いっそころして
お兄ちゃんが帰ってきた。
廊下はしんと冷え渡っている。やわらかいスリッパの奥から、爪先がつめたくなっていくようだった。擦りガラスの玄関にカーキ色の人影がうつる。横にひかれた戸の向こう側に、お兄ちゃんは顔を出した。廊下で立っていたあたしの顔を見るなり、お兄ちゃんはぴくんと体を揺らして眼をみひらく。
「びびったぁ」
「おかえり」
「…ただいま」
お兄ちゃんはあたしのから目をそらしてつぶやくように、言う。家を出たときは髪がぐしゃぐしゃになるくらいどぎつく染めていた金髪も、今ではすっかり芯まで真っ黒で、まるで違うひとのようだ。お兄ちゃんは重たそうなキャリーバッグを持ち上げて敷居をまたぎ、後ろを振り返った。お兄ちゃんの背中の影から、ミユキさんが首をのばす。
「サトミちゃん、おひさしぶり」
おひさしぶりです、と軽く頭を下げたあたしは、ミユキさんの腕の中のものを見ていた。ずっしりとした丸い顔と、やぶけそうに薄い肌、不機嫌そうな表情。
「ユキヒコ、ていうのよ」
ミユキさんは、チョコレートを舌の上で溶かしているような言い方をした。ユキヒコは、お兄ちゃんとミユキさんの子供だった。きゃしゃなミユキさんの肩のむこうから、外の冷気がどっと流れ込んできていた。
暗くておもったるい我が家に、ぱっと明かりが灯ったようだった。ミユキさんが座っているところを中心にして、空気はしらじらしいぐらいに浮き足立っている。いつも口を一文字に結んでいる父も、不満そうにくちびるをとがらせている母も、ユキヒコの前では尊く笑っていた。
「さっき車の揺れで起きちゃったから、ちょっとご機嫌ナナメなんですけど」
ミユキさんは、ぐずついたユキヒコをあやしながらつぶやいた。ミユキさんの色味のうすいぷっくりとしたくちびるの横には、小さなほくろがある。ほそく伸びるうなじには栗色にたゆたう髪の毛。きれいにぴんと張られた肌はどこも隙がない。ミユキさんは綺麗だった。心臓の音を聴くように、ユキヒコは額を彼女の胸に押し付けている。母がユキヒコの顔をのぞきこみ、かわいいわねえとつぶやいた。
「眼は、ミユキさん似かしら」
「そうですね。でも口が大きいでしょう」
「ミチヒコに似てる」
「ええ。かわいくって」
母はあまいため息をついた。ミユキさんからも幸せそうな微笑みがこぼれる。父は二人のすぐ傍に座って、だまってユキヒコを覗きこんでいた。今時、ドラマでもこんなシアワセは見つからない。あたしはそんな、ぽっかりとスポットライトをあてられたような空間を、壁に身体を預けながら見下ろしていた。もしこれがほんとうにドラマだとすると、あたしの役はいったいなんなのだろうか。セリフを与えてくれるのなら、嫌味な役くらいすぐにやってみせるのに。
「サトミちゃんは、今年大学生になるのよね?」
ミユキさんの、気を使ったような発言が寄せられた。ふ、とスポットがフェードアウトして、父と母になんとなく意識を向けられたような気配がする。
「はい。一人暮らししようとおもって」
「いいわね。でも、困ったことがあったらいつでも頼ってよ?」
しろい八重歯が、くちびるの間からのぞいている。あたしがきちんとうなずいたのを見届けてから、ミユキさんはまたユキヒコを揺らし始めた。ゆらゆら。ゆらゆら。父と母の視線もまたそっちに流れてしまう。ユキヒコの表情はすべてを浄化するようにきよらかで、途方もない。あたりを窺うような大人しいヒーターの音と、ユキヒコがもらす二酸化炭素が、あたしを縛りあげていくようだった。だれにも気付かれないうちに、踵を返して空間を出ていく。一枚のドアのむこうはまた、別世界のようにつめたくて静かだ。
階段をあがって、まっすぐいった突き当たりの部屋の前に立つ。ちょうどあたしの目線のあたりに、木のプレートに張り付けられたアルファベットが並んでいる。もう塗装がはがれてしまってずいぶん汚い。ドアをノックをしようとして手をあげると、うっすらと隙間があいていることに気がついた。お兄ちゃんが部屋にいる気配が、その隙間から流れ出ていた。わたしはドアノブをにぎり、つよく力を入れてひねる。
目に飛び込んできたのは、お兄ちゃんが好きなバンドのポスターだった。だけどそこにバンドのメンバーはひとりも映っていなくて、並べられた文字列とにじんだ色彩だけが載せられている。これはずっとむかしから、お兄ちゃんの部屋にあったものだった。ラックに並べられたCDの前で、ホコリを被ったギターがひかえめに沈黙している。
