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とかげごっこ



いちごちゃんが床にはいつくばっていた 白い足がスカートからあられもなくはみ出ているのにも関わらず いちごちゃんは顎の先を床にあててじっと前を見ながら息をひそめる
ねえ、なにしてるの、よごれちゃう
わたしはいちごちゃんの脚を眺めながら言った 日焼けすらしてないきれいな脚 そっと撫でてみたい衝動にかられる

なにって、とかげごっこよ
いちごちゃんは当たり前のことを言うみたいに呆れた
えっなに?
 とかげごっこ
とかげ・・・、ごっこ

いちごちゃんははいつくばっている ひらひらと足が動いた わたしはしゃがみこんで床に触れる まるで氷みたいにひんやりしていた

いちごちゃん寒くないの
 とかげは寒がったりしないわ
そうだけど、いちごちゃんはとかげじゃないよ
 今はとかげなの

指の先についたほこりを払い落としながらいちごちゃんの顔をのぞきこむ 陶器みたいな肌が輪郭のはっきりした鼻を型どっていた ビー玉みたいにつるりとした目玉はとかげとは似ても似つかない
とかげごっこ、楽しい?
いじわるな質問をした いちごちゃんの眉間にはしわが寄っていたし 不服そうなとがったくちびるから とかげごっこの面白さがちっとも伝わってこなかったからだ

 あんがい、楽しくないわね
じゃあもうやめたら
 でもあたしは今とかげで、れもんちゃんは人間よ
うん・・・、ねえどうしてとかげごっこなの
 とかげになりたかったの、一度でいいから
どうして?
 しっぽが切られたとき、また生える感覚はどうなんだろうって

でもあたしにしっぽはないし、もしあっても生えてこないわね。だってあたしはとかげじゃないもの。
いちごちゃんは吐き捨てるようにそう言って立ち上がりセーラー服のほこりをはたいた スカートから落ちたほこりはきらきらと光って さっきまでいちごちゃんがはいつくばっていた床に付着する

ねえいちごちゃん
 なあにれもんちゃん
わたし、切ってあげようか
 …しっぽ?
ないでしょ
 じゃあなにを切るの

あし
いちごちゃんの、あし。
わたし、欲しいな。
ちょうだい。

わたしはとんでもないことをくちばしった いちごちゃんの脚を見ながら言ってしまって 慌ててくちびるを両手でふさぐ

ごめんわたし、あ、ちがうの
 ふふふ
ちがうのごめんねいちごちゃん
 あたしのあしがまた生えてくるならいいわよ

えっ、という言葉をわたしはのみ込んだ いちごちゃんはわらっている
 あたし、れもんちゃんになら、あし、あげてもいいよ
そうして彼女は もしいちごちゃんが本当にとかげになったら わたしにあしをくれると約束してくれた ちゃんと細い小指を絡めてくれたから わたしはなんだか恥ずかしくなってうつむいてしまう

 そのかわりれもんちゃんがもしとかげになったら、あたしにあしをちょうだいね
 これも約束。

わたしのあしなんかどうするの わたしは真っ赤になりながら呟いたけど いちごちゃんはただ微笑んで ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本 と歌った
 ああはやくとかげにならないかな、あたしたち
小さくわたしがうなずくと いちごちゃんは約束の小指でわたしのくちびるを引っ掻いた ひっかかれたところにみみずばれができそうなくらいの 熱くて痛い衝撃がはしった


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春と星





ハルさんが死んだ。交通事故だった。


ほんの少しだけ窓を開けて、遠くから流れる風を受けながら、ヒーターで火照った顔を冷やした。助手席に座っているお兄ちゃんが、さっきから「さむい」と大げさに喚いているけど、運転してるのはあたしだし、この車も自分で買ったものだから、無視をする。お兄ちゃんはペーパードライバーのゴールド免許なので、母さんの車を運転しているとき、ワイパーとウィンカーを間違えたりしていた。お兄ちゃんに器用なことはできまい。そもそも免許がとれたことすらきっと奇跡だ。(こうやってお兄ちゃんをバカにすると、女の子みたいにはらはら泣くので、これは本人に言わない。)
お兄ちゃんは白い肌とがりがりの体付きから、ハルさんに「もやしくん」と呼ばれていたらしい。あたしはハルさんには通算5回くらいしか逢ったことないので、よく知らないけど。すくなくともあたしの前ではちゃんと、「ショウくん」と呼んでいた。お兄ちゃんがそのことをあたしに言ったのは、6回目のあたしとハルさんの逢瀬が無いことをはっきり自覚していたからだと思う。母さんはお兄ちゃんが取り乱しておかしくなっちゃうんじゃないかって、出かける前までずうっと言ってたけど、あたしは知っていた。お兄ちゃんはこんな時、びっくりするくらい、冷静だ。

