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みぎうえ



おじいちゃんは大きな水槽を持っていた。
そのなかには綺麗なきれいな人魚が6匹、いつもゆらめくように泳いでいて、僕は水槽にへばりつきながら、人魚たちを見るのが大好きだった。

ふわふわの髪の毛を波に乗せて元気に泳ぐ人魚、顎のあたりまでの短い髪に可愛らしい花飾りをつけている人魚、ちょっとすました顔でくちびるをとがらせている人魚、
いつも後ろをむいて顔を見せてくれない人魚、おじいちゃんが水槽に近付くと微笑みながら近付いてくる人魚。僕はどの子も綺麗だと思ったけれど、たった一匹、好きで好きでたまらない人魚がいた。



彼女は、うすい桃色の髪の毛に、控え目な朱色のリボンをつけていた。細い腰にはぽこぽこと脊椎が浮いている。小ぶりだけど可愛らしい胸は僕の視線を捉えて離さない。下半身の魚の部分はたっぷりと肉を含んでいて、一枚一枚丁寧に張り付けたような美しいうろこが、泳ぐたびにきらきらした。尾ひれは平べったくて、静かに波を揺らしている。物憂げな瞳はスカイ・ブルー。時折ゆっくり行う瞬きが、とても妖艶に見えた。
彼女はいつも、僕が水槽にへばりついている間、緩慢な瞬きのあとにくちびるを少し動かしながら「みぎうえ」と言う。だから僕は彼女の声に従って右上を見るけれど、そこにはおじいちゃんが水槽の横に寄せた大きな古時計があるだけで、他にはなにもない。僕もおなじように「みぎうえ」とくちびるの動きだけで言うと、彼女はふっと微笑んでくれた。



ある日、おじいちゃんが死んだ。それはあまりにもいきなりで、僕は本当に哀しかったのだけれど、お父さんとお母さんは、なんにも言わなかった。人魚ばかりにかまけていたおじいちゃんが、あんまり好きじゃなかったのだと思う。
とりあえず人魚たちをどうするかという話になったけれど、お父さんは人魚に興味はないし、お母さんにいたってはこの子たちが大嫌いだ。いつも、「災いを呼ぶ」と言って近付きもしない。
両親が出した決断は、海に捨てることもできないので、親戚に人魚を譲ろうということだった。僕がさみしそうにしているのに気付いてくれたのか、お父さんが「どれか一匹、お前にあげよう」と言ってくれた。僕はもちろん、「みぎうえ」を選ぶことにした。そうして「みぎうえ」以外の人魚たちは、お父さんの手によって、親戚の人たちにわたっていった。


僕と「みぎうえ」の生活がはじまった。
「みぎうえ」はひとりぼっちになってしまっても、いつものように憂い表情で水槽を泳ぎ回っている。僕が学校から帰ってきても、大抵は僕のことなんか気にしないで、髪の毛を撫ぜたり小魚と遊んだりしている。広くなった水槽の中、みぎうえは自由に泳いでいるけれど、楽しそうなのかそうでないのか、僕にはわからなかった。

中学校にあがって勉強が忙しくなると、もやもやした気持ちを忘れるために「みぎうえ」を眺めてしまい、水槽から離れることができなくなった。お母さんがヒステリックに怒っても、僕はずっと「みぎうえ」を眺めていた。「みぎうえ」は僕をぼんやり見ながら、「みぎうえ」と言った。ひどい時は一日中、僕と「みぎうえ」はくちを同じ形にぱくぱくさせるだけの時間を過ごした。



ある日、学校の帰り道に、クラスメイトの女の子を見た。彼女は制服のまま、小さな雑貨屋さんに入ると、とても嬉しそうな顔で出てきた。彼女の髪の毛には、ふわふわした赤いリボンがついていた。それは本当にかわいくて、僕は彼女の名前も知らないのに、心臓のほうが思わずどきりとしてしまったぐらいだった。
僕はすぐさま雑貨屋さんに飛び込んで、「さっきの子とおなじものを下さい」と店員さんに告げた。背の高い女の店員さんは、最初はすごく変な顔をしたけれど、僕が「プレゼント用で」と言うとにっこり笑った。「彼女を大切にね」と最後に言われたので、僕は笑顔で頷く。家に帰って、「みぎうえ」にこれをあげれば、彼女はきっと僕に笑いかけてくれる。水の流れにこのふわふわのリボンが揺れると、本当にきれいだろう。