「おまえ、俺の部屋はいったろ」
ベッドの上で壁にむかってねそべっていたお兄ちゃんが、くぐもった声をあげた。わたしはドアノブを持ったままで、お兄ちゃんの背中をながめる。すこし華奢になったようにおもった。
「はいってないよ」
お兄ちゃんはわたしがそれを言い終わる前に、ゆるゆると左手をあげて、ラックのほうを指差した。整頓されたCDの隙間。ぽっかりと空いたその空間に、わたしはようやくドアノブを離して、ベッドへ近付く。
「CDが一枚ない」
「ごめんね」
「ベッドもおまえのにおいがする」
「ごめんなさい」
わたしの声が近くなってゆくのを、お兄ちゃんは気が付いていたのだろう。わずかに身を揺らせて、壁に額を押し付けている。そうやっていつもわたしから眼を背けるんだ。お兄ちゃんはいつだってずるいの。わたしの心はじくじくと揺れて、鼓動がはやくなっていく。
「お兄ちゃん、ひさしぶりだね」
「…俺、ずっと運転してて疲れたから、寝る」
「どうして」
きん、という耳鳴りが、空白に共鳴する。お兄ちゃんは額を壁にくっつけたまま動かない。
「ねえ、どうして」
「……なにが」
「お兄ちゃん」
「さわるな」
「なんで」
「さわらないでくれ」
「ねえお兄ちゃんあたし、もう子供じゃなくなっちゃうよ」
ベッドのそばにうずくまって、お兄ちゃんの背中に手をのばす。くちびるからは白い息がこぼれて、つめたくて救いようのない空気が押し寄せてあたしたちを包んだ。きれいにきれいに整えた爪の先がとどかない。この背中はあたしが生まれたときからそこにあって、そしていつまでもそうだとおもっていた。あたしは、冬がこんなにさむいなんて知らなかった。お兄ちゃんは教えてくれなかった。
「頼むから、さわるな」
お兄ちゃんがしぼりだすように言う。かなしい声で言う。そんなに苦しいあたしをひとりぼっちにする。
「お兄ちゃん、」
あたしがそう言った瞬間、ユキヒコの泣き声が落雷のように響き渡った。そうして、あたしのすべてを奪った女がお兄ちゃんの名前を軽率に呼んでいる。ユキヒコと共に呼んでいる。「お兄ちゃん、あたしのことメチャクチャにしてよ」お兄ちゃんはまた聞こえないふりをする。もうなにもいらない。殺して。
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きっともっと単純なこと
「あのぉ、休みの日とか何してるんですかぁ?」
「……カタツムリ観察してる」
頭の軽そうな(ついでにケツも軽そうな)女の客に絡まれた中尾さんが、無表情でそう返した時。それが、あたしの運のツキだった。ひゅるんっと音がして、あたしはやすやすと恋に落ちたのだ。ここのカフェでバイトをはじめてたった3日。まだメニューも覚えていなかった。
中尾さんは、ここのカフェのオーナーの甥っ子にあたるのだという。29歳。独身。ぼさぼさに伸びた髪の毛の色はアッシュグレー。キッチン担当のアッコさんが訊くに「地毛です」とのことだったけど、ふつうにつむじのあたりが黒い。うすいくちびるの下に一個だけ、控え目な黒子。ぱきっとした鼻と、常に眠たそうなのに、すべてを見透かしているみたいな眼付き。これはまさに、女にもてるタイプだ、とあたしは直感的におもった。そして同時に、あたしはこんな男には惚れない、ともおもっていたのに。3日でその信念はくずれさった。あたしは結構、単純である。
中尾さんは朝の8時から夕方の5時まで働く。あたしは11時から8時。かぶっているのは7時間、その間の会話はほとんど無いにひとしかった。だって中尾さんはだいたい、しゃべらない。眠たそうにまばたきをしながら、10訊かれれば3返す、ぐらいの割合だ。会話をしようという気がない。
3番、コーヒーまだみたいです。「うん」
ご飯先行って下さい。「うん」
ここのカルボナーラっておいしいですか?「うん」
あ、いけない。5番さんの注文が。「うん」
これは会話なのか。会話じゃないな。昼間のピークがすぎた店内で、テーブルにこびりついたデミグラスソースを拭いながら考える。おもえば、あの客には懇切丁寧カタツムリのことを教えたくせに、なぜあたしには「うん」としか言わないのか。むしろ、「うん」で返せないことを訊いてみようか。中尾さんはイスの下に落ちたおしぼりのビニールを拾っている。
何を訊こう? いっそ、カタツムリのことを問いただしてみるか?