ビートルズのベストアルバムが2周したころ、お葬式の会場が見えてきた。黒い服を着た人たちが、うろうろと駐車場と会場をいったりきたりしている。あたしもお兄ちゃんも、喪服なんか持っていなかったから、今日の為に購入した新品の、てかてかしたものを着ていた。その上あたしはおととい、金髪のショートカットにしたばかりで、お兄ちゃんは眉毛の上に新しい入れ墨を入れていた。小さな黒い星がきれいに3つ、並んでいるその入れ墨に、あたしが「テリーマンかよ」と突っ込んであげたら、「テリーマンは米って字を額に入れてるけど、あれかっこ悪いよね。母国を愛してるなら、星条旗でも入れればいいのに」と返された。(意味がわからない。)(だいたい、キン肉マンだって肉って入ってるじゃん、どっちかというと肉のほうが恥ずかしいじゃん。)ともかくあたしたちは二人、葬式場でかわいそうなくらい、浮いていた。
車を降りて会場に行くと、まっさきに、長い黒髪の壮年の女性が近付いて来た。女性は皺が刻まれた、ほっそりとした色の無い顔でこちらに向かって弱々しく微笑む。お兄ちゃんは急にぴしりと背を伸ばしてから一礼し、「この度は真にご愁傷様でした」と早口で言った。
「いえ・・・遠いのに、来てくれてありがとうね。きっとハルコも喜んでるわ」
「ハルコさんには大変お世話になっておりましたので・・・」
「こちらこそ! あの子は本当にわがままで気分屋だから、親しい友達が少なくてね・・・だからこうしてショウゴくんが来てくれるのがおばさん、本当に嬉しいのよ・・・」
女性はそこまで言うと、右手に持っていたうすい灰色のハンカチを持ち上げて、ぐっと声を詰まらせた。皺を流れる細い涙が、ハンカチにゆっくりと染み込んでゆく。灰色が濃くなるのを眺めながら、ああハルさんってハルコって名前だったんだ、とどうでもいいことを思った。
「ごめんなさいね・・・あら、そちらは?」
「あ、妹のナツミです。ナツミ、こちらはハルコさんのお母様」
急にあたしの方に、お兄ちゃんが振り返った。お兄ちゃんといきなり眼が合う。女性が、ああ妹さん、と独り言にしては大きい声を出したとき、あたしは慌てて彼女に頭を下げた。
「はじめまして、ナツミです。ハルコさんにはわたしもお世話になっていまして、あの、」
「あらそうだったの・・・やだわ、こんなかわいいお友達がいたなら、紹介してくれたらよかったのに」
女性は、涙で真っ赤になった眼をすこし微笑ませながら、社交辞令を述べた。あたしも一応、いえそんな、と小さく呟いて首を振る。(ああだめだ、あたしやっぱりこういうの、できないわかんない。)
そうしてあたしたちの間に変な沈黙が生まれて、女性は一度鼻をすすってから、「じゃあ、ハルコの顔、見てやって」と言った。



長い長い坊主の呻きが終わって、お焼香も済ませ、最後のお別れをする時間になった。パイプイスの弛んだネジが、体を動かす度に鳴いてしまうので、あたしは大変窮屈な思いをしていたから、やっとか、と息を吐いてしまう。そして周囲がすこしざわめき始めたところで、あたしより先に立ち上がったお兄ちゃんのあとに続いた。
「お兄ちゃん、知らない人みたいだった」
「・・・なにが?」
「さっき、ハルさんのお母さんに挨拶したとき。なんか、よそ行きの顔、してたもん」
「そりゃあ、よそだもん。ハルちゃんのお母さんだって、一回しか逢ったことないし」
「それにあたしのこと紹介したときも。なんか・・・、」
ちょっとこわかった。ぼそり、と言った。あたしたちは、献花をする人たちの行列に並んで、のろのろと歩きながら、小声で話をする。
「なっちゃんこそ、焦りすぎだよ。なぁに、どもっちゃってさ。そんなに人見知りだったっけ?」
「いや、だから、お兄ちゃんがあたしのことナツミとか言うから・・・ナツミなんて、今までで呼んだことないじゃん」
「あるよー、なっちゃんの前ではじめてだっただけ」
お兄ちゃんはすこし笑って、入れ墨の上を小指で掻いた。黒髪の間から見えたり隠れたりしているその星を、じっと眺めながら、あたしたち兄妹のタイミングの悪さをちょっとだけ呪う。(なにもこんなときに、金髪にして、入れ墨しなくたっていいのにね。)
やがて、お兄ちゃんの番になって、お兄ちゃんはそっと体を乗り出すようにしてハルさんの顔を覗き込んだ。その背中は本当に細くて、なんだかぽっきりと折れてしまいそうな気がする。お兄ちゃんの骨みたいな指が、綺麗な白い花を彼女に捧げたとき、その存在すら白に消えてしまいそうで、あたしはまた怖くなった。
(そうだ、お兄ちゃん、あの泣き虫のお兄ちゃんが、まだ泣いてない。ハルさんが死んだって電話があったときから、もうずっと。)重大なことに気が付いてしまったことで、いつの間にかお兄ちゃんが前からいなくなっていたことに、あたしは小さな悲鳴をあげてしまった。
「お兄ちゃ、」
「なっちゃんの番!」
突然、横から苛めるような小声が聞こえてきて、はっとしてそちらを見ると、お兄ちゃんがちょいちょいとあたしの腕を引っ張っていた。ああそうか、お兄ちゃん献花を捧げてたんだ、そんで次、あたしの番。あたしは慌てて、ハルさんに駆け寄る。

ハルさんは、花だらけのカラフルなその場所に体を埋めていた。その顔は真っ白に死化粧を施されていて、そのアンバランスさで、表情だけが白黒写真のように浮きあがる。まるでリリアン・ギッシュみたいな美しい顔に見えたけれど、生きていたときのハルさんは、とてもじゃないけどギッシュのような上品さの欠片もなかった。よく、ドラマや小説では「まるで生きてるみたいな顔をしていた」なんていう表現があるけど、そんな風にはまったく、思えない。ハルさんは死んでしまった。蝋人形みたいにかちかちになって、白塗りを浮き立たせたまま、花に埋もれるリリアン・ギッシュ。あたしはその花畑に、お兄ちゃんと同じ白い花を添えて、なんにも言わずに列を外れた。




