消えた。
「ねえビール、飲んだの?」
「あ、まだちょっとある」
「寒くなったわね」
「もう冬が来るよ」
「いいわね、私、冬って好きだわ」
クッキーの好きなものは、いっぱいある。ミルクティー、チョコレート、ニルヴァーナ、ブルース・リー、あとベンジー。それから鏡に、オシャレと、うどんと、メンソールに、ビール、そして冬。
「ねえクッキー、あんた、嫌いなもんってあるの?」
「あるに決まってるじゃない」
「なぁに、教えなよ」
ふふ、とクッキーは笑った。
「イギーよ。恋のライバルなの」
あー、クッキー、それはダメだよ。アタシはそう言って、コンロの横にある灰皿に煙草を押し付けた。吸い寄せられるように近寄ったくちびるが、甘く触れ合う。クッキーのキスはミルクティーの味がして、アタシのメンソールと一緒に溶け合った。イギーがドアを開けようとする音が、聞こえる。
「カギ開けてよ、ソラ! クッキー! いんだろォ」
ああ、邪魔すんなよ、アタシの可愛い恋人イギー。今ちょっと、浮気してるからさ。
アップル・ピープル
彼女の家の冷蔵庫には、いつも林檎がふたつ、入っていた。
何故林檎を冷蔵庫に入れるの?と聞くと、
「だって、冷えた林檎は美味しいじゃない」
と、ふわりと微笑まれた。
その割に彼女は不器用で、うまく林檎が剥けず、皮にたくさん実を付けたまま生ごみを排出していた。
包丁の持ち方があんまり危なっかしいから、おちおち安心してもいられず、傍についていると、
「そんなんじゃ集中できないから、あっちいってて」
と、彼女は恥ずかしそうに答えた。めったに照れる事のない彼女の、貴重な表情だった。
ある日、彼女は包丁で指を切った。
ほらいわんこっちゃない、と、消毒液を含ませたティッシュでそれを拭ってあげていると、
「あんがい、包丁で人間の肉って、切れないものなのに」
と不満げに洩らされた。そんなことはない、牛肉も豚肉も鶏肉も、この包丁で捌かれている。
包丁は危ないから、君は遣わない方がいいよと忠告しながら、カットバンを張ってやった。
その日から僕が、林檎を剥くようになった。彼女はひどく落ち込んでいた。
林檎の皮剥き以外はなんでもできる彼女の、唯一の汚点だったのかもしれない。
冷蔵庫の林檎は、ひとつ減ればひとつ足すというリズムで保持されていた。
だけどもある朝何気なく、彼女の家に行くと、冷蔵庫からふたつの林檎が消えていた。
こんなことは珍しかったので、僕は稀に見る動揺っぷりを見せた後、慌てて家を探った。
彼女はどこにもいなかった。
もう一度冷蔵庫を開けても、林檎はどこにもなかった。
マヨネーズやお茶、しなびたレタスはそこにあったのに、真っ赤な林檎だけがなかった。
僕はそれが心底哀しくて、辛くて、切なかった。
衝動的に包丁を手に取って、左の手首にその刃を当て、強く押し付けて引っ張ると、
まるで猫が引っ掻いたみたいな、うすいうすい切り傷ができた。
僕の予想していたものとは違う。僕はもっと、血が出るように、切ったのに。
僕はそこでようやく、彼女が、包丁であんがい人間の肉は切れないと言った事を思い出した。
キッチンにへたりこんだ僕を慰めるみたいに、冷蔵庫が電気を操って呻く。
ゴミ箱には、実のたくさんついた、不器用に剥かれた林檎の皮がたくさん、詰め込まれていた。
浮気症のシンデレラ
あたしがする呼吸なんて、あなたのする呼吸とはぜんぜん違う。あなたはこんな街にいるくせに穢れもしないで、ふんわりした毛先を風に踊らせていた。生きている意味だって知らないような、どうしようもないあたしの声を聞きながら、うとうとと船を漕いでいる。
あたしはあなたの好きな、「シンデレラ」のお話を読んであげていた。ひょろひょろと背の高いあなただけれど、頭の中はいつも可愛い女の子みたいなことばっかり考えていて、童話が大好き。特にシンデレラは、お気に入りだった。あたしはそれについて一度、あなたに聞いたことがある。