「あの、中尾さ、」
「中尾くーん、お昼たべな!」
アッコさんの声がキッチンから飛ぶ。べつにここは中華料理屋でもなんでもないのに、お客さんにも聞こえるくらいのその掛け声はどうなんでしょうか。あたしが睨むに、アッコさんはオーナーの愛人なのだけど、お昼のドラマで見るような愛人の艶やかさはかけらも無いひとだ。中尾さんは腰をあげて、のそのそとキッチンのほうへ向かっていった。
お昼ごはんは、だいたいピークがすぎて少ししたら振舞われる。だいたいは、アッコさんが適当に作ったものなので、あまり過ぎたスープにいろんなものがぶち込まれていたり、へんな肉のかたまりがドーンと皿に乗っていたりする。アッコさんのまかないはおいしいんだけど、いまいち品がない。いつもお客さんの前にでているものは、オーナーが盛り付けを担当しているから、ずいぶんきれいなんだけど。
キッチンの隅にある小さなテーブルと椅子に座り、中尾さんは、アッコさんの野菜炒め(みたいなやつ)とスープ(みたいなやつ)に手を合わせた。あたしは、デミグラスソースまみれの指をあらうために、カウンターの裏にあるシンクの前に立つ。こそこそ、中尾さんの横顔をながめた。今日は、来たときの「おはようございます」「うん」という会話しかしてない。いやこれ会話じゃないって。
「うみちゃん、仕事なれたかな」
「それなりに……」
「そう」
オーナーがシンクの傍にきて、あたしが出した水で手を洗いはじめた。あたしはまだ、べとべとの指をもてあます。オーナーは小ざっぱりした清潔そうな人だけど、鼻がすこし曲がっている。アッコさんは「昔やんちゃしてたらしいよ」なんて笑っていたけど、あたしはこの人が喧嘩をするようなところが想像できなかった。ぴっぴっと水を払ったオーナーは、コックを捻って水を停める。
「あ、」
「ん?」
「いえ…」
あたしは人になにかを強く言うことができない。よって、デミグラスソースをどうすることもできなかった。オーナーがシンク下のタオルで手を拭き、キッチンに引っ込んで行くのと交代で、アッコさんが顔をだしてくる。
「なにしてんの? 指きたないね」
「いや……、あの、アッコさん」
「ん?」
おそるおそるコックをひねって、控え目な音をたてながら手を洗うあたしの横を、アッコさんが通り抜ける。コーヒーメーカーを操作している後姿に、また声をかけた。
「中尾さんって…、いつからここに?」
「え? そうだね、うみちゃんの入るちょっと前」
明確じゃないな。タオルで指を拭って、まつげにかかる前髪をぴんとはねのける。アッコさんは茶渋のひどいカップでコーヒーをすすっていた。
「中尾さん……寡黙な人ですね」
「そう? ふつうにしゃべってない?」
「え、えっと、あたし相槌しかもらえなくて」
「人見知りなんでしょ」
アッコさんは適当だ。まあそれはいいとしても、やっぱり中尾さんは、他の人とはきちんと会話をしているようにおもえた。心の底からどろっとした感情が押し寄せる。あっ、いやだ、きらいなやつ。あたしは単純で、かつ変に繊細なので、こういうのがとても気になる。
「嫌われてるんでしょうか……」
「そんなわけないって、大人なんだし」
やっぱコーヒーはブラックよね。うみちゃんどうおもう? アッコさんはどうでもいい話をしはじめた。あたしコーヒー飲めません、と返す。