赤いリボンを持って、「みぎうえ」の水槽に走ってむかうと、そこにはお父さんが立っていた。お父さんが水槽の部屋に居るのは本当にめずらしくて、僕はついびっくりして、リボンを落としてしまった。
「お父さん」
僕が声をかけると、お父さんはゆっくりと振り返った。眉間に皺が寄っている。お父さんの大きな体の所為で、僕が水槽の部屋に入る事ができなかったので、恐る恐る、「退いてくれる?」と言ってみた。

お父さんは僕を見下ろして、そっと肩に手を乗せ、「もうこの部屋に来るんじゃない」と言った。僕はリボンを拾い上げながら、震える声で「どうして」と尋ねた。
「…すまんな」
そう呟くと、お父さんは部屋のドアを閉めて、鍵をかけてしまった。




それから僕の生活は、ひどく変わってしまった。「みぎうえ」が見られなくなっただけで、僕の動悸は激しくなって、呼吸もできなくなるほどに体が衰弱した。お母さんは狂ったみたいに「人魚の所為だ」と言っていたけれど、僕は知っていた。
お父さんのせいだ。お父さんが「みぎうえ」をひとりじめしてしまったんだ。その証拠に、お父さんは最近はやくお家に帰ってくるようになったし、帰ってくればすぐに「みぎうえ」のところに行くようになっていた。
僕はお母さんに、「お父さんが「みぎうえ」と浮気をしている」と告げ口した。いけないことをしている意識はまったく、なかった。悪いのはお父さんだ。あの時お父さんは確かに、僕に「みぎうえ」をくれたんだ。お母さんはまた叫びながら、お父さんを問い詰めていた。お父さんは眼を伏せてから、僕を見て、「お前は部屋に戻っていなさい」と言った。その日、お母さんの叫び声はやまなかった。






僕は高校生になった。
「みぎうえ」を見られなくなってから、もう1年くらいになる。最初ほど苦しくはないけれど、やっぱり、今でも「みぎうえ」が恋しかった。

時折「みぎうえ」が、海のように広い水槽で泳いでいる夢をみる。僕もなぜか海の中にいて、「みぎうえ」と波を共有しながら泳いでいるのだ。「みぎうえ」のしっぽがひらひらと、僕を誘うみたいに揺れるので、僕は必死で「みぎうえ」を追い掛けた。「みぎうえ」は付かず離れず、僕が遅かったらたまに振り返って、口を動かした。「みぎうえ」。僕はそんな彼女を見ながら、同じように「みぎうえ」と口を動かす。僕らだけが知ってる暗号のように思えて、誇らしかった。きっとお父さんは、しらない。

あのときあげられなかった赤いリボンを、いつか「みぎうえ」ともう一度逢えた時に渡すために、片時も離さないよういつも持ち歩いた。たまにさみしくなると、このリボンを撫でながら、「みぎうえ」と呟いた。




お母さんとお父さんは離婚してしまった。僕はお父さんに引き取られることになったのだけれど、それはどちらかというと、僕がこの家を離れたくなかったということになる。お母さんは「もう疲れたわ」とだけ言い残して、振り返らずに出ていった。小さな背中は薄汚れているようで、「みぎうえ」の白くうつくしい背中とは比べ物にならなかった。






そして、ある朝のことだった。
がしゃーん、と、鼓膜が破れるみたいな破裂音がして、僕はベッドから転がり落ちるように飛び起きた。何の音なのかは、直観的にわかっていた。どっと汗が噴き出る。慌てて部屋を飛び出して、「みぎうえ」のところに向かった。

部屋のドアは、開いていた。いつもはお父さんが厳重に鍵をしているところだ。迷うことなくドアノブを掴んで倒れ込むように部屋に入る。僕はそのまま、動きを停めた。古びた僕の靴下に、じんわりと水が染み込んでいく、その気持ち悪さも気にならないほどの衝撃が、そこにあったからだ。


水槽は大きく割れていた。黒い絨毯の上に散らばるガラスの破片は星屑のようなのに、それを覆い隠すような真っ赤な血が、きらきらと光っていた。その海のなか、ガラスの破片を被って血だらけになったお父さんが倒れ込んでいる。震える膝を必死で押さえながらお父さんに近付くと、お父さんの眼球がころりと飛び出て、まるでボールみたいに転がりながら、静かに、「みぎうえ」のところに辿り着いた。

「みぎうえ」は、黒い星の海に座り込んでいた。水槽ごしじゃなく、間近で彼女を見たのは初めてで、そのあまりの美しさに、僕は息を呑む。「みぎうえ」はお父さんの眼球を愛おしそうに撫ぜながら持ち上げて、飴玉を食べるみたいに口に放り込み、ごくんと飲み込んだ。僕が小さく悲鳴をあげると、やっと「みぎうえ」が僕を見る。