駐車場へ向かいながら、霊柩車をぼうと眺めていると、お兄ちゃんが「お父さんにも挨拶してくる」と言った。お母さんだけじゃなくお父さんとも知り合いだったのか、と思いながら頷くと、「車で待っててね」と次いで言葉を投げかけられる。はーい、と小さく返事をしてから、黒いハンドバッグから煙草を取り出した(実はずっと吸いたくてたまらなかったのある)。ライターの火は、真冬の風に曝されてすこし頼りなかったので、手で壁を作りながら優しく吸い込んであげる。煙が肺に充満したところで、顔を上げて、ふうと息を吐・・・、こうと、した。
あたしはそれを見た時、思わずライターを落としてしまった。それは元彼に貰った、なんの未練もないただの安物ライターだったので、別に構わないのだけれど、あたしは「ああっ」と叫んでしまう。ライターを拾おうと腰をかがめると、今度は唇が緩んで煙草が落ちた。あたしはまた「ああっ」と叫んで、煙草を拾った。ふうふうとフィルターを吹いて、埃を払った気になって、そしてまた唇に乗せる。ゆっくり煙を呑んで、さらにゆっくりと吐いて、それを2、3回繰り返してから、「そんなばかな・・・」と呟いた。


「そうね、私もそう思うのよ。だって私、死んでるんだもんね」
ハルさんは言った。生前と変わらない、淡々とした喋り方だった。死んでるんだもんね、の、「ね」には、強い力がこもっていて、あたしは何か悪いことをしてしまったかのようにびくりと肩を震わす。ハルさんの声は普通ではなかったけれど、脳内に直接響いている、というにはあけすけすぎた。ハルさんはあたしを見下ろして、ちょっと右眉を上げて、「金髪になってる」とひとりごちる。それでもあたしが黙って煙草を吸っていると、ついに痺れを切らしたように、ばっと両手を上げた。
「なっちゃん! 見えないふりしないで!!」
「わあっわかってますわかってますごめんなさい、悪い事したなら謝ります、あのっなんで、なんで、」
ハルさんの怒号に誘われるように、あたしの喉から言葉が零れ落ちた。あんまり大きな声を出してしまったので、前を歩いていた初老の女性が一瞬、振り返る。ハルさんは透けていたけど、完全に透明というわけでもないから、その女性があたしを見ているのがわかった。あたしは慌ててポケットから携帯を取り出して、耳に突き当てる。
「電話してるフリ、するんだあ。まあ、他の人には私、見えてないみたいだもんね」
「・・・あのー、一応確認しますけど。ハルさん・・・ですよね?」
「違う人に見える?」
「いいえ・・・」
あたしはゆるく首を振った。そう、ハルさんだ。さっきまで、棺の中にいた筈の人(ただしその顔はリリアン・ギッシュとは似ても似つかない)。

「しくじったわ。しくじったのよ。ほんと。私は右に曲がるつもりだった。だからウィンカーを付けてたの。右にね。でもなんか、チカチカって音がしないなーと思ってたら、どーん。どーん! どーんよ! 捻りの無い音でしょ。でもどーん、としか言いようがなかった。私、ウィンカーとワイパーを間違えてたのよ。そしてそこにちょうど、向こうから車が来た。そんなことってある? ないわよ。もやしくんじゃないんだから」
しくじったわ。ハルさんはもう一度、言った。あたしはハルさんの声で、ハルさんが、お兄ちゃんの事を「もやしくん」と言ったことに、少なからず動揺している。(ほんとに言ってたんだ、仮にも長い付き合いなのに、)あたしはハルさんをまじまじと見ながら、じわりと滲む手汗をぬぐうため、携帯を持つ手を切り変えた。
「あの、ハルさん・・・」
「さっきね、私ずっとママの横に居たわ。でもママはずっと泣いてるし、パパは唇噛みすぎて血の気なくなってるしで、もうね。いたたまれないって、こういうことを言うのね。誰にも見えてないの。だから私、きっとなっちゃんも見えないんだろうと思ってた。だって、もやしくんも見えなかったし」
ハルさんは、白いシャツの上に、触り心地が良さそうな桃色のセーターを着ていた。デニムのスカートからは、黒いタイツと灰色のごついブーツが構えている(実際、透けているので、正確な色味はわからないけど)。ほんの少しだけふくよかなその足は、妙に色っぽく見えた。あたしはお兄ちゃんと似て痩せているから、足が変に骨ばっていてコンプレックスなので、めったにこんな格好はしない。それにハルさんは、交通事故で死んだっていうのに血の一滴すら流さずに、表情だってころころ変わった。こんな幽霊がいるもんか、と思いながら、ちびた煙草を懸命に吸う。
「まさかね、なっちゃんに見えるなんて。私、このお葬式に出てくれた人で、なっちゃんが一番遠い人だと思うわよ。差し向かいのタナベさんだって、私は最近、頻繁に挨拶してたんだから」
「そう・・・、ですよね。だって、あたしに見えて、お兄ちゃんに見えないなんて、そんなの・・・」
そんなの、かわいそう。あたしの口から思わぬ言葉が洩れそうになって、慌てて煙草を口にくわえた。でもそれはもう短くなりすぎていて、吸うには頼りなさすぎる。ちょっとわざとらしい咳をしてから、携帯灰皿にそれを突っ込んでいると、ハルさんはまたまくしたて始めた。
「もやしくん。もやしくんね、また入れ墨入れてたね。私、もやしくんは入れ墨なんか入れなくたっていいと思うのよ。背中の梅の木も、腕の骸骨も、統一性がないし何より似合ってない。それに今日見たらなにあれ、眉毛の上に星が3つ! ミシュラン? ミシュランに認定されてんの? 3つ星なのあの人は?」
わけのわからない質問を引っ提げて詰め寄ってきたハルさんに、あたしは「いや知らないです、」と弱々しく返した。揃いもそろって、お兄ちゃんとハルさんは本当に、わけのわからない会話を好むもんだ。寒い外気にさらされて固まってきた指先を、軽くほぐしながら、また煙草を指で挟んだ。
「なっちゃんもなっちゃんよ。金髪でショートになんかしちゃってさ。そんで煙草も吸って。女の子なんだから、もっと可愛い格好しなさいよ」
「・・・ハルさんのお母さんは、かわいいって褒めてくれましたよ」
「ママは元々レズビアンだもん」
衝撃の事実をさらりと告白してくれたハルさんは、なんでもないことのように、短い舌打ちをした。あたしと逢った時も、お兄ちゃんがすこしでも怯えたり眼球に涙を滲ませると、こうやって舌打ちをしていたものだ。ハルさんはいつも焦っていた。なにに焦っているのかは、お兄ちゃんも、知らなかったとおもう。ハルさんのお母さんとの間に出来た沈黙みたいなものが、ゆっくり迫ってきている気がしていたので、あたしはなんとなくフィルターを噛みながら、ぱっと思いついたことを口に出した。
「ハルさん、は・・・あの、キン肉マンって知ってますか・・・」
「知ってるけど」
「あの・・・・・・あれですよね、キン肉マンの額の“肉”って・・・ださい、ですよね・・・・・・」
「それ行ったらテリーマンの“米”のほうがださくない? だって米だよ、米。アメリカを愛してるからって、米。その時点でなんか日本っぽいよね。なんだったら星条旗でも入れればいいのに」
ハルさんは意外とこの話題に食いついて来た。しかもお兄ちゃんと同じことを言っている。