「中尾さんって……生きててたのしいんでしょうかね…」
「うみちゃん、それ、ドツボ。余計なお世話でしょ」
掃除用の箒を持ったまま、びし、っと指をさされる。閉め作業中、アッコさんのむきだしの額がまぶしい。あたしが入って二週間、未だに中尾さんとの距離は縮まらず。あたしとアッコさんの距離はさらっと縮まる。いや、べつにいいんだけど。なんだかんだで、あたしが中尾さんのことを好きになってしまったことに気付いたアッコさんは、あたしの思考をひっくりかえした。
「うみちゃん、だからさぁ、自分で誘えばいいじゃん中尾のこと。ごはんとか、行けば?」
中尾だって。あたしは未だに、中尾さんとしか呼べない。そして帰ってくる返事はいっしょ。
「中尾さんがなんか食べてるのとか、想像つかないです」
「食べてんじゃん、昼に。ばくばくと」
「いや、あれは……ちがうんです。ひとりでいるとき、何してるかわかんなくないですか?」
「そりゃあ……知らないけど」
興味ないし、との一喝。アッコさんが興味あったら、あたしがこまる。今日も中尾さんは5時きっかりに仕事をあげて、さっさと帰ってしまった。あたらしい発見はといえば、中尾さんはちょっと考え込むような動作をするとき、息を停めるとくせがあること、ぐらいである。
「ていうか、なんで? なんで中尾? まあイケメンだけどさ。客にもモテてるし。中尾狙いでここ来てる子、けっこう居るよね」
「えっ、やっぱりそうなんですか」
「まあふつうに。それよりうみちゃんは、良い人ほかにいないの? あんな早々から人生に疲れきってそうな人間じゃなくてもいいでしょ」
「そんな言い方しなくても」
「そもそもなんで好きになっちゃったわけ?」
「えっと……、カタツムリが」
「はぁ?」
からんからん、とタイミング良くベルがなった。もうクローズの看板は出していたはずなのに、とおもいながらアッコさんと顔をあげると、そこにはまさに渦中の人物。ねむたそうな眼があたしたちを眺めている。アッコさんが箒を持ちかえながら、あれぇ、と靴を鳴らす。
「中尾、どうしたの?」
「忘れ物が」
「え? なに、なに忘れた」
「携帯を」
「うわそれ、今まで気付かなかったの? もう8時過ぎてんのに」
アッコさんとさらさら会話をしながら、中尾さんはこっちに近付いて来た。ぎょっとして身構える。足の裏からのぼって来るような過敏さを、ひしと感じていた。打ち鳴らされる鼓動と、にぎりしめた箒。中尾さんはここを出たときと同じ格好をしていた。黒いジャケットと黒いスキニ―ジーンズ。くたびれた灰色のシューズ。格好も、仕草も、いちいちあたしのなかに沈み込んでくる。あたしがこんないろいろを考えていることを知ってか知らずか、中尾さんはカウンターの裏にまわり、一瞬しゃがんで、すぐに立ち上った。
「なに? 帰るの? 急ねえ」
一礼をして、ドアに手をかけはじめた中尾さんの後姿に、アッコさんが言葉をなげかける。そうしてあたしを一瞥してから、だるそうに箒に体重をかけはじめた。
「ねえ中尾、うみちゃん送ってってあげてよ。この間の帰り道で、こわいおもいしたんだって。オーナーは今日いないし、中尾くんこれから帰るんでしょ?」
えっ。肩がはねる。今、これは、あたしの話をしてるのか?