「みちづれ」



「みぎうえ」は微笑みながらそう言った。
今までで訊いたどんな声よりも美しい、波音のような声で、そう言った。




僕の体がぜんぶ「みぎうえ」のお腹に入ったとき、「みぎうえ」は死ぬのだろう。


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スーパースター



気が付いたら、あたしは、金魚になっていた。

ふよふよとした、浮力にかこまれて、狭い視界に窮屈さを感じつつ、あたしは彼を見た。彼は部屋のまんなかで、白いイスに座り、なにかに浸るように、気持ちが良さそうに、ギターを奏でていた。水の中からは、その音色は聴こえないけれど、それでも、いい。ゆらゆらする、水草と一緒に、あたしは彼を眺める。たまに、体を動かさないと、自然に沈んでしまうようなので、気が散らない程度に尾ひれを、揺らした。そのたびに、ゆるやかな波がたって、あたしの体をすこし、撫でる。


彼が、ふと視線をあげた。ぱちりと眼が、あったような気がする。あたしは緊張して、体をちょっと強張らせたので、視界は黙って上にあがってしまった。あわてて、尾ひれを動かして、すこし浮上する。彼は一瞬、考えるように上を見てから、ギターを傍に置いて、立ち上がった。こっちに近付いてくる。彼が来る。ガラスの向こうは、春の陽射しにきらきらと、曝されていて、とても、うつくしい景色だった。汚れひとつない、金魚鉢のなか、あたしは瞬きする。ぽってりとしたお腹が、重たいけれど、彼の為に、短い尾ひれを必死で、揺らした。

金魚鉢の上から、彼は、あたしを見ていた。金魚のあたしが、彼を見つめ返すのは、すこし難しくて、あたしはバカみたいに、尾ひれを懸命に動かす。まれに、あたしのものと思われる、赤い尾ひれが、視界の端に挟まれた。彼は、細くて長い指を、爪先だけ水に入れて、ゆるゆると動かす。波がすこしたって、あたしはそれを利用しながら、顎をあげた。水面と彼の部屋の空気との間で、彼の指を、ついばむように甘噛みする。つめたい水が、口の隙間をぬって、たくさん体内に流れ込んできたけれど、あたしは当然の様に、それらを、えらぶたから逃がしてあげた。一心不乱に、彼の指に、キスをする。彼はやんわり、微笑んで、かわいいと、呟いた。




眼が覚めると、あたしは、天井を眺めていた。天井に張り付けた、ポスターからは、ギターを抱えた彼があの微笑みを、零している。カラフルでポップな書体で印刷された、彼の名前を、ぼんやり眺めた。あたしは、ぎゅっとシーツを掴んで、お腹に力を入れる。上半身だけを起こすと、声を出さずにすこし、泣いた。





---Special Thanks / Maiko & Ed---

いちごちゃんとれもんちゃんログ



Twitterより




いちごちゃんとれもんちゃんは中学生くらい


いちごちゃん…天真爛漫で、物凄くかわいらしくて、ハーフっぽくてお人形さんみたいだけど、すこしわがままで小悪魔。おもわせぶり。不思議ちゃん。所有欲が強い。ごはんを食べるよりお菓子を食べていたい。でも泣き虫。運動はできないけど勉強ができる。映画や美術、おしゃれが好き。

れもんちゃん…ふつうの女の子。故に、ネガティブで神経質。わりと器用。運動ができるけど勉強はできない。でも読書が好き。体重を気にして、お菓子は控え中。人前で泣くのがいやで、その所為で泣くことができず、唇を噛んで耐える(ちなみに唇はかさかさ)。


れもんちゃんはいちごちゃんに、可愛さ余って憎さ100倍な気持ちを抱いていたらいいな。ふたりはセーラーが似合うかもしれない。丈の長いスカートとか。いちごちゃんはちょっと短くてもいいな。いちごちゃんは小柄で細けど、れもんちゃんは背が高くてふつう体型。






2月2日

おひるねしようか っていちごちゃんが笑う。真っ赤なくちびるが つるりと笑う。わたしも とてもねむい。れもんちゃんねむいね ねむいねいちごちゃん わたしたちはねむる。

/

れもんちゃん、足が冷たいの ソファーに座ってこっちを見ながら、いちごちゃんが言う うん、冬だものね れもんちゃん、さむくないの? さむいよ そう呟いてわたしが首を竦めると、小首を傾げる彼女の裸足の足が、冷たい床にそっと触れた あたしのマフラー、貸してあげる え…でも、いいの

いいよ。つかってよ いちごちゃんが差し出すその真っ赤なマフラーに、わたしは戸惑ってすこし笑った いちごちゃんは笑わずに、マフラーをわたしの首にそっとかける いちごちゃんからはあまいあまいにおいがして、わたしはそのにおいをそっと、くちに含む ああ、あまいね なにが? …ひみつ。