「・・・ねえ、なっちゃん」
ハルさんが、急に声のトーンを落とした。あたしはもうかれこれ10分くらいここに突っ立っているし、慣れない黒タイツが寒くて、凍えてしまいそうになっているというのに、ハルさんはそれに気付く様子もない。ただ、真っ黒に澄み切った大きな瞳を、あたしの向こう側に注ぎながら、呟いた。

「私、かなしいのよ。とても。だって、死ぬつもりなんかじゃなかった。あの時右に曲がって、家に帰って、ママの料理を食べて、パパとゲームして、お風呂に入って寝て、朝起きたら会社に行って、週末はもやしくんと映画に行くつもりだったの。私そのとき、もやしくんに告白しようと思ってた。私達はずっと一緒にいたけど、はっきり、付き合ってるわけじゃあなかったから、それを明確にしたかったのね。来週なんか来なくていいとも思ったし、はやく来て、とも思った」

あたしは、ハルさんとお兄ちゃんが恋人同士じゃなかったことを、今知った。唇に挟んだ煙草が、風に揺れてふらふらと動く。

「だからかなしい。かなしいよ。ママにもパパにも、もやしくんにも、私、さよならが言えなかったんだもん。なのにさ、不思議ね。こんなにかなしいのに涙が出ないの。体の中がかなしみでいっぱいなのに、ぜんぜん、出ないのよ」
ハルさんの声が震えている。横を通り過ぎた大きなトラックの音に、掻き消されてもいいくらいの小さな声だった。なのに、それははっきりとあたしに伝わってくる。ハルさんはとてもとてもかなしい顔をしていたけれど、その瞳は乾燥したままだった。


「なっちゃん、車で待っててって・・・・・・あ、」
低い声が、ぷつりと停まった。でんわちゅう? と唇だけでなぞられたそれに、あたしは機械的に頷く。携帯を持つ手が、寒さで震えていることに気が付いたお兄ちゃんが、くるまのなかでしたら、と空気を混ぜ返した。あたしは首を振る。ほんのりと動いただけなのに、瞳からぼろぼろっと、ビー玉が零れるみたいに、涙が溢れた。
「・・・なっちゃん、どうした? かなしいの?」
お兄ちゃんはそっとあたしの肩を抱く。お兄ちゃんの冷えた指先があたしの涙を拭うので、あたしはいやいやをしながら、すばやく前を指差した。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん見てよ、ハルさんが、」
「なっちゃん」
「ハルさんがいるの、そこにいるの」
「なっちゃん、車に行こう」
「お兄ちゃん!」
お兄ちゃんは眼を細めた。その眼差しに、大きな切なさと怒りが含まれていることに、長い間一緒の家で暮らしてきたあたしが気付かないわけがない。
「お兄ちゃん嘘じゃないよ、信じてよ、ほら見てよハルさんが」
ハルさんがいる、と続けながら前を見ると、そこにはただまっすぐとのびる歩道が、なんにも知らないふりで横たわっていた。そこに確かにいたはずのハルさんの姿が見えなくて、あたしは無意味だと知っていても、振り返ったり周りを探したり、涙を拭いながらぐるぐると回った。ひっきりなしに流れる涙が頬を濡らしていて、それが風に触れて余計に寒い。お兄ちゃんは回るあたしの手を取って、多少強引に車に乗せた。