アッコさんの眼がじとりとあたしを見つめていた。わたしにこんなことさせないでよと言わんばかり。いや、してほしいなんて一言も。同じく眼で返そうとすると、ドアノブを捻った中尾さんのほうから、またからんからん、とベルが鳴った。
「ちょっと、中尾、聞こえたでしょ?」
「……外で待ってるので」
からんからん。ドアが閉められる。あたしは箒ににじむ汗と、一瞬の出来事でぐちゃぐちゃにされた脳内で、いっぱいいっぱいだ。めんどくさそうなアッコさんに肩を叩かれても、なんの反応もできない。恋に落ちて二週間…もたってない、ろくな会話も、まだできてない、のに。
ドアを開ける。ベルの音は耳に入ってこない。すぐ傍の壁に身体を預けていた中尾さんは、なにをするでもなくじっとしていた。あたしのことを認識すると、ポケットの中に入れていた手を出して、力無くぶらさげている。沈黙しているのはあたしたちだけのはずなのに、なんだかふわふわと、うまく鼓膜が閉じられていた。中尾さんはしばらくそのままでいたけれど、あたしがなにも言わないのを悟ってくちびるを開いた。
「お家はどこ」
「あ……ぜんぜん、あの、すぐそこなんですけど」
「うん」
「あ、あっちです、あっち」
あっ、これって、会話だ。ようやく、やっと、会話できた。あたしの心はどんどんと満たされてくる。ショルダーバックのヒモを握りしめながら、中尾さんと一緒に歩き出した。あたしのほうが少し先を歩いている。中尾さんは、あたしの足跡を確かめるように、後ろを。こんなことをおもうのはおかしいけど、とにかく中尾さんは人間味のない人のような気がしていたから、あたしの姿が見えているんだ、なんて変にうれしくなっていた。中尾さんがシューズを引きずって歩くような音がはっきり聞こえる。
「あ、あの、中尾さん」
「うん」
「……カタツムリ…の観察」
中尾さんのシューズの音がいっしゅん、遅くなった。あれっとおもいながら、ほんのすこしだけ振りかえると、中尾さんはいつもどおり緩慢なまばたきをしながらあたしを見ている。
「カタツムリの観察、してますか」
「…ううん」
ううん。ううんもらった。いや、なんというか、人間はこんなに不審そうに「ううん」って言えるんだなって、とりあえずそれだけ考えて、いやいや、と首を振る。歩きながらきちんと振り返って、中尾さんのさむそうな喉仏のあたりを見た。
「中尾さん、お休みの日、カタツムリの観察してるんじゃないんですか?」
「…ううん」
二回目の、ううん。ふくれあがっていた、あたしのしょうもない恋心とか、ときめきの気持ちが、ふしゅうっとしぼんでいくのを自分でも感じる。カタツムリの観察、してないんだ。しかもそんな、あたしが変な人みたいな眼。ちょっと距離をあけられている気がする。伸びる街灯の影が、あたしと中尾さんに隙間をつくっていた。
「……あ、猫の」
「えっ?」
「猫の観察してる」
中尾さんはちょっと笑っていた。あたしは息をぐっとのみ込んで、口角の上にすこし寄った皺を凝視した。中尾さんの笑顔はすぐに薄れて消えてしまったけれど、あたしの脳内にはくっきりと、その表情がうつしだされている。猫。猫の観察をする、中尾さん。ふわふわの猫の毛が風になびくのを見ながら、中尾さんはどんなことをかんがえているんだろう。あたしのなかでぺしゃんこになっていたはずのものが、しゅこしゅこと空気を入れられるみたいに、また息をふきかえした。
ねえ中尾さん、あなたのこともっと知りたい。
あたしはそう言うために、中尾さんに一歩ちかよった。中尾さんはちょっとねむそうな顔で、じいっとあたしを見ている。
「そして誰もいなくなった」
10/6~7 【Silent】
「そして誰もいなくなった」
作演出・梅子
音楽・キラークイーン @killerqueen_k (http://killer-queen.jimdo.com/)
続きから、セリフの詳細です。
インザプール