2月3日

鬼は外、福は内 れもんちゃんがぽろぽろと言葉と豆をこぼした 鬼のいない節分ってなんだかさみしいわ あたしはアスファルトを跳ねる豆を見ながら言う

れもんちゃんは指先を叩きながら 渡る世間に鬼は無し と呟いた そういうことなの そういうことだよ れもんちゃんがひとつだけ余った豆をぽりぽりと噛んだ じゃあ鬼はどこにいるんだろうか あたしは鼻歌をうたった れもんちゃんは空を見ながら、豆をのみ込んでいる

/

右眼がいたいの いちごちゃんがほろほろと泣いていた 見せて わたしはそうっといちごちゃんの眼を覗きこむ ぬれた瞳の奥に星がいた ぱちぱちとはじけながらいちごちゃんを苦しませる星 それでもうつくしい星 こすらないで いちごちゃんが指先を右目にのばすので わたしはその指をにぎる

じっとしていて 指先に力がなくなったところで 星の奥にみつけたちいさな埃が 澄み切った涙の海に流れていくのを見た ああよかった、みつけたよ まだいたいわよ 眼を閉じて いちごちゃんは素直にまぶたをぎゅうと閉じる 目尻のくぼみに流れた埃は しずかにわたしの指に着地した

れもんちゃん取れたの 取れたよいちごちゃん いちごちゃんは嬉しそうに笑ったけれど 頬に零れた星のおかげでそれが とてもはかなく見えた わたしの指先の埃は もうすっかりと乾いて ふてぶてしくわたしの指にはりついていた




2月7日

ひいふうみい いちごちゃんは鼻声で飴を数えていた いつむうなな どうしてそんな数え方なの べつに…いみないよ かぜっぴきのいちごちゃんはすこし機嫌が悪かった 飴はあまったるいミルクキャンディ ななつの飴がいちごちゃんの掌で転がる 喉がいたくて飴がたべられないの か細い声だった




2月14日

あめだね れもんちゃんは窓のそとを見ながらいった あたしはくちびるのなかに飴を含んでいたから ちょっとめんくらって喉を張る れもんちゃんはこっちを見なかった あめだあ そしてもう一度、確かめるみたいにいった 

飴の甘味を唾液にまぜて 口に溜めこみながら あたしは通学カバンから小さな袋をとりだした ねえれもんちゃん なあにいちごちゃん チョコレート、あげる えっ れもんちゃんはやっとこっちを見た 髪の毛の端が 湿気のせいですこしうねっている そのまっ黒を見ていると なんだか変な気分になる

つくったの れもんちゃんは本当にびっくりしたみたいだった あたしは上履きをこすりあわせながらうんという なんだかすこし恥ずかしかったけど 昨日れもんちゃんのことを考えながらつくったこの小さなチョコレートケーキを 今あげないでいつあげるの とおもったのだ 

ママはあたしが男の子にあげるとおもっていたみたいだけど あたしは男の子とお話するよりれもんちゃんといるほうがすきだから きっとそういうことなんだとおもう れもんちゃんはとてもとても丁寧に袋を手に取って 宝石にさわるみたいにケーキを取った ぽろぽろと スポンジが机におちてゆく

おいしいよいちごちゃん れもんちゃんはもぐもぐと口を動かしながらいった とってもおいしい ほんと? ほんとだよ、食べてないの 味見しなかったの じゃあ、食べて れもんちゃんは食べかけのケーキをこちらに差し出した 細くてちょっと乾燥した指先にうすい爪がぴったりと張り付いていた

小さくなっていた飴をあわてて噛み切って 呑み込んでから その指にそっとくちびるを近付けた ふわり と 雲を食べているみたいな触感がして すぐにチョコレートのあまいにおいが鼻をぬける おいしい ね、そうでしょ れもんちゃんはあたしの顔をみながら笑った

机に落ちたスポンジのかけらでさえその指で摘むれもんちゃんの スポンジよりやわらかくてチョコレートよりあまい笑顔が あたしのすべてなんだとおもった 帰ってママにお礼を言わなくちゃ あたしが心の奥でそうつぶやくと れもんちゃんは すてきな雨の日 と歌うように囁いた




2月25日

いちごちゃんのくちびるがすこし、濡れていた わたしはそっと指先で 窓に張り付いていた水滴をはじく いちごちゃんは空を見上げて 春ね とつぶやいた マフラーを巻いた首筋があつくて もう冬が背中を向けていることを知った 