「ハルちゃんと結婚しようと思ってた」
車に乗って、エンジンをあっためている間に、お兄ちゃんはそう呟いた。今までに訊いたことが無い、真剣な声色だった。あたしはお兄ちゃんに渡されたティッシュで鼻を噛んで、それをぐしゃぐしゃに丸めてから、目頭を拭う。
「ハルちゃんと出逢って、僕の人生は本当にカラフルになった。ハルちゃんはわがままだったし、気分屋で、どうしようもないお喋りだったから、僕のタイプなんかじゃないんだけど。でも僕はハルちゃんが好きだった。結婚したかった。ハルちゃんとの子供が欲しかった。そんで細々とでもいいから、ふたりで暮らしていきたかったんだ」
お兄ちゃんの声はだんだんと小さくなってゆく。ティッシュを掌の中に押し込んでから、音をたてないようにお兄ちゃんを見ると、お兄ちゃんは手の甲で鼻を押さえていた。
「ねえ、お兄ちゃん・・・」
「だからさ、なっちゃん、お願いだよ。そんないじわるを言わないでよ。もうハルちゃんは死んじゃったんだ」
「お兄ちゃん、どうして泣かないの」
あたしは随分と鼻声だったけど、お兄ちゃんは笑わなかった。それどころかあたしの方を見ないで、急に、「ぐ、」とだけ言った。そのうち細い肩がぶるぶると震えだして、ぷっくりと浮き出た喉仏が上下に動き、そして、耳さえも哀しくなるような嗚咽が車に響き渡った。お兄ちゃんは泣き虫だったけど、泣くときは決まって、ほろほろと美しく泣く。でもこの泣き方は、決して綺麗じゃなくて、喉に唾や涙や鼻水がひっかかったみたいな、ひどく下品な泣き方だった。あたしはティッシュをポケットに押し込んでから、新品の喪服のスカートに出来た細かい皺を掌で丁寧に丁寧に伸ばしていた。


お兄ちゃんが泣き終わった頃にはもう、真っ暗な夜がすぐそこまで来ていた。あたしがハンドルを持つと同時に、お兄ちゃんが鼻をすすったので、あたしは久しぶりにお兄ちゃんに笑いかける。
「お兄ちゃん、週末ひま?」
「・・・いや、ちょっと、ズッ、用事あるよ」
「そう。ハルさんによろしくね」
「・・・・・・ズッ、なんで知ってるの」
鼻をすすりながら言うお兄ちゃんの言葉は、とても情けなくて、しかも驚いた顔がこれまたしょぼくれていて、あたしはまた窓をすこし開けながら、「ハルさんが泣いてもいいように、ハンカチを持っていってあげてね」と言った。お兄ちゃんは「さむい!」と叫ぶ。

ギニーピッグ


※ グロ注意






吐いた白い煙が充満する、コンクリートばかりのゲロ臭い部屋で、スナッフフィルムをぼんやりと見ていた。画面の向こうにいる端正顔付きの女が、真っ白な四肢を曝して横たわっている。ギラギラと光るナイフが、女の体に赤い線をすうと引いていく様にすっかり飽きて、最初に覚えた恐怖と僅かな興奮を忘れながら、じっと煙草を呑んだ。横ではすっかり酒に溺れた柏崎が、横たわったままでごぼごぼとゲロを吐いている。意識があるのかないのか、ただ、僅かな寝息だけは聞こえるので、そのままほうっておいた。柏崎が持ってきたこのスナッフフィルムも、恐らくは純粋な殺人フィルムではないのだろう。こいつが持ってくる「すげえモン」が本当に「すげえモン」だったことは今まであったのだろうか? 随分と興奮したようすで「ピュアなスナッフフィルムだよ!」なんて言っていた癖に、ビールと日本酒を散々かっくらったあとに、「きぼぢばるい」だなんて舌足らずに零して嘔吐、そして女が画面に出てきたところで睡魔に食われてしまった。だいたいこんなもの、酔ってなければ見れるはずがない。俺の方は、たいがい真面目に見てしまったが為に、酒の所為でないゲロを吐き散らかして息を詰まらせた程だというのに。恐らくこれは作り物で、大した臓物だって出ていないのだけれど、それでも初めてみるスナッフフィルムの衝撃は強かった。腹に入っていたものをすべて引っ繰り返してしまった今は、吐く胃酸と元気もないので、ただぼんやりする他にない。最初はぎゃあぎゃあと喚いていた女も、今では半分諦めているのか、細いすすり泣きだけを洩らしていた。柏崎の寝息と重なって、じりじりと鼓膜を攻める。(ああ俺はなにやってんだか、)そんな哲学的な自問自答をしてしまう時は、くそったれの現実に腹が立っている時である。煙草の先で震えていた灰が、ばらばらにほどけて柏崎の指先に落ちた。何気なくそれを見届けてから顔をあげると、スナッフフィルムの中の女が急に、怯えたように俺を見ている。開ききった瞳孔の奥に、淀んだ灰色が見え隠れしていた。悪い画質が女のアップを抜いて、その震える肌を映し出す。(悪趣味、悪趣味だこんなの、これでマスターベーションできるバカがどこにいる、)コンクリートに散らばるビール缶を足で蹴って、画面に背中を向けた。女が絶叫するのと、ぐじゃ、と何かが潰れる音がするのはほぼ同時。甲高い悲鳴なんかじゃない、蛙が鳴いたみたいな気味の悪い断末魔のようなそれに、また胃がぐるぐると回るような気がする。ダメだもうダメだ、クソ、俺の運のツキはこのバカ、柏崎とつるんでしまったことにあるのだろう。すすり泣く女がナイフで肌を切られるのはまだしも、女の太ももがぐちゃぐちゃに潰される様子なんて、正気じゃなきゃ見ていられない。結局のところもう一度、ゲロには程遠い唾をべたべたと吐き曝して、俺はぐったりと倒れ込んだ。視界の端に映った真っ赤な肢体が眼球と脳味噌を着く。赤の間からちらりと、その肌に似た色の綺麗な脂肪が見えた。(柏崎、柏崎のバカ、死ね、バカ、くそったれ、)もうこんなビデオ見てられるもんか、俺はすばやく立ち上がると、レコーダーの電源に指先を伸ばした。大丈夫だ、大丈夫、これはピュアなスナッフフィルムなんかじゃねえ、柏崎のバカが持ってきたパチもんの、「だぁあ、」できるだけ画面に近付きたくない衝動の下、深爪の所為もあったか、届かない指先が空を掻く。思わず喉を逸らしてしまった俺は、退けた筈の赤を視界に捉えてしまった。いつの間にか瞼をひん剥かれた女の眼球が、ぴくぴくと、明後日の方向を眺めている。画面の外から斧を投げつけられた女の足が、反動でがくんとカメラを蹴りあげた。ざあっと画面がぶれ、衝撃による砂嵐が女の体を裂く。「げえっ」そして、画面の外で、この美しい女を痛めつけていた人物の顔が、砂嵐を被せながら映った。「おっ、ぼ、」その男と眼が合ってしまった瞬間、何も残っていなかったはずの俺の胃がひゅうっと音をたてて、喉元にせり上がってくる。ぼたぼたぼた、と、コンクリに汚物が落ちて、(こいつ、)それを見届けるまでもなく酸化した瞳に、(この悪趣味ヤロウ、)変態殺人鬼のゲロ塗れの寝顔が映る。