「ねえ、なんで、シンデレラが好きなの?」
「んー?」
「シンデレラは、ほんとは残酷なのよ。グリム童話ではね」
「そうなの? 知らなかったなあ」
「ねえ、どうして?」
「どうしてって、ねえ、お前はどうして僕が好きなの?」
質問してるのはあたしだっていうのに、あなたは平然と笑いながら返してきた。だけどあなたは変な人だし、こうやって質問を返してくることだって少なくないから、あたしも面喰わずにううんと唸る。
「理由なんか忘れたわ。だってあたしとあなたが出逢ったのは、もうずっと前だもん」
「僕もいっしょ。僕とシンデレラが出逢ったのは、もうずっと前だから、忘れちゃったんだ」
それとこれとは別じゃない! って、普通の女の子だったら思うんだろうけど、あたしとあなたの間にはそんな“普通”なんか存在しなかった。普通じゃないって、とってもすてき。
12時の鐘が鳴って、シンデレラの魔法が解けてしまったころ、あなたは小さな一人掛けソファの上で、くるりと丸まったネコのように眠ってしまった。その傍に座り込んでいたあたしは、白い絨毯を指でなぞりながら、そっと絵本をたたむ。物語はこれからだっていうのに、あなたは関係なく、眠り姫ごっこに集中し始めたのだ。時折、上から降り注ぐ寝息が、あたしの耳を甘やかしてくれる。あなたが眠り姫なら、あたしがキスをすれば起きてくれるのかしら。
(ううんきっと起きないわ、だって、あたしはあなたの王子様なんかじゃない。)
あなたは眠り姫のお話が、あんまり好きじゃないんだって、昔に一度言っていた。眠り姫はただただ不幸に生まれたけれど、ずうっと眠っていただけ。王子様がいなくちゃ、なんにもできない。衰えることのない美貌の中で、茨を飼い馴らして呼吸をしていただけなんだ。そんなの人間じゃない、そんなのおかしいって、あなたは少し、怒ってた。
そんならシンデレラだって、魔法使いがいなくちゃなんにもできなかったじゃないって、あたしは思ったんだけど、確かに惰眠を貪っていた眠り姫より苦労はしてるし、何より自分の意志と勇気で、舞踏会に足を踏み入れた。そこが眠り姫とは違うのかなあって、ひとりで納得するあたし。
音の無い時計の針が、あなたを起こさないように、静かに動いた。時刻は夜の12時。魔法はどろどろ解けて、シンデレラは煌びやかなドレスから粗末な洋服に、美しい馬はネズミに戻る。あなたは寝静まっていて、魔法が解けただなんて少しも感じさせなかった。
どうやら、あなたが眠り姫じゃなくシンデレラだったとしても、あたしはあなたの王子様なんかじゃないみたい。あたしは、あなたのためのカボチャの馬車。魔法が解けたら、ただのカボチャに戻ってしまうのよ。
ソファの傍から立ち上がったわたしは、なんでもないように些細な伸びをして、シンデレラの絵本を本棚に仕舞った。もうそろそろカボチャも美味しい季節ね。秋がすぐそこまで来てる。お伽話の中にいるみたいに端正なあなたとお別れをして、あたしはゆっくり、玄関へと向かった。
「さようならよ、シンデレラ」
カボチャのあたしは、何の痕跡も残さないようにして、シンデレラの家を去る。呼吸さえも見逃さないように、慎重に。もうあたしも眠る時間。明日の朝には、いつものように、王子様があなたを迎えに来るわ。あなたにぴったりの、ガラスの靴を持ってね。だからあたしは、王子様に気がつかれないように、そっとあなたを置いて行く。長い間、本当に長い間、あなたはあたしだけのシンデレラだった。でももう、もう、いいの。
(ああ残酷な、グリム童話!)
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