ねえれもんちゃん春になったら、 いちごちゃんはそこまで言うと黙った なあにいちごちゃん ううんなんでもないの、ただ、これからもなかよくしてね あたりまえだよ! わたしは驚いて眼を見開いてから笑った いちごちゃんは泣きそうな顔をしながら笑った いちごちゃんには春がよく、似合う




3月12日

ねえれもんちゃん、れもんちゃんが息苦しくなったらあたしがキスをしてあげる いちごちゃんは眼をつぶっていた そんなこと、したらよけい苦しくなるんじゃなあい? わたしは少し笑った いちごちゃんは眼をつぶったままで 一緒に苦しくなってみたいの と呟く 心臓だけがどきどき鳴った


冬をいっしょに




がつんがつんと、鉄でできたゴミ箱の角が地面に当たる音がする あたしはそっとくちびるに鼻歌を乗せながら焼却炉に向かっていた スカートの下のタイツはデニールをずいぶん濃くしているから寒くない だけど鼻のあたまが風にさらされていて肩がすくんでしまう こんなにも寒い冬をどうして神様はおつくりになられたんでしょう? あたしは春が好きである
適当な鼻歌が「さくら」に変わったとき 焼却炉の鉄のかんぬきを引っ張っている後姿をみつけた 肩の上でざっくりと切りそろえられた髪の毛 しろい首筋がぼうと浮かんでいる

れもんちゃん 声をかけるとれもんちゃんは振り返った
いちごちゃん れもんちゃんは目を細めてくれる


さむいね
 うんすごくさむい
ゴミ捨てた?
 これから…、

れもんちゃんはまばらになった前髪の間から困ったように寄る眉毛を覗かせる あたしたちの髪の毛を揺らした風がれもんちゃんのせっけんの香りを運んできてくれて あたしの鼻はちょっと敏感にひくひくと動く

 あのねいちごちゃん、かんぬきが抜けないんだ
かんぬき、これ?
 これが抜けないと開かないよ、焼却炉
燃やせないね
 うん…おとこのこ、呼んでこようかなあ

れもんちゃんが おとこのこ というのはひどくめずらしいことだった あたしが言うのもなんだけど れもんちゃんはあんまり おとこのこと会話をしたりしない たいていあたしと一緒にいるから会話をする必要なんてないのだ
でもあたしはおとこのことお話をする そのとき遠くのほうからあたしを見てるれもんちゃんはとてつもなくかわいいの これは誰にも言ってない秘密 (誰にも知られたくない秘密)



ねえヘンゼルとグレーテルをおもいだすわ
 あ、かまど?
うん。グレーテルが魔女をこのなかに突き飛ばすの


そう言いながらあたしはかんぬきの向こう側を覗きこむ ふるい焼却炉のサビがかんぬきを護るみたいに絡みついていた そしてそれと一緒に かんぬきを縛る鎖をみつける


あのねれもんちゃん、かんぬきはね、こうして鎖で繋がってるのよ
 あ!、ほんとうだ
これをこうやってはずして、あとでまたちゃんと戻すの


あたしはサビついた鉄のかんぬきに重なるぴかぴかの鎖を指でひっぱった 簡単にからからとほどけてしまう これはいったいなんのためにしてるのかしら れもんちゃんを困らせて悪い子ね



鉄のドアの向こうにゴミ箱のお口を開けさせて 揺さぶる からっぽになったゴミ箱に見向きもしないで れもんちゃんはドアを閉めてしまった


あたしたちのゴミのなかに魔女はいたかしら?
 …、いるかもしれないから封印しようよ


れもんちゃんはそう言ってすこしわらいながら 簡単にかんぬきと鎖とドアを結び付けた


魔女は出てこれなくなったわね
 いちごちゃんが怖くて泣きださないようにね
泣いたりしないわよ!
 ふふふ、本当かなあ
本当よ、あたし、魔女なんかこわくないわ
 たのもしいね。グレーテルみたい。


あたしがグレーテルなられもんちゃんはヘンゼルなのかな だったらちゃんと助けてあげなくちゃ あたしはあなたの為に魔女を真っ赤なかまどに突き落とすの そして檻の中で震えているれもんちゃんにかけよって もう魔女はいないわって慰めてあげるのね


すてき


あたしはぽろりとその言葉を零した いつの間にかあたしのゴミ箱も持ってくれていたれもんちゃんはふと振り返って 不思議そうにあたしの顔を覗きこむ きりりとした二重まぶたがおおきな瞳を覆い隠してしまう前に あたしはその瞳に笑顔を放り込んだ


すてきよ、れもんちゃん。あまいお菓子のお家でふたりで暮らせるわ


あたしとれもんちゃんは冷たい指先をどちらともなく引き寄せて おたがいの体温をわけあいながら校舎へと足をすすめる


 ねえ春になったらさくらを見に行こうよ
え!、びっくりしたわ
 …なにが?
あたしも今、そう言おうとおもってたの
 …ふふふ。わたしたち一緒だね


一緒だね、と笑ったれもんちゃんの頬があかくなっていた たぶん寒さのせいもあるんだけど そうじゃないってあたしは自分を喜ばせる 手をつなぎながらあたしが「さくら」を口ずさむとれもんちゃんもそれをまねっこした ああわかったわ神様、あなたが冬をおつくりになった理由!