オヤスミウサギ



「いろいろあったけど、結局おれら、なーんもしてないやんなあ」

テーブルの上のチョコレートラテをじっと眺めながら、漱石は唇の皮を剥いでいた。1ヶ月付き合った彼女にクリスマス前に振られてしまった彼は、どことなくテンションが低い。もったりとしたアフロ頭が、ゆらゆらと揺れて、そのたびにぴりぴりと皮が剥かれた。
博識そうな名前を立派に持っているくせに、漱石は本当にバカだった。天然パーマが進化に進化を重ねたぐりぐりのアフロと、無駄に高い背がこいつの特徴で、そこそこモテるがバカな所為で恋愛が長続きしない。そして猫舌の彼は、チョコレートラテが冷めるのを待っている。(ただし、見つめたところではやく温度が下がるわけではない)


「俺はしたよ・・・」
「なにを?」
「・・・バイトとか」
「おれもしてんよ」
「お前は辞めたじゃん」
「だって仕事覚えれんもん」
「バカだもんな」
「あっちぃ!」
結局、大した我慢も出来ずにラテに唇を付けた漱石が、大きく仰け反る。がちゃん、と乱暴に置かれたカップからチョコレート色の液体が飛び出してきて、無垢な白を汚した。ああバカだなあと、どうしようもなく思いながら、あたたかくて美味しいコーヒーで喉を潤す。これを淹れたのは、浮気症というすさまじい病気をもった俺の彼女であるが、残念ながら外出中である。

「2011年、他になにした?」
「・・・勉強」
「単位3つも落したやんな」
「じゃあお前は何したんだよ」
舌を火傷したらしい漱石は、蛇のようにそれをチラつかせて、うっすら涙を滲ませている。いひゃい、と小さく呟いたのも聞き逃さなかった。
「いろいろ・・・いろいろしたよ、まず髪染めたっしょ、んで告白して、付き合って、セックスして、振られて、財布無くして、姉ちゃん結婚して、」
「ちょ待て待て、それアリか、アリなのか」
「アリよ、もうなんでもアリよ」
「お前さっきなんにもしてないっつったじゃん」
「よく考えたらしてた」
「ほんっと・・・お前・・・」
バカだよな。最後のセリフだけは目線に預けて、黙ってコーヒーカップを傾けた。漱石は目線の意図も知らずに、またチョコレートラテを眺める作業に移っている。だけどそんな単純なことが「した」ってことなら、あんがい、俺も2011年を謳歌できたのかもしれない。俺も髪切った、いつもどおり浮気された、いつもどおり許した、隣人と喧嘩した、村上春樹読んだ、ギター始めた、ギター壊した、ギター辞めた。
「あーあのギター、高かったのにな・・・」
「なんでやめたん」
「壊した」
「なんで・・・」
「落した」
「どこでよ」
「ベランダから」
「はあ?」
「酔っぱらって」
「・・・笑っていいん?」
「あーできれば笑うな」
とたんに、漱石のなで肩が震えた。やがてゲラゲラと声をあげて笑いだしたので、テーブルの反対側から手を伸ばして、アフロを思いっきり叩く。このくるくるパーマがクッションになったのか、たいしたダメージも受けずに、漱石は笑いを深めた。