もう夏がおわってしまった ほんとうは泣きだしたいくらいさみしかったわたしは、9月になってもおもいを捨てきれないで ゆらゆら揺れるプールの水をながめていた すこし元気のない太陽の光に照らされた波が、わたしの眼をくるしめる そしてそっと視線をあげると、そこにいちごちゃんがいた
ながい髪の毛は水に浮いてちらばり、黒いスカートもふわふわと漂っている いちごちゃんはプールにしずんでいた 肩から上はなんとか出ているけれど、その表情はどこかさみしげだ きっといちごちゃんも夏がおわるのがいやなんだ わたしがプールに行こうといったとき、いちごちゃんはなんにも言わずにうなずいてくれた
空に浮いてるみたいよ
いちごちゃんはそう言った キャミソールのしたにある下着が、水のせいで透けてしまっていて わたしはどこに眼をむけたらいいのかわからないから、いちごちゃんの髪の毛にそっとふれてみる ふれようとすると波がでて、いちごちゃんの髪の毛はふわりと逃げた
あ、
ねえれもんちゃんも、おいでよ
…でもわたし
わたしの胸は、まだとってもちいさかった だから下着なんかつけていなくて、キャミソールだけがシャツの下にじっとおしだまっている 他の子のことなんてよくしらないけど、たぶんきっと、わたしはちいさいほうなんだ いちごちゃんの胸はみんなよりすこし大きくて、前に腕があたってしまったとき あんまりにもやわらかくてびっくりしてしまったことがあった どうしたらそんなにおおきくなるんだろう かんがえながら、いけないとおもいつつも、いちごちゃんのそこに眼がいってしまう
れもんちゃん、あたし、さみしいの
いちごちゃんがわたしから眼をそらした じっと見つめていたかったのはわたしのほうで、さみしいのもきっとわたしだけだ いちごちゃんがひきとめようとする夏はもう帰ってしまった すぐそばに秋がきている
ねえいちごちゃん 風邪ひいちゃうよ
れもんちゃん、おねがいよ こっちに来て
でも、
れもんちゃん
いちごちゃんがこっちを見た 一度頭の上までつかったいちごちゃんの前髪はしっとりと濡れて、ひたいに張り付いている くちびるはすこし色を失くしていた ふるえているように見えて、はっとする
れもんちゃん、ひとりにしないで
いちごちゃんは泣いていたのかもしれない だけどぬれたほっぺたがあるだけで そうなのかそうじゃないのか、わからなかった わたしは、息をのんでから、そろりと、足を水面につける ゆっくりゆっくり、水圧にさからいながら、いちごちゃんにちかづいた いちごちゃんはやがて、たえきれなくなったみたいにして、わたしにだきついてくる ゆるやかな波紋がきれいで きれいで きれいで、
いちごちゃん いちごちゃん いちごちゃん
ただいちごちゃんの名前を呼んだ なんてうつくしい名前なんだろうと、おもった
わたしが泣いていることに、気が付いていないふりをして いちごちゃんはわたしの胸にすがりついていた わたしの小さな胸が、おしつぶされそうで、だけど、いとおしくて わたしはいちごちゃんをだきしめかえす
れもんちゃん、好きよ、あたしのれもんちゃん、ずっといっしょにいて
いちごちゃんは、かぼそい声で、うたうように、言った わたしは、お返事のかわりに、ひたすらいちごちゃんをだきしめる いちごちゃんの、プールでひえた大きな胸が、わたしに ふれていた 心臓がとびでてきてしまいそう と、おもいながら ほろほろ、泣いた
---Special Thanks / Kuchiba---
プリンス・ルージュと世界の呼吸
あたしは歌が好きだった。くちびるに言葉を乗せて歌うのが、たまらなく楽しい。安物のイヤホンを鼓膜ぎりぎりまで突っ込んで、誰かが魂を叫ぶのを聴いている。それなのに彼女はただ、とても分厚いヘッドホンで耳栓をしたまま、筆を動かしていた。彼女は自分のことを絵描きではないと言った。だけどあたしは彼女が、絵を描くことを知っている。眼の前にあるキャンバスはいつだって何色かに染まっていた。白いキャンバスなんて見た事が無いかもしれない。外にある大型デパートの最上階にある、屋上遊園地の自販機で買えるセブンティーン・アイスは、ここまで持ってきた所為ですこし溶けてしまっていた。慎重に、紙をはがす。