サイキョーラブソング・ヒストリー



「ごめん。付き合えない」




あたまのなかがまっしろになった。



ついさっきまで甘ったるい空気が充満していたあたしの外側で、折りたたんだ足を抱きしめる手が、ぎゅっと汗をかく。うっすらと明るくなり始めている空が冷たく見下ろしていた。ちょっと。ちょっと待ってよ。あれおかしいな。どこで間違えたんだっけ。今日はいつもどおりだった。バンド練習が終わったあと、ギターを背負ってサブローのアトリエに行き、彼が絵を描く背中を眺めて、無性にいとおしくなって抱きしめて、そんで絵の具に塗れたセックスをした。朝になって、脱げかけたTシャツから出た肩が寒くって眼を開けると、横にはサブローがすやすやと眠っている。かわいい寝顔をしていた。眉毛のあたりに赤い絵の具がへばりついて、固まっている。サブローは誰に何をやられても自分から眼を開けるまで起きないとしっているあたしは、その絵の具をそっと爪の先ではがしてやった。しあわせだった。古いベッドの横にはサブローの絵がたくさん散らばっていて、まるであたしたちは溺れてるみたいだ。しばらくしてサブローが瞼をこすりながらあたしの腕を引っ張ったので、あたしはそうして、「ねえ、このままでいいから付き合おうよ」なんて、とてもとても軽々しく、それでも本当に気持ちを込めてそう言った。サブローは眠たそうな瞬きを何度かしてから、「何でそんなこと言うの」と言った。

あたしは慌ててあやまりながら顔をそむけて、ベッドからそそくさと退出する。パンツとTシャツだけで眠っていたので、足の先まで冷え切っていた。サブローが厚紙に鉛筆でがりがりと描いた「らくがき」の上に、乱雑に黒いタイツが放ってあったから、それを取りあげてつんのめりそうになりながら足を通す。ショートパンツを穿いてから、サブローの迎えを催促した。サブローはぐずりながらもベッドを出て、ダウンジャケットを羽織りながら先にアトリエを出て行ってしまう。外はひどく寒かったので、サブローの車の窓に霜が張り付いていた。





あたしの家に着くと、サブローは、そう言った。確かに、言った。なんだか急に心臓が冷え切って、あああたしとんでもないことを言ってしまった、と鼓動が絶叫する。「そ、そうだよね、ごめん、ごめん、変な事言った、ほんと忘れて!」あたしは大げさに両手を振り、ぶらぶらと足を揺らした。サブローは、小さな声で、「ごめん」と呟く。
「えっえっなんで謝るの、ね、さっきのなかったことにしよ、ね、何も変わらないでしょ」
「・・・うん」
「あの・・・・・・ね、あたし、勘違いしちゃった! サブローのアトリエに入れてもらえるようになったから、あたし、もう彼女みたいな存在になれるのかなーなんて、なんか、ひとりで舞い上がっちゃって・・・、」
喉の奥が、きりりと締めあげられるような、そんな痛みに襲われた。足の爪先が、うすいタイツの向こうから透けている。遠くの方から、朝早く犬の散歩をするおじさんが歩いてきていて、あたしとサブローを物珍しそうに見ていた。「チバちゃんが」サブローが不意に声を出す。「チバちゃんが僕のこと好きなの、知ってたから。知ってたから、アトリエに入れてあげたり、ちょっと特別扱い、みたいなのしてあげると、喜ぶとおもった」そういう、やさしさだったんだ。サブローは言った。そのころのあたしは、ついさっき寝たばっかりなのにビープ音が鳴り響いて本当にうるさい、みたいなそんな感覚を口の中いっぱいに溜めこんでいて、もういてもたってもいられないから、ぐっとそれを呑み込んでいる最中だ。ああーそっかそっか優しさか! やさしさ! うん!やさしいもんねサブロー。