「お前さあ、俺のことバカにできんのかよ。お前村上春樹、読んだことある?」
「はー、え、なに?」
「村上春樹! ノルウェイの森とかさあ」
「ビートルズ?」
「・・・そうだけど、じゃなくて、本。作家!」
「ねえよぉ、俺、クリスチャン・ラッセンしか読んだことない」
「それ読むんじゃねえの、見るっていうの」
はあはあ、と適当な相槌を打っている漱石が、耳の裏を掻きながら、ぼうと部屋の隅を見ている。だいたい、ラッセンの本だってどうしてこのバカが読んだ(見た)のか、気になるものだが、この際は関係ない。
「俺のゼミの教授が、村上春樹を読んでない奴は死ねっていうから、死ぬの嫌だし、読んだんだよ」
「じゃあおれ、死ななきゃならんね」
「うん、そういうこと」
「でもビートルズのノルウェイの森、弾ける」
「うん?」
「ピアノで」
「・・・なにおまえ、ピアノ弾けんの」
「3歳からやってんもん」
漱石はなんでもないことのように、言った。チョコレートラテがすっかり湯気をなくして、寂しそうに漱石を見上げている。一方俺のコーヒーは熱いうちに飲んでしまったから、しゃべっているうちに、たまに香ばしいにおいがした。漱石がまた指を駆使して、唇の皮を剥きだしたので、それが彼にとって特別なことではなくて、当たり前の一部なんだなと気が付く。3歳のころ、つまり20年近く、ああこんなバカでもピアノは弾けるのに、俺はギターすらまともにできない・・・。

「で、村上はるき、おもしろかった?」
「えー、うーん、まあ、ふつう・・・」
「人生んなもんね」
「せめて読んでから言え、な?」
「読まんよ、死ぬしかないって、の、あてて」
引っ張りすぎた唇の皮が、ぴりぴりと千切れて、うっすらと赤が滲む。漱石の眉毛が動いて、眉間にわずかな皺が寄った。
「バカ、深入りはなんにせよ、よくねえぞ。だから振られんだよ」
「もういいんよ、おれは前を向いている」
「かっこよく言うな、血ィ出てんぞ」
「名誉の負傷」
「あほか」


ようやく漱石が、チョコレートラテに手を付けた時。俺の指先にじりっと痛みが走って、漱石が白い歯を見せて笑った。
「薫ちゃん、指の皮剥くの、クセな」
「・・・・・・おまえもな」
ただし唇の皮、だけど。チョコレートラテを飲んだ漱石は、「つめたい」と呟く。



ストロベリー・イン・ザ・バビロン


信じられないくらい変な模様の猫の置物と、眼が合っている。

まるで、僕の煩悩やぐちゃぐちゃになった感情を表した、みたいな色彩。この間までこの部屋にはなかった造形物だ。クッキーの作品はたいがい、こんな風に抽象的である。猫の横にある小ぶりな牛は、以前からこの薄い液晶テレビの前にあったもの。真っ青な眼をくりくりさせて、緑の舌をだらりと垂らしている。まったくもって、理解不能。いったいクッキーの頭の中はどうなってんだ。カート・コバーンの掠れた声が響く部屋で、僕は猫の鼻に触れた。


「先週、雨が降った時に造ったの」
突然、クッキーのスカッシュみたいなセリフが頭上に降ってきた。僕は悪いことなんかしていないのに、びくりと猫から手を離す。
「これ・・・君の故郷を表してんの?」
「イギーあなたまだ、私が火星人だと思ってるのね。何度も言うけど、私の母は織姫よ」
「父は彦星」
「わかってるじゃない」
クッキーは低く笑って、僕の頭上を通り過ぎながらカーテンのレールにコートを引っかけている。あたたかそうなファーがついたキャメルカラーのコート。クッキーがこれを着ているところなんて、僕は見たことがない。


僕は猫から視線を外して立ち上がり、赤と紫のビビットなソファーに腰を埋める。ちょっぴり硬い安物のソファーは、クッキーが実家から持ってきたものらしい。宇宙からの搬入はどうやったの、と訊くと、「バカね、宇宙は無重力よ」と鼻で笑われてしまった。いや、だから、その無重力空間から抜けた時どうしたのか、知りたいんだけど。喉元まで出かかった疑問は、また次の機会にしようとおもって、そういえばすっかりそのままだ。

「ほら、召し上がれ」
ソファーの前に置かれている、ガラステーブルにかちゃりとケーキが表れた。真っ白なクリーム、熟れたイチゴ。クッキーは意味もなくたまに、ショートケーキを作る。これがまた美味しいんだ。僕は大きいスプーンを手に取って、贅沢にもそのままケーキをすくった。同じように向こう側からスプーンを伸ばしているクッキーは、まだら模様の絨毯にそのまま座り込んでいる。
僕の彼女でありクッキーの友人であるソラは、甘いものが嫌いだった。だから、クッキーの手作りケーキはいつもソラ抜きで片付ける。僕はひどい甘党で、ポケットにはいつもキャンディやチロルチョコが入っているし、遣い込んだリュックには自分で淹れた甘い甘いミルクティーをたっぷり注いだタンブラーがある。スプーンですくったケーキのかけらを口に頬張りながら、ふわふわのスポンジとクリームを咀嚼した。
「美味しい」
「ありがとう。イギーは美味しそうに食べてくれるから、好きよ」
クッキーは、黒とピンクのキャミソールを重ねて着た上に、グレーのカーディガンを羽織っていた。部屋着にしては肌寒そうなその格好に、レザージャケットを着てマフラーまで巻いたままの僕と対照的だ。