「セブンティーンでもないのに食べるんだね」
とんでもなく大きな声で彼女が言った。びく、と震えた肩がかっこ悪くて、ちょっと深呼吸、なんてごまかしておく。それでも彼女はきっとそのことを知っているから、あたしはあえて口に出さないで、溶けかけたチョコミントに噛みついた。今の彼女に何を返しても聴こえない。彼女は音にとり付かれている。あたしは声、彼女は音。それは大きな違いだったし、相容れない太平洋と空みたいなものだった(ただし、それらはとてもよく似ている)。
リズムに揺れる首や白い腕が、筆先だけ押し黙らせて線を引く。彼女が描くのはこの世に実在しない少女ばかりだった。それなのに、少女独特の表情や影がとてもリアルで、あたしはいつも、少女たちの所在を尋ねてしまう。そのたびに彼女は「さあね」と笑うのだ。ときおり、このこの世にしか存在しないどうしようもない人に触れて、おもしろがるのも趣味らしい。それは自分自身に対してもおなじだと言う。どれだけつらくても、くるしくても、その想いをキャンバスにしかぶつけない彼女の横顔は、とても儚かった。
うたうか、うたわれるかと、ポケットから音楽プレイヤーを取り出して、ちきちきとまわしているうちに、彼女の手がとまった。くるりと振り返ったその長い黒髪の先には、白い絵の具がすこし、ついている。やっとのことで外されたおおきなヘッドホンは、彼女の細い首にからまった。ぼうと見つめながら、とけかけたチョコミントにかぶりつく。彼女が口をあけたので、そっとそれを差し出してやった。アイスを咀嚼するそのくちびるの端にも、赤が付いていて、ちょっと素直じゃないルージュのように見える。
「ねえ」
「なに?」
「どうして、音を聴くの」
「…どうしたの?」
彼女は、くすりと笑ってくちびるを舐めた。それを見ないようにそっと眼を逸らして、キャンバスの後ろにいつも置いてあるあたし専用の椅子に腰をかける。
「べつに…あたしは音より、言葉を聴いている人だから」
「ああ、そういうこと…そうね、べつに嫌いじゃないのよ」
ついに彼女は、あたしの手から食べかけのチョコミントを取りあげてしまった。そうして、あたしの椅子の横にある彼女専用のそれに座る。ショートパンツから出た長い足がぶらぶらと舞った。剥き出しの爪先にも色がついている。彼女のほんとうの色は、どこだろうか?
「ただあれは朗読作品だと思ってるだけ。ミュージカルみたいにね…」
そう呟いた彼女は急に立ち上がり、チョコミントを杖のように振って、くるりと回転し、王子様がするようなお辞儀をした。振り回されたチョコミントはどろどろと溶けて、彼女の指にすがりついていく。ふうん、と呟けば、王子がうつむいたまま、息を吸った。
「音楽を聴いていると、色が浮かぶ。頭の中のキャンバスに色がついてゆくの。情熱に心が溶かされて、それから出来た絵の具が散らばり、絵の具は音に乗ったまま、わたしの頭のなかを飛び回ってゆく……わたしに息衝くのは世界の呼吸…」
王子がゆっくりと顔をあげる。その瞬間、世界の色が散ってしまって、あたしはひとり、取り残された。モノクロの世界でも彼女と、彼女の絵はただ昏々と、鼓動をのさばらせている。あたしが言葉を世界だと言うように、彼女は色が世界だと言った。たとえこの世から彼女が消えても、心を溶かした絵の具は消えることなく、世界に浮かぶのだ。彼女の分厚いヘッドホンから零れ落ちるエレクトロニカは、極彩色になって床を彩ってゆく。やがてモノクロのあたしの足元にまで及んだそれは、ただ生温く、あたしを侵食してしまった。
「…心を削ってしまったら、いつか君のすべてが無くなってしまうよ」
「そうなったらあなたがまた、わたしの心をくれるでしょ」
指先についたチョコミントを差し出す彼女に、あたしが逆らえる道理も無い。
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