「ああね! そっかそっか! なるほどお、なるほどね! あー、でもどうだろ、その優しさはー、ちょっと、いらないかな!?」
「そう、だよね。ごめんね」
「あーだから謝るの無し、ていうかあたしが悪いんだって、なーにひとりで勘違いしてんだよって感じだよねほんと、あーごめん、ごめ・・・ん、」
鼻を抜けるような声が出た。これ以上涙腺を刺激するようなことをしたら、あたし、ほんと、ないちゃう。そんなことを思いながら何気なく外に眼を向けると、ぼろぼろって、ほっぺたに何かが零れ落ちてしまった。きゃああ。うそー、うそあたし泣いちゃったの。
「な、なんかさあ。ごめんね、あたし、こんな話するべきじゃなかったよね」
「・・・うん」
「言わない方がよかったね」
「うん」
「・・・言うつもりじゃなかった」
「うん」
「・・・、泣くつもりでも、なかった」
ずる、と鼻をすすると、サブローが動く気配を感じた。膝の上に、ふわりとティッシュの束が乗る。やわらかくてしろくて、羽みたいなティッシュ。あたしは慌ててそれを掴むと、サブローに顔をそむけたまま、ティッシュを突き返した。
「や、ごめん、要らないよお! だいじょうぶだいじょうぶ、そんなに泣いてないから!」
「でも、」
「ほんと大丈夫。はは、もう朝だねー、帰れって話だよね、なんか人見てたし、あは、恥ずかしいねえ」
あたしの乾ききった笑い声が、車の中に響いていた。サブローは居心地が悪いんだろうな。はやく帰って二度寝したいって思っているんだろうな。ね。そうだよね。サブロー。

「サブロー・・・、」
あたしのこと、すきじゃないんだね。


サブローがまた、謝った。あたしはむせび泣きながら喉を震わせながら、よく考えたら恋愛で泣いたのってはじめてだ、とどうでもいいことをおもう。次から次へと、溜まったものが出て行くみたいに、めだまが海に溺れていった。セックスをする前に、あたしの黒いタイツに包まれた足を見ながら、サブローが「チバちゃんあんがい細いんだね」と言ってくれたの、地味にうれしかったなあ。でも最近甘いもの結構食べちゃって、太ったんだよねえ。サブローは本当に細いから、わからないんでしょ、こんな気持ち。ねえあたし、サブローの絵、実はあんまり好きじゃないんだ。ごめんね。でもサブローが絵を描いてる瞬間がとても、すきなの。その空気感がたまらなく狂おしいの。サブローの絵はリアリティがありすぎてあんまりおもしろくないんだよ、あたしはどっちかというと抽象的なのが好きだからさ。でもサブローは好き。サブローが好きなの。サブロー、サブロー。


「サブロー、」
「うん?」
「ごめんね」
「僕もごめん」
「なんで?」
「チバちゃんのこと好きになれなくて」
「それは謝ることじゃないって」
「チバちゃんとは仲の良い友達でいたいんだ」
「それってこれからも一緒にいるってこと?」
「いてもいいかな」
「あたしに訊くの、ははは」
「チバちゃんは気まぐれだよ」
「そんなことないとおもうけど」
「他の男とも寝てるくせに」
「・・・寝てないよ」
「うそばっかり」
「ほんと」
「僕は嘘吐かれるのが一番きらいだ」
「ほんとうなの信じてよ」
「・・・なんで」


サブローは冷たい声で空間を落とした。さっきから停まる気配のない涙が、くちびるの山を流れて、マフラーに吸い込まれてゆく。あたしは唾を呑み込んでから、「本当なの」と小さく言った。ほんとう。ほんとうだった。サブローと出逢ったときは確かに、フリーセックスに抵抗があんまり無くって、そもそもサブローとヤっちゃったのも初対面の日だったし、でもそう言うとサブローも軽いんじゃないのっておもうけど、まあそれは今どうでもよくて。とにかく、サブロー以外にも通っている家があったのだ。でも、あたしはサブローを好きになった。サブローのときおり見せる少年みたいな微笑み方や、絵を描く時の表情、好きな画集を滾々と眺めているときの目線、骨ばっていてかわいそうなぐらいの体、セックスしてるときの気持ち良さそうな声。ぜんぶだなんてそんな無責任な事言えないけど、ほんとに、好きなところがたくさん、あった。
でもあたしは不器用だった。破滅的に不器用で、素直になれなくて、うそばっかり、ついていた。本当は好きで、大好きでたまらないのに、あたしばっかり好きなんてずるい、あたしはあなたのこと好きなんかじゃない、って、変に意地を張って、他の男とも寝てますよって空気を出してたんだ。でも昔そうだったのは本当の話だし、今更こんな風に弁解しても、なんにもならないって、あたしはわかってた。それでもサブローのその冷たい声が、まるで氷みたいにゆっくり頭の先から爪先まで浸透してしまって、こわくてこわくて震えている。