「この間急に、アップルパイが食べたくなったのよ。ソラと居る時にね。どうしても食べたくなったの。私、我慢が出来なくなって、彼女にアップルパイを食べに行きたいとねだったわ。そうしたらソラは、オスキニドウゾって顔で、私を見た。学校の前に小さなケーキ屋さんがあるでしょ、あそこに行ってアップルパイを買って、食べながらソラのところに戻ったら、ソラは煙草を吸いながらぼんやりしてたわ。だから私、ソラにアップルパイを勧めてあげたのよ」
「ソラは甘いもの嫌いだよ」
「知ってるわ! でも、べつになんにも考えないで、私の食べかけをソラに差し出したのね。ねえソラがどうして甘いものが嫌いか知ってる?」
「さあ、訊いたことないかも」
「虫歯になるからですって!」
あはは、とクッキーは甲高い声で笑った。僕は普段、対して笑うこともないので、ふうんとだけ返す。ソラは意外に子供みたいなところがあるんだなあと思いながら、イチゴのヘタを摘んだ。大口をあけて、ひとくちで放り込む。甘酸っぱい味が舌の上で広がって、目の前がパチパチと光り輝いた。思いだしたソラの歯は真っ白で、確かに虫歯ひとつ、ない。



「あ、クッキーさ、」

アジアンな雰囲気を漂わせる仕切りの向こうから、低い声が聞こえた。それに被さってがちゃがちゃと金属が触れ合ったあとに、肩が跳ね上がるような大きな音が響き渡る。僕はヘタを持ったままで、仕切りの方へ視線を投げた。そのうるさいような模様の仕切りの向こう側には、これまたうるさい色彩を存分に散らしたキッチンがあるのだが、そこにいる男が何かを引っ繰り返したのだろう。前に居たクッキーが、じわじわと立ち上がる気配を感じる。

「アポロぉ、何やってるのよ」
「これあのー、ボール、洗おうと思ったんですけど、どこに置くのかなあって思ったら手が滑っちゃって」

仕切りの横から困ったように顔を出したアポロは、濡れて血管の浮き出る細い腕を、中途半端に宙に浮かせていた。赤いセーターをまくった彼の指先から、透明の雫が滴り落ちる。雫を吸った絨毯は、彼のセーターと同じ色をしていた。絨毯を眺めていると、クッキーが前を通って、ボールを置く場所を指示しはじめる。最初から一緒に片付けすりゃあいいのに、なんて、僕が言えたことではないので、黙ってまたケーキにスプーンを伸ばした。




「ねえ、イギー?」
片付けを終えたふたりがこちらに戻ってきた頃、僕はショートケーキを半分ほど食べ進めていた。そろそろお腹も膨らんできたが、甘いものは無限に入る胃袋を持っている僕に、限界はない。さあこれからだと、再びスプーンを唇から離したところで、同じくスプーンを舐めていたクッキーが顔を覗きこんで来た。僕から見て左側に座っているアポロは、ひとり、フォークでスポンジを崩している。俯いた彼の頭はほのかに赤く染まっていたが、さらりと落ちるショートカットの毛先は真っ黒だ。
「訊いてる? イギー」
「うん、なに?」(この時僕は、アポロが取ろうとしたイチゴを奪った)
「イギーさんそれ俺の」
「ちょっとアポロ黙ってて」
「ふん、ほんで、はに?」
イチゴを頬張った僕の滑舌が悪くなったところで、クッキーは自分の肩のあたりを一瞬、触ってから、ゆっくり微笑んだ。

「ソラと別れてよ」
ぷちぷちと、口の中で、イチゴの種が潰れていく。今、口の中は真っ赤な海で、たぶんアポロのセーターよりも赤くて、グロテスクなものとなっているだろう。僕は赤い海を歯で噛み潰しながら、長い間をあけないで、「今はムリ」と告げた。
「そう」
クッキーもすばやくそう返して、また、スプーンでショートケーキをつつき始めた。かしかしと、皿とスプーンが擦れ合う。


なんでもなかったように、僕らはまたどうでもいい話を続けた。例えば最近見た映画とか、おもしろい出来事とか、アポロの生まれつき毛先が黒くなる体質はどうしてなのか、とか(ちなみにこの話題については、ここ1年かけて話し合っているものの、未だに答えが出ない)。しばらくするとショートケーキはなくなって、ゆったりのんびりと食べていたアポロが、「俺イチゴ食べてないです」と唇を尖らせた。






「クッキーさんって」
砂糖を胃に流し込んで、ちょっとだけ膨らんだお腹を持て余しながら帰路につく。うっすらとオレンジが滲む空の下、冷たい指先をあたためるように指をこねくり回していたアポロが、僕の煙草の煙を避けながら呟いた。
「イギーさんの事、好きだったんですね」
アポロが、あの質問をちゃんと訊いていたことに少し驚いてみると、彼は僕の言いたい事がわかったのか、また乾燥した唇を僅かに突き出す。「さすがの俺も、そこは訊いてました」アポロはたいがい、人の話を訊いていないことが多いのである。僕はフィルターを優しく噛みながら、煙草を動かし、煙を揺らめかせる。顔の前でもくもくと広がる紫煙は、さっき食べたショートケーキより余程苦い。だけどそれが、そのギャップが、堪らなく僕を魅了するのだ。

「アポロ」
「はい」
「お前、わかってないよ」

はあ、と、薄い声を洩らしたアポロより歩幅を速めて、すこし振りかえり、ラッキーストライクの煙を吹きかけてやった。嫌そうに首を振っているその長身の男が、ほんのりとした恋心のようなものをクッキーに寄せていることは、なんとなくわかっている。そして僕は、クッキーが本当に好きな女を、知っていた。




( クッキーは今頃、あのバビロンみたいな部屋で、きっとソラのことを考えている、)


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