「不器用なのが、素直になれないのが、気まぐれっていうの」
「そういうわけじゃないけど、チバちゃんは、たぶん明日にはまた違うことを言ってる」
「そんなことない」
「そんなことあるよ」
「あたしほんとに他の人なんかと寝てない」
「ほんとに?」
「ほんとだよ・・・でも軽い女の方が、サブローが、来てくれるとおもったから」
「僕は軽いわけじゃない。今も、こんな関係になってるのはチバちゃんだけだし」

やめてよ。あたしはその言葉をおもわず零しそうになりながら、そっと前のめりになった。心臓が痛くて破裂してしまいそう。つらい、とてもつらい。込み上げてくる感情をどうしたらよいかわからなくて、ただ泣いた。

「確かにチバちゃんは、いつ連絡しても来てくれたし、じゃあ他の子といつ逢ってるのかなあなんて思ってた、けど」
でもなんもかわらないんでしょ。あたしはまた鼻をすすって、ついに、ダッシュボードに置かれていたティッシュの箱に手を伸ばした。手触りもやわらかなそれは、鼻も瞼もぜんぶ優しく包んでくれる。そう、あたしが求めてるのは、こんな、さりげなくて寂しくない優しさなのにな。



「ねえ、人間としてさ、たぶん僕は、チバちゃんから離れるべきだよね」
「・・・そうなのかもしれないね」
「モラルに欠けることだとおもうけど」
「うん」
「僕はこれからもセックスしたいとおもってる」
「うん」
「だからどうしたらいいかわからない」
「もしあたしがセックスさせなくなったら、もう逢ってくれないの」
「・・・そうだね」
「そっか、ごめんね。わかってた。うん・・・わかった。また連絡してよ」
「うん、・・・チバちゃん」


こんなに僕の事を好きな人を、好きになれなくて、僕もつらいよ。


サブローはそんなことを言ったんだとおもう。でもあたしはただ呆然と泣いていたし、窓の外もすっかり明るくなって、自転車に乗ったサラリーマンや女子高生たちが傍を通り抜けて行くのを眺めていると、あたしが停まっても地球はまわるんだとどうしようもない現実を受け止める他になかった。あー、どこからまちがったんだろう。これ、ゲームならやり直せるのになあ。選択肢を間違えちゃったから、たぶん、バッドエンドになっちゃったんだろうなあ。サブローがこもった声で「もう帰りなよ」と言ったから、あたしはそうだねと笑った。
助手席のドアを開けて外に出てから、後部座席に回ってギターケースを引っ張りだした。それを肩にひっかけてから、マンションへの道を歩く。途中で走りだしたあたしの耳には、サブローの車が遠ざかっていく音が聴こえていた。走ると涙がなびいて、ほっぺたの濡れていなかった部分を汚す。これで顔面ぐちゃぐちゃ、メイクもぼろぼろ。泣きながらエレベーターのボタンを押して、ふと指先を見ると、塗ったばかりのオレンジのネイルが剥げてしまっていた。一生懸命塗ったのに。トップコートも綺麗にハケで塗ったのに。昨日まで綺麗に、あたしの指の上で、ギターの弦とも仲良くやっていたネイルだったのに。なんか、そうなんだよなああたし。ほんと、なんでか知らないけど、いつもそうなってしまう。


ああうまくいかない。ぜんぜん、うまくいかない。


部屋に飛び込むなり、靴も脱がないで玄関に崩れ落ちて、あたしは子供の様に大声をあげて泣いた。背中のギターは静かにあたしの鳴き声を訊いている。頭の中も顔もぜんぶがらがらに壊れてしまって、どうしようもない現実に、ひくついた喉が何度も何度もしゃくりあがった。





さんざん泣き喚いたあと、ひくひくと鼻を上下させながら、あたしはぎゅっとギターケースの端を握った。ああなんか今なら、今なら最強に切ない曲が書ける気がする。客が全員、さっきのあたしみたいにぼろぼろ泣いちゃうぐらいに、めちゃくちゃ哀しいラブソングが。ギターを掻き鳴らしたくてたまらない。弦が千切れて爪が割れるぐれーにピックで虐めまくって、史上最強の爆音と切なさを届けてやるんだ。そんであたしはステージの真ん中で絶叫しながら悲劇のヒロインを演じる。なんだ、サイッコーじゃん。サイッコーにサイテーで、サイキョーだ。あたしは最強だ。ああっ!なんか泣き過ぎてなんかテンション高くなっちゃった!今すぐ曲作ろう!作らなきゃだめだ! そんであたしはギターを引っ張りながら部屋の奥に引っ込んで、まっしろな楽譜とペンを握る